佐渡の概略   


佐渡金山


☆能登の素鉄とり
「能登の素鉄(すがね)とり」の話は、「今昔物語」(こんじゃくものがたり)巻26の15話、に出てくる。
「今昔物語」は12世紀の初めのころ成立した全31巻の物語集である。そこには次のように書かれてある。
「能登の国に、鉄をとって国司に売る人々の集団があった。ある国司の時代、鉄とりが六人いたが、その長(おさ)のいう話に、佐渡の国に金が出るとあったので、それを伝え聞いた国司が、その長を呼んでものをあたえてたずねたところ、長はたしかに佐渡には黄金があると答えた。そこで国司はふたたび、たのめば黄金を手に入れてきてくれるかと問うたところ、つかわさばいってこようという返事であった。そこで、どのようなものが必要かと聞いたところ、人をいっしょによこしてもらってはこまる、ただ小さな舟と食糧をもらいたい。そうすれば出かけていってとってこようといった。そこで国司は、長のいうままに、ひそかに舟一艘と食糧をあたえた。そののち二十日あまり、一ケ月ばかりすぎて、国司がそのことを忘れたころ、くだんの長が帰ってきた。そして黒ばんだ包みにつつんだ砂金を国司の袖の上においた。そののち、この長はいずこともなく消えうせてしまった。国司は人にたのんで、東西を探させたがついに行方を知ることができなかった。きっと金のありかをたずねられることがいやでいなくなったのであろう。長のもってきた黄金は全部で千両ほどあったとか。だから能登には佐渡へいって金を掘れということがよくいわれる。この長ののちもきっと黄金を掘りに人々は佐渡をおとずれたことであろう」
この話に出てくる「砂金」が採れる山は、佐渡では西三川川(にしみかわがわ)しかない。
だが、徳川時代中期につくられた「佐渡相川志」では、
「西三河砂金山は、寛正元年(1460)にはじめられ、永正10年(1513)に中絶した。ところが、文禄2年(1593)から再び稼がれることとなった」
と記されている。
また、「佐渡年代略記」では、
「西三河の百姓があるとき、畑でつくった葱(ねぎ、ニラとの説もある)を港にもっていって売った。そのおり、港でそれを買った水主(かこ=船乗り)が、その根についていた砂のなかから砂金をみつけた。そこで水主は百姓にたのみ、西三河につれていってもらい、畑主に償いをはらって畑の土を川にもち出し、それを洗って砂金をとった。そののちもこの水主はたびたびこの地をおとずれてそれをつづけ、しだいに堀りひろげた。そこで、村人ははじめて砂金がとれることを知って、それからは他国の者にわたさず、のちには川を分け引いて土砂を流し砂金をとった。そして、一ケ月に十八枚ずつ砂金を運上した。西三河の笹川十八枚村はこうしてできた」
とあるが、もちろんこのような話は全国各地にもみられる話である。だが、この「佐渡相川志」と「佐渡年代略記」を読み比べてみると、寛正年間に稼ぎが始められたことと、時期を同じくして尾張国羽栗郡から一向宗の門徒たちが集団で渡って来て西三河を中心として定住し、稼ぎが盛んになりはじめたこととが、まさしく、一致するのである。従って、かならずしも根拠のない話としてかたずける訳にはいかないのである。
なお、現在では佐渡市真野地内西三川(河⇔ではない)として地名が残っている。

