佐渡の概略
  

参考文献等:「羽茂村史」・「羽茂町史」・「佐和田町史」・「真野町史」・「羽茂の歴史」・「佐渡古城史」(田中圭一著)・「佐渡金山史」(田中圭一著)・他

佐渡の概略


☆佐渡という呼び名
「佐渡」という呼び名は日本書紀(巻19)に出てくるところから見て、6世紀頃にはすでに全国的に知られていたものと思われる。その頃の時代背景は、聖徳太子が摂政として叔母の推古天皇を援けていた頃である。
佐渡は周囲約262km、面積約855平方kmで東京都23区の約1.5倍ほどである。昭和期には1市1郡(7町2村)であったが、平成16年(2004)3月1日に全市町村が合併して佐渡市として生まれ変わった。
佐渡市の人口は昭和35年(1960)頃をピークとして11万人余りが居住していたが、少子化や過疎化により平成26年(2014)現在では6万人余りとなってしまっている。


☆SADO
欧文でSADOと書いた時、ちょうど頭文字の「S」の字が島形に似ていることから、各種記章のデザインとして良く用いられている。

☆大佐渡と小佐渡
佐渡は大きく分けて、北の方を大佐渡(おおさど)と呼び、南の方を小佐渡(こさど)と呼んでいる。地形的には、大佐渡は切り立った山並みが多いのに比べて、小佐渡は割合なだらかな丘陵地となっている。
平地は大佐渡と小佐渡の中間に位置する国仲平野(くになかへいや)と小佐渡の南に広がる羽茂平野(はもちへいや)が主要な穀倉地帯となっている。


☆気候等
気候は年間を通じて割合穏やかではあるが、冬には日本海特有の寒気団が上空を横切って越後へと流れて行く。雪は最近ではせいぜい積もっても平地では30cm位であろうか。
こうした日本海の孤島にしては温暖なのは、南からの対馬暖流が佐渡を取り囲むようにして北上しているからかもしれない。
そうしたことを裏付けることとして、能登などで風水害が起きると家財道具や材木片の一部が佐渡の南端の小木の浜へ打ち上げられることもあり、また、この潮流を利用して古くから能登方面との交流は深く、似かよった地名や風俗も数多くみられる


☆遠島の地
史料によると、佐渡配流は養老6年(722)1月20日式部大輔穂積朝臣老(しきぶだゆうほづみあそ(お)みおい)が初めてのようである。
式部大輔という役職名から察すると、宮中での儀式や典礼を司る長官クラスと思われる。おそらく自分または部下が、例えば、当時は高貴な公家などを指差したりすることは大変な失礼なことで、そうしたことをしてしまい、作法がなっていない。典礼の長官として相応しくない。と判断されて島流しになったのではないかと推測される。
京を中心として、罪科により「近流」(こんる)、「中流」(ちゅうる)、「遠流」(おんる)と3ランクに分けられ、佐渡は神亀元年(724)に遠流の地と定められている。
以来、奈良時代、平安時代、鎌倉時代を経て700年間におよそ70名が佐渡へ流されている。
こうした人々の中には、順徳上皇や日蓮上人、観世元清(世阿弥)などの人たちも含まれている。


☆江戸時代
徳川幕府が開かれると、当然のことながら政治の中心は江戸であり、当初は佐渡も引き続き「遠島」(えんとう)という流刑の地としての性格を持っていた。
しかし、寛保2年(1742)の記録の中に「御構場所」(おかまいばしょ=罪人などを送ってはいけない場所)との記録があることから、もうその頃には佐渡は流刑地としては除外されたものと思われる。
その背景として考えられることは、天領地佐渡の金銀が幕府財政の重要な位置を占めるようになり、金銀の産出に力を注いだが、金銀を運搬するために陸路、海路ともに交通網が整備され、佐渡における商業活動も盛んになったため、罪人を隔離するという性格が薄れたためである。
開幕から御構場所となるまでの約140年間に判っているだけで200余名が流され、罪科は密通、盗、切支丹、徒党、火付などと多岐にわたっている。
さて、時代的には、鎌倉幕府から江戸幕府までの間に、いわゆる、戦国時代(信長や秀吉の時代)が約30年間があったが、この頃は、完全な意味での統一国家ではなく、諸国主乱立の時代であったため、佐渡も他国からの罪人を送り込まれることはなかった。


☆流人と遠島と無宿者
多くの人々が「佐渡へ流人(るにん)が流されて、金山の労働をさせられた」と言うが、それは大きな間違いである。
流人は大別して「流刑」(るけい)と「遠島」(えんとう)に分けられる。
「流刑」は主に朝旨(ちょうし=朝廷の決定)により京を中心に公家などが多く、いわば、政治犯的色彩が濃く、佐渡に流されても決して土牢などに押し込められるのではなく、寺や名主(みょうしゅ=ほぼ庄屋と考えて良いだろう)などに預けられ、扶持米(ふちまい=官給食料)が支給されて生活をしていた。そして、佐渡島内から出なければかなり自由に歩き回ることができた。
「遠島」とは、江戸幕府により新設された刑罰の一つで、主に刑事犯を隔離するという性格を持っていた。佐渡に着くと、主に奉行所のある相川の町役や問屋筋が「身請け人」となって彼らを預かり、店で仕事をさせたり手職のある者へは援助をして自活をさせた。基本的には、島に着いたその日からすぐにも自活の道を歩まなければならなかったが、当座の「食事供与」や「御救い」が出された記録も残っている。こちらも、島内から出なければかなり自由に歩き回ることができた。
八丈島や三宅島などでは「村請け」であったが、金山で賑わう佐渡では財力のある者が身請け人となって世話にあたった。
また、浜には漁師たちの小舟もある。越後との距離でも一番近いところでは30km.位しかない。しかし、佐渡では「乗り逃げ」が極めて少ない。遥か海上300kmも離れている八丈島などでは、かなりの「乗り逃げ」の記録がある。それは、溶岩の島で耕地に適さないことによる食料不足が大きな要因と考えられる。
これに対して、佐渡は大きな大地と、割合豊かな作物と島民のおおらかな包容力があったからではないだろうか。流人の中には、島の女と所帯を持ち子どもをもうけて「赦免状」が出ても島に残った者も少なくない。
次に、「佐渡金山」の項で詳しく述べるが、金山の水替労働にあてられたのは「無宿者」であり、罪を犯したとしてもせいぜい博打、喧嘩などの軽微な罪であり、むしろ、「人別帳」に載らないことが最大の理由であった。
従って、「流人」、「遠島」、「無宿者」を同一と考えるのは大きな間違いなのである。