佐渡の概略
  


順徳上皇

☆鎌倉幕府
いわゆる、源平合戦で平氏を滅ぼした源頼朝が「文治の勅許」(ぶんちのちょっきょ)により、文治元年(1185)に軍事、行政官(=守護)や税金集めなどをする地頭を任命する権限を得て幕府の制度を整えた。
近年はこの年をもって「鎌倉幕府」の成立とみなす説が有力である。
つづいて、建久3年(1192)7月に源頼朝が征夷大将軍に任じられ、東国の武士団を次々と配下に収めて幕府体制を強固なものへと確立していった。しかし、西国にまでは統治するには至らなかった。従って、西国は依然として朝廷を重んずる、いわば、東国は幕府に従い西国は朝廷に従うという二頭政治体制であった。
鎌倉幕府体制を整えつつあった頼朝ではあったが、正治元年(1199)1月、突然に死去してしまった。一説には落馬により死亡したとも言われている。ただちに、将軍に就任したのは嫡男であった源頼家であったが若干18歳であった。有力御家人の中には頼家に全ての政務を任せることに不安をおぼえる者も多く、有力御家人の13人が合議で政治を行うこととなった。この合議制の中心にいたのが北条時政、義時父子であった。建仁3年(1203)、頼家の外祖父であった比企能員(ひきよしかず=娘の若狭局(わかさのつぼね)を頼家の側室としている)が北条氏をも脅かす権勢を強めたため、頼家の母である北条政子と祖父北条時政は比企氏を打倒するとともに、頼家を伊豆修善寺に幽閉した。そして、政子らは朝廷に対して9月1日に頼家が死亡したとの虚偽の報告を行い、朝廷は9月7日に実朝を従五位下、征夷大将軍に補任をした。この時実朝12歳であった。さらに、北条氏は無用となった頼家を元久元年(1204)7月、修善寺において暗殺し、時政は幼将軍実朝の補佐役として執権職に就いた。しかし、時政は翌元久2年(1205)、実朝の将軍職を廃し娘婿の平賀朝雅(ひらがともまさ)を将軍にしようと画策したため、政子とその弟である義時により平賀朝雅は抹殺され時政も引退させられた。代わりに執権職に就いたのが義時であった。その後、実朝は次々と昇任を重ねていったが、建保7年(1219)1月27日、雪が二尺余りも積もる日に八幡宮拝賀を終えて退出の途中で兄頼家の子公暁(くぎょう)により刺殺された。
頼朝の直系が断絶をしてしまった幕府は、紆余曲折の末、建保7年6月に頼朝の遠縁に当たる摂関家の幼児藤原頼経(ふじわらのよりつね・九条頼経ともいう)を新将軍として迎えたりしたが、政治の実権は政子と義時姉弟が掌握していた。

☆北条政子についての検証
皆さんは、源頼朝の妻であるのに、源政子でなく、なぜ北条政子と呼ばれるのか疑問に思ったことはありませんか?
多くのメディアでは、最初から「北条政子」と書き出していますが、それは大きな間違いである。
実は、政子の幼少の頃および頼朝と添い遂げてからも正確な名前は判っていない。
建保6年(1218)4月14日(すでに頼朝と頼家は死亡している)に朝廷より、従三位に叙された際に、父北条時政から「政」の一字をもらって名乗り、父が時政「ときまさ」と呼ばれていたことから、政子も「せいこ」ではなく「まさこ」と呼ばれたのではないかとする説が有力なのだ。
さらに、同年10月12日には従二位に昇叙し、4年後に剃髪をし「二位尼」(にいのあま)と呼ばれた。
また、尼将軍と呼ばれながらも「政子」という署名などは、現在、全く見つかっていない。ましてや、「政子」にルビ(ふりがな)を付けた史料も一切見つかっていない。
鎌倉幕府の公式記録である「吾妻鏡」(あづまかがみ)には「平政子」として出てくるが、より多いのは「二品禅尼」(にほんのぜんに)と書かれている。
「二品」という呼び方は、「二位」(従二位)を中国の唐名に置き換えれば「二品」になり、吾妻鑑は政子をより際立たせるために、唐風の記載を採用したものと考える。
「品」(ほん)は、中国(唐)の律令制での「一品」(いっぽん)から「四品」(よんほん)まである親王(または、それに準ずる者)の位階。
吾妻鑑の成立は正安元年(1300)頃と言われており、さらには、治承4年(1180)から文久3年(1266)までの鎌倉幕府の事柄が記されている。
従って、吾妻鏡から推測すると、「尼将軍」、「二位尼」、「二品禅尼」、「北条政子」、「平政子」等は共に、夫である頼朝や実子である頼家、実朝なども死亡してしまい「源」の姓を名乗る必要性がなくなり、婚家(源氏)から実家(北条=平氏)への帰属を強めたものと思われる。