☆佐渡へ渡った太子衆
「太子衆」(たいししゅう、または、太子講)の人々は、その名が示すように「聖徳太子」を奉ずる人たちである。聖徳太子を祀る神社はあまり知られてはいないが、聖徳太子は日本へ初めて「曲尺」(かねじゃく、または、さしがね)を広めたことでも有名であり、建築関係の神様と崇められている。そして、これらの人々は聖徳太子を奉じて城や寺院、橋梁建築等にその技量を発揮した「特殊技能集団」と位置づけられている。太子衆の中には、当然のことながら一向宗門徒も多く含まれている。この太子衆が佐渡に渡った理由は何だったのだろうか。それは、言うまでもなく「一向宗への弾圧」だったのである。
佐渡の赤泊地内莚場(むしろば)に浄土真宗本龍寺という大きな寺がある。
寺伝によると、釈善性(しゃく ぜんせい)上人が本願寺河野門徒の一団をひきつれて文正元年(1466)にこの地に渡って来たのだという。
この頃の善性の周辺をみてみると、本願寺は比叡山と激しく争いを繰り返していた頃である。寛正6年(1465)には蓮如が僧徒に襲われて近江の堅田(かただ)に逃げた。善性はそのとき蓮如と何らかの具体的な関係があり、蓮如が逃げたのと同様に善性も佐渡へと逃れたものと考えられる。
そして、河野門徒についてであるが、尾張国羽栗郡河野は木曽川の流域にある村で、中世には真宗教団が大きな勢力を持った「河野八門徒」の地である。善性はこの河野門徒たちとも何らかのつながりがあり、ともに佐渡へ渡ったのであろう。
こうして、河野門徒の中に「太子衆」もおり、彼らが佐渡で治水、灌漑技術をもって砂金の採取に当たったものと思われる。「佐渡相川志」で見られる「寛正元年にはじまる」との記述とほぼ一致するのである。
この頃の佐渡は幾つかに分割されて本間氏一族により統治されていたころである。そして、彼らは砂金を一ケ月に十八枚を領主である羽茂本間氏に納めたのが笹川十八枚村の起こりである。
さてここで、「枚」という単位が出てきた。1枚は約43匁(もんめ)であり約161.3グラムである。従って、18枚≒774匁≒2902.5グラム≒2.9キログラムとなる。

☆逃げ去った門徒たち
上杉(長尾)為景が越後の覇者となったころ、越中や加賀では一向一揆の最中であり、為景も越中方面の一向宗門徒の排除に力を入れざるをえなかった。
大永元年(1521)2月、為景は越後領内に「無碍光衆(むげこうしゅう=一向宗)禁止令」を発した。
佐渡も越後領内の一部であり、特に佐渡の羽茂(はもち)本間氏は為景との姻戚関係でもあったことから、いち早く曹洞宗へと改宗した。
だが、元亀4年(1573)3月、上杉謙信の代になってから、佐渡で激しい一向一揆が起きた。
「上杉年譜」によると、上杉氏の代官として佐渡に駐在していた蓼沼右京亮(たでぬまうきょうのすけ)は、一揆が起きると押し寄せる一向宗門徒たちの網の目をかいくぐって、一揆発生を春日山城に報せるとともに、自らも少ない手勢で戦ったが、ついには討死してしまった。とある。
この一揆の原因として考えられることはただ一つである。
それは、戦乱の世における軍事資金としての金銀の取立てが年々増大していったためである。越後は米どころであり割合豊ではあったが、米の収穫は秋だけの年1回であり、すぐにも、いつでも使えるのは金銀にほかならなかったからである。
しかし、この一揆には、佐渡を分割統治していた各地の本間城主たちも少なからず関わっていたのである。
謙信は直ちに神洞城主甘糟藤右衛門景継に多くの兵をつけて派遣し、ようやく一揆を鎮圧することができた。そして、その後の謙信に従った者として、羽茂(はもち)城主本間太郎左衛門高信、吉田城主三河氏、雑田(さわだ)城本間山城守、河原田城本間孫太郎、太田城主本間但馬守秀氏、久知(くち)城主本間与十郎、吉岡城主本間遠江守、沢根城主本間対馬守高秀などの名前がみられる。
どのような関わり合いがあったかについては、例えば、
羽茂城主本間高信にあっては西三川砂金山の稼ぎを一向宗門徒たちにゆだねており、彼らからの運上により多大な利益を得ていた。そして、「一向宗禁制」が出されて城主一族は曹洞宗へと改宗したが、重臣や家臣たちの多くは改宗を強く拒み浄土宗のままであったため、陰ながら一向宗への支援を余儀なくされたのであった。
吉田城主三河氏については、越後と佐渡を結ぶ港である松ヶ崎〜三河〜雑田の要路を治めており、西三川砂金山への物資搬入、搬出港として利を得、さらには、西三河砂金山も一部を支配して一向宗とは関わりを持っている。
河原田城主本間孫太郎も後に沢根城として分家に採掘を委ねた鶴子(つるし)銀山で多くの一向宗門徒を抱えていたため支援をせざるを得なかった。
久知城主本間与十郎は、やはり、領内の新穂(にいぼ)銀山で一向宗門徒たちが働いていた。
こうして、加担していた城主たちがこぞって謙信に従うこととなったため、一向宗門徒たちの多くは、紛争の収まった越中や能登方面へと逃れたのであった。また、佐渡に残った門徒たちは同輩が離散したため、真宗を信奉しながらも平穏に暮らさざるを得なかったのである。
※なお、この項については「上杉氏と佐渡」の項も参照されたい※

☆上杉氏の銀山経営
※佐渡が上杉景勝によって攻略されたことについては「上杉氏と佐渡」の項を参照されたい※

文禄3年(1594)の冬、豊臣秀吉の代官浅野長吉は、上杉景勝の重臣直江兼続に対し、
「越後、佐渡の国の銀、鉛山を開発するために銀山見立人をつかわすので、そちらも人手を出して調査を進めるように」(越佐史料)
と命じ、
文禄4年(1595)正月17日には、浅野長吉が今度は石田三成に対して、
「越後、佐渡両国の金山は、上杉景勝に任せることとし、時節柄金子をできるだけ多く差し出すよう頼んでもらいたい」(舟崎文庫)
と、書状を送っている。
これらの書状から、文禄期からは佐渡金銀山に秀吉の意向が直接的に、しかも、強力に伝えられていることがわかる。
文禄3年の浅野長吉の書状を受けて、文禄4年正月23日、直江兼続は立岩喜兵衛と志駄修理亮の両名を金山代官(かなやまだいかん)に任命し、
「銀山の仕置は昨年浅野殿から指示されたとおりに行うように」
と命じている。
この頃、盛んに採掘されたのは鶴子(つるし)銀山が第一位であり、代官所も設けられた。
鶴子銀山のはじまりについて、次のような伝承がある。
「此処、本口銀山は、文禄4年5月24日、石州忠左衛門、石州忠次郎、石田忠兵衛の三人で稼ぎはじめたが、その頃はまだ相川山(相川金山)は稼がれていなかった」(佐渡故実略記)
ここに書かれてある3人がおそらく山見立人であったと思われる。だが、この3人だけで実際に銀山を掘った訳ではなく、彼らはすでに盛んに稼がれていた石見(いわみ)銀山から多くの労働者を引き連れて来て銀山の開発、採掘にあたらせていたのである。
鶴子銀山は鏈(くさり=鉱石)で掘り出され、それを砕き熱を加えて金銀を取り出す「灰吹法」(はいふきほう)といわれる製錬技術でしか金銀を取り出すことができなかったが、西三河砂金山は金そのものが砂と一緒に採掘でき、ただ単に金と砂を選り分ければ良いだけであった。しかし、谷合であったために冬は雪に閉ざされて稼ぐことができなかった。
このように佐渡の金銀は上杉氏直轄となったが、運上高についての詳しい史料はあまり残されてはいない。
わずかに残る史料としては、
鶴子鉱山・甚太郎百枚(不動沢上流)、袖百枚(玄道川上流)、鶴子百枚(鶴子沢上流)
新穂鉱山百枚
相川鉱山六十枚(右沢)
三河鉱山十八枚(笹川)
などが記された史料もあるが、年代が不明であり、これが直接上杉氏に納められた額なのかどうかは疑問が残る。