☆承久の乱
承久の乱(承久3年・1221)の発端については、諸説があるので、簡単に述べると、
当時の後鳥羽上皇が弱体化した鎌倉幕府に代わって朝廷権力の復活を目指したとも言われており、鎌倉幕府の東国武士団に対して朝廷は親衛隊となる西面武士を集め、幕府寄りであった九条兼実(くじょうかねざね)らの権力を奪った。 
ここでは、白根靖大氏(しらね やすひろ・中央大学教授)の説を紹介しよう。
後鳥羽上皇は治天(じてん=天下を治めること)としての政治力を背景に、家格上昇を望む中流公家層を自己の支配下に置き、さらに、後鳥羽院政の元で摂関家に準じた家格上昇を手に入れていた鎌倉将軍家への影響力の強化を図ろうとしたが、鎌倉幕府の北条氏によりその介入を果たせなかったため、北条氏の排除を考えるようになった。と述べている。
承久3年5月14日、後鳥羽院は「流鏑馬馬揃え」(やぶさめうまぞろえ)と称して諸国の兵を集め、北面、西面武士や近国の武士1,700騎余りが集まった。これだけの兵が集まれば鎌倉幕府打倒には十分と考えた後鳥羽院は、翌15日には諸国の朝廷側と思われる御家人や守護、地頭らに北条義時追討の院宣を発した。同時に、備えとしての近国の関所を固めさせたことで、京方の士気は大いに盛り上がったといわれている。
一方、その頃の順徳上皇はというと、「上皇」、「天皇」とは名ばかりで、皇室の全ての実権は後鳥羽院が握っており、後鳥羽院の手足でしかなかった。そして、当然のことのように後鳥羽院からの入れ知恵だけしか耳には入らず、後鳥羽院が鎌倉幕府を目の敵にし始めると、順徳上皇は後鳥羽院以上に鎌倉幕府を憎むようになっていったと言われている。
承久3年4月、後鳥羽上皇に加担すべく、わずか4歳の皇子懐成親王(かねなりしんのう=第85代仲恭天皇)に譲位をし、以後は、後鳥羽院、順徳上皇として、後鳥羽院と共に5月に鎌倉幕府追討の乱を引き起こした。

☆順徳上皇
佐渡史上においても日本史上においても、まさに一大事件は順徳上皇の佐渡配流であろう。
順徳上皇は承元4年(1210)第84代天皇となるも、鎌倉幕府を敵対視し、承久3年(1221)皇子の仲恭天皇に譲位をして、父後鳥羽院と共に鎌倉幕府追討に立ち上がった。しかし、尼将軍北条政子と執権北条義時姉弟の前に乱は失敗と化した。(承久の乱)
鎌倉幕府は乱平定後、時を待たずして直ちに後鳥羽院を隠岐へ順徳上皇を佐渡へ配流することと決定した。
承久3年7月20日、覚悟はしていたものの順徳上皇は配流の通告を受けると翌21日には京を発った。まことに慌ただしい旅立ちといわなければならない。供回りはわずか6〜7人であったといわれている。それまでの宮廷内での華やかな生活に比べて、何とも淋しい限りの離京であったことであろうか。
なお、こうした「流刑」には、妻(正室)や側室を同伴してはいけない決まりとなっていた。これは、夫婦という最小限の家族単位を切り離しての禁欲生活を強いる「付加刑的要素」を持っていたからである。
佐渡に着いた上皇は1年間位は扶持米(ふちまい=官給食料)が支給されたようであるが、泉(現、金井地内)に御料地を与えられ、供人がこれらの土地を耕して自活の道を歩まれたようである。
一般に、島へ送られた流人(るにん)は、決して土牢などに押し込められるわけではなく、国司や守護の計らいで寺や百姓の名主(みようしゅ=庄屋)などに預けられた。
しかし、上皇の場合は黒木御所と呼ばれる独立したものであったようである。
上皇は遠空の京を想い、堪えがたい不安と悲しみを数々の歌にされている。
”秋風の うら吹(き)かへす さよ衣 みはてぬ夢は みるかひもなし”
苦節22年、いつの日か再び京へ帰れることを夢見ながら仁治3年(1242)9月12日、京より遣わされた薬師和気有貞(くすし わけのありさだ)の治療も虚しく崩御された。御歳46才の心情はいかばかりであったことであろうか。
翌13日御火葬となり、海の穏やかとなった明くる年の春、供人の左衛門太夫康光法師(さえもんだゆうこれみつほうし・上皇崩御直前に出家)の胸にいだかれて京都大原御墓所に納め祀られた。
上皇の在島中に同行の女房たちに皇子が誕生している。
史実としては、貞享2年(1223)、供人の三位清季(きよすえ)の女(むすめ)に忠成王(ちゅうぜいおう)、天福元年(1233)右衛門督局(うえもんとくつぼね)との間に善統王(ぜんとうおう)がお生まれになっている。この御二人は上皇の御遺骨と共に京へ帰っている。
なお、伝承として、上皇が在島中土地の熊野神社の社人の娘が召されて3人の宮を産み、第一皇女慶子女王(けいしじょおう)が畑野地内宮川に第二皇女忠子女王(ちゅうしじょおう)が佐和田地内二宮(にくう)に第三皇子千歳宮が畑野地内三宮(さんぐう)にそれぞれ住まわれたと言われており、二宮、三宮などの地名は残っているが定かではない。


☆真野御陵
真野御陵(まのごりょう)は順徳上皇が御火葬され、翌年の春まで一旦御遺骨を埋葬された場所と言われている。
うっそうとした木々に囲まれた静かな場所で当時を忍ばせる。(現、真野地内)
※佐渡観光の項を参照されたい※