☆相川金銀山の発見
相川山の発見伝説によると、
「鶴子(つるし)銀山の山主三浦次兵衛と渡辺儀兵衛、渡辺弥次右衛門の三人が、慶長6年((1601)7月に鶴子の鉱脈を辿って行ったところ発見し、三浦は『六十枚間歩(まぶ=坑道)』を、儀兵衛は『道遊(どうゆう)』を、弥次右衛門は『父(てて)の割戸(わりと)』を稼いだ。そして『父の割戸』は弥次右衛門の父惣兵衛が稼いでいたことから名付けられた」
と言うものである。
この「父の割戸」は相川山でももっとも大きな青盤岩(あおばんがん)が岩石の裂け目から顔を覗かせていたものをそこから掘り進んだ場所である。ほぼ山の頂上付近といっても過言ではない場所だった。そして、この「父の割戸」や「道遊の割戸」をその沢から掘っていったのが「間山割間歩」(あいのやまわりまぶ)で、江戸時代を通じて相川山での最大の鉱脈だったのである。また、「道遊の割戸」はほぼ山全体が鉱脈に覆われており、慶長期には「わきあがり間歩」と呼ばれていた。この「わきあがり間歩」を頂上から掘り崩して出来たのが、現在、山が二つに割れて見える「道遊の割戸」として有名な場所である。
もちろん、金鉱脈は江戸時代を通じて、その後も次々と見つかり、相川山は四方八方から蜂の巣状態で稼がれたのであった。

☆田中清六
田中清六(せいろく)は、伝承によると、近江国高島郡田中下城村で生まれた。父の田中弥左衛門は北国廻船にたずさわる廻船商人であったが、清六は5歳まで東寺の門前に里子に出され、その後しばらくは近江の大房へ引き取られた。9歳のとき京都の法然寺で手習いを受けていたが、12歳のとき父がゆえあって自害したため、父の代わりとして廻船に乗り組んだと言われている。17歳のとき秋田に渡ろうとして船が難破し、破船に取り付いて何とか命だけは助かったという。当時は、あまり人も通わず商取引のなかった奥羽に目を付けていたことから、北国廻船にかなりの旨みを見出していたのであろう。さらに伝承では、あるとき奥羽から翼に白い斑点のある鷹を捕え、織田信長に差し出したところ、信長はたいそう喜んだといわれている。それ以来、信長、秀吉に用いられ、さらに関ヶ原の戦いでは東軍に味方をし、家康に何らかの一大手助けをした功により、佐渡受け取りの大役を命じられた。そして、慶長5年(1600)に佐渡へ渡り、上杉氏移封に伴って上杉氏の代官河村彦左衛門から佐渡の引き渡しを受けている。
清六がこのような大役に任じられた理由としては、北国廻船で当然佐渡を寄港地として裏日本および佐渡の実情に詳しいと思われての抜擢であったと考える。
江戸中期頃から盛んになった千石船も、北海道の松前や秋田、山形などで米や海産物(わかめ、昆布、タラやニシン、ホッケなどの干物)を買い付け、新潟や佐渡で一冬を越して能登方面に向かうのが通例となっている。
佐渡金山(かなやま)代官となってから、慶長5年から2年間は封禄なしでつとめている。これは、いかに佐渡金山からの利益が大きかったかを物語るものである。
慶長7年(1602)、家康から禄5,000石を与えられる時、「佐渡で5,000石が良いか、庄内へ行って30,000石が良いか、どちらでも好きにするが良い」と言われた時、清六は迷わず佐渡を選んだといわれている。
間もなく、清六は敦賀に蔵屋敷を造り、自らの持ち船である廻船で奥羽地方から米や金山に必要な物資を運び込み、ここでも抜け目のない利益を上げている。
清六の金山経営は、上杉氏とは全く異なり、諸国から集まった採掘業者に自由に山を掘らせ、鉱脈が見つかると、しばらくは、それまでの経費のつぐないとして自由に掘り取らせて十分に儲けさせた。その後は10日間を単位として代官所に納める金銀の額を入札で決めて掘らせた。採掘業者(山主)も大工を多数雇って入札以上の金銀が採れれば、それは山主の途轍もない儲けだったのである。
ちなみに、佐渡では「大工」(だいく、でいく)は金山での採掘をする者を指し、家を建てたりする者は「番匠」(ばんじょう)と呼んで区別している。
しかし、次第に清六の予想だにしなかった事態が次々と発生しはじめた。
一攫千金をもくろむ人々が大挙して佐渡へ押し寄せたのであった。例えば、加賀藩では百姓の渡航禁止令まで出す始末であった。次に起きたのは米不足であった。近世初頭の相川の人口は4〜5万人と推定されるが、こうした数万人もの人々が相川金銀山に押し寄せ、山も谷も海岸までもが到来してきた人々の家で溢れた。米価はたちまちつり上がり海産物なども高値となっていった。
清六は商人であり、米価や諸物価の値上がりは、自分にとってそれだけ儲けが増えるのでありがたいことであったが、さすがに、米価が他国に比べて3倍近くも跳ね上がったことは江戸にも聞こえはじめていた。商人である清六はわずか3年でもはやどうすることもできない事態に陥ってしまっていたのである。
家康は、この事態を打開すべく、慶長7年(1602)秋頃、譜代の吉田佐太郎と中川主税(ちから)を佐渡へ派遣した。しかし、決定的な打開策は見つからず、家康は次の手として、翌慶長8年(1603)、石見(いわみ)銀山で手腕を発揮していた大久保長安(ながやす)を新たに「佐渡銀山代官」に任命して送り込んできた。これにより田中清六も吉田も中川も罷免された。


☆大久保長安

大久保長安(ながやす)は、甲斐の武田氏お抱えの猿楽師大蔵大夫の次男として生まれたが、卑しい出自を克服して、慶長7年(1602)に甲斐代官、石見銀山代官となり、さらに、翌慶長8年(1603)には佐渡代官、慶長11年(1606)には伊豆韮山代官を兼ねるほどになっていった。また、慶長13年(1608)には奥州南部の銀山開発にも登用されている。
佐渡代官を命ぜられた長安は、まず田辺十郎左衛門と宗岡佐渡、小宮山民部の三人をすぐさま佐渡に派遣した。一方で紀州の新宮で艪八十挺立の超大型船「新宮丸」と「小鷹丸」の建造させ、佐渡に回航させた。不足している米や金山での必要物資を輸送して住民の不安を一挙に回避しようとしたのである。そして、慶長9年(1604)4月10日、総勢130人を連れて佐渡の松ヶ崎に上陸した。また、長安は相川に陣屋も造らせていたが、陣屋はまだ完成していなかった。
長安は、佐渡に着くと直ちに金山の検分を行い、そこで導き出されたのがその後の「御直山(おじきやま)制度」だったと言われている。さらに、相川に直接船を着けさせるための港の設置や町割などの指示をして、8月には伏見にいた家康に報告をしている。この時、長安が造った陣屋が後の「相川奉行所」となるのである。
「川上家文書」によると、慶長10年(1605)〜慶長18年(1613)の間に、京町、又左衛門町、炭屋町、間山裏町(あいのやまうらまち)、床屋町、山先町、四十物町(あいものまち=魚の干物などを生産、販売する町)、米屋町、左門町、塩屋町、本町などが成立し、又左衛門町や左門町などは大工(でいく=鉱石掘り)を多く抱えていた山主の名前をとったものであろうし、山先町も多くの山主たちの住まいとなった町である。その他は、全国でも見られるように職業別に町を形成したものである。やがて大間港も完成し、落盤を防ぐための支柱や留木など、折りたたむことのできないような資材も船を使って大量に、そして、容易く搬入できるようになっていった。
長安の計画は着々と進行しているかのように見えたが、慶長12年(1607)5月の大雨で間歩(まぶ=坑)への流水や間歩自体が縦穴、横穴で縦横無尽に掘り進んでいたため、地下水の湧き水で水没する間歩も出始めていた。従って、この頃からすでに金山の荒廃が徐々に始まっていたのである。
そして、長安自身も中風が悪化の一途を辿っていた。しかし、家康の信任は厚く、慶長17年(1612)7月には駿府で養生をしていた長安に家康は「烏犀円」(うさいえん)という薬を贈り、さらには、医師までをも派遣したりもしたが長安の容態は回復の兆しを見ることはなかった。慶長18年(1613)4月、長安は駿府で息を引き取った。
長安が死んでから、金山の収支が合わないことや、幕府への運上額の不正などが発覚し、家康は大久保一族を死罪や佐渡からの追放などの処罰をし排除するにいたった。

☆清六と長安の政策の違い
江戸時代初期の金山経営については、田中清六と大久保長安の二人に尽きるが、もう一度ここでその違いを簡単に確認しておきたいと思う。
まずは、田中清六であるが、採掘を希望する者には自由に山を見立てさせ、鉱脈がみつかると、それまでの償いとしてある程度の期間は採掘業者に運上を免除することで、公的資金や援助は一切しなかった。つまりは、清六は根っからの商人であったため、自身は何も手を汚すことなく運上さえ取れれば良い。支出は極力抑えて収入さえ見込めば良い。という考え方であった。
従って、間歩(まぶ=坑)が湧水などで水没したら、どんなに良鉱であってもそこは放置をし、新しい間歩を次々と開拓していけば良い。と考えたのであった。
一方の長安は、良鉱の間歩は大切に扱い、官給援助をおしみなく投入し、それ以上の収入を上げることを目途とした。しかし、全ての山主や全ての間歩とはいかないので、良鉱の間歩に限定をし、そこへは代官所お抱えの山主を雇い、水抜きのための資材やその他もろもろの援助をして、代官所直営の間歩として稼がせたのであった。これは、後の「御直山制度」(おじきやませいど)につながるものであった。もちろん、自由な山主たちにもそれ相応の額での資材等を提供し一つの間歩を大事に扱うこととしたのである。
しかし、いずれの政策をとってみても、相川金山の露天掘りができる「道遊(どうゆう)の割戸(わりと)」や「父(てて)の割戸」などを除いては、地下水の湧水との戦いであったのだ。

☆山師味方但馬守孫太夫家重
味方(みかた)但馬守孫太夫家重については、宝暦年間(1751〜)に書かれた「佐渡相川志」では次のように出ている。
「先祖を味方但馬といい、慶長のころから割間歩をつとめ、元和9年(1623)4月に死んだ。中寺町にある瑞仙寺は味方の開基である。元和6年(1620)に子孫の孫太夫は江戸において将軍にお目見をした。そののち銀山が衰え、寛永3年(1625)、金を一万両、寛永11年(1634)に銀六百七十二貫を幕府から拝借し、さらに万治3年(1660)には三千両を拝借した。また、慶安3年(1650)には江戸の屋敷と京都六角通りにあった家屋敷を売って、代金四千二百両をえて銀山を稼いだ。その間数度の盛衰があった。・・・」
また、味方家の由緒書では、
「家康にお目見したとき、家康が但馬をよい味方であるといったため、それまでの姓であった三方を味方に変えた」
とも書かれている。
いずれにしても、味方が家康に取り立てられたとはいえ、このような莫大な借金を許した家康も佐渡の金銀で幕府経済を維持したいという強い願いがあったものと思われる。
味方但馬守が史料に登場するのは、慶長11年(1606)の「佐州銀山諸御直山鍛冶炭渡帳」からである。
これによると、味方は関原主兵衛と丹後弥兵衛、敦賀七介、加賀藤右衛門といっしょに沢根の鶴子(つるし)銀山を稼いでいる。
しかし、、慶長12年(1607)、あるいは、慶長13年(1608)頃、陣屋お抱えのお手大工のほかに、各山主のところから合力大工を出させて水抜きのための工事をしているが、その時、味方は突出して多くの大工を手伝いに出している。慶長19年(1614)に40名という欠走り(脱走)大工を出した記録があることからみて、おそらく、100人近い大工を抱えていたのではないかと思われる。
そして、味方を何よりも有名にしたのは、元和4年(1618)からのことである。
「佐渡年代記」によると、
「間山(あいのやま)割間歩を今年の三月まで、豊部蔵人という者が稼いでいたが、水が湧き出て稼ぎの障害となったため、『かなどい』という桶(井戸の釣瓶に使うと桶を大きくしたようなもの)をこしらえて水を汲み取ったが間に合わず、術(すべ)を失ってしまった。そこで、味方が替わって間歩の稼ぎを行うことになった。たまたま手代の中にスッポン樋(とい、後の水上輪・みずあげわ=桶を長くして中に螺旋状の仕組みをし、取っ手を回すだけで水が上へと排出される)という物をこしらえて、水をくむ法を知る者がいて、それによって水を取り去り底を出し、さらに掘り下げたところ、十日間で鏈(くさり=鉱石)を数万荷も出すことになった」
とあるが、実際には、間歩の下の横合いから穴を掘り排水路も同時進行で行われたようである。
そして、味方は、元和6年(1620)12月の中旬の10日間で10,200荷、さらに、次の10日間で7,000荷も稼いだとの記録もあり、数年にわたって味方にとっては好景気が続いたのである。
しかも、荷分け(代官所と自分の取り分)では3分1が公納で3分2が山師の取り分であったから、20,000荷近くが採掘できれば、13,000荷余りが味方の取り分となり、そこから経費を差し引いたとしても、10,000荷近くは手元に残ることとなる。
ちなみに、1荷は約30貫(重量の「貫」ではなく、貨幣単位としての「貫」)。1貫=1,000文であるので、現代に換算すると1文≒100〜150円。・・・後は、計算してみてください。
当時の米相場としては、銀10匁で下米5斗が買えたので、ざっと計算しただけで10日間の稼ぎで15,000石の米が買える計算になる。まさに大名並であったのだ。
これにより、味方但馬守孫太夫家重は一躍大金持ちとなったのである。そして、法華宗の寺である「根本寺」(こんぽんじ)に多大な寄進をしている。
※「根本寺」については日蓮上人の項を参照されたい※

☆金山の労働者
金山(やま)で働く者たちは、大久保長安(ながやす)のころの町の形成からみても、江戸時代のかなり早い時期から細分化されていたようである。主なものをあげると、
★大工・・・・・佐渡では訛って「でいく(でえく)」と呼んでいる。もちろん、金鉱脈を採掘する者であるが、1日およそ12時間から18時間を働く。賃銭は高いが、たがね(鉄製のノミのようなもの)を岩盤に一打ちするごとに粉塵が舞い上がる。握り飯を食べたり、つかの間の休息も狭い敷内(しきない=坑内)であるので、当然のことのように胸を侵される。彼らは3年〜5年の命と心得て、およそ、10日に1日の休みがあるが、その日には料理屋に入り浸りで酒を呑み、美食に耽った。そして、往来などでも気に入らないことがあると「俺の命は短けえんだ。俺の好きなようにさせろ」と無理を道理にかえて喧嘩をふっかけたりした。しかし、一旦病となると山主も見放して一人寂しく死んでいった。
★たがね通い穿子(ほりこ)・・・・・大工のたがねは固い岩盤に打ち付けるため、すぐに先が損じてくる。こうした「チビたがね」を回収し、また、出来上がったたがねを配って回る役目である。
★ふいご穿子・・・・・たがね通い穿子が回収してきたチビたがねを鍛冶師が打ち直す。ふいご穿子は四六時中ふいごを鳴らして炭の温度を高く保たなければならなかった。
★荷揚げ穿子・・・・・およそ、5貫目の掘り出された鉱石を叺(かます)に入れ、2つを担いで外の勝場(せりば=鉱石の集積所兼審査所兼競り落とす場所)へ運ぶ。日に何度も敷内と勝場を行き来した。
★山留(やまどめ)・・・・・丸太に窪みを切り込んでの梯子造りや敷内で支柱を立てたり梁(はり)を渡したりする。また、岩の裂け目に留木(とめぎ)などを打ち込んで崩れないようにした。この山留職人はいつも危険な場所で働いているので、落盤事故の犠牲者は彼らに最も多かった。
★水替人足・・・・・先にも述べたが、大工は鉱脈を追って山の中を縦横無尽に掘り進んでいく、当然、地下水脈などにぶち当たってしまうと、もう止めることはできない。水をかき出すための人足であるがかなりの重労働であった。中には、他国から来た者を雇って水替人足として斡旋する周旋業者までできたが水没で稼ぎのできなくなる間歩(まぶ)もかなりの数にのぼった。奉行所では島内の郷村に対して石高に応じて人足を出すよう通達もだしたが、安い賃銭と何よりも重労働であったため、郷村ではかえって納銭をして人手を出さない始末であった。水替人足は常に不足をしていたのである。


☆無宿水替を佐渡へ
安永5年(1776)、時の勘定奉行石谷(いしがや)備後守清昌(きよまさ)は、お上から幕府の財政再建と治安の維持を強く求められていた。
時代は10代将軍家治の治世で、田沼意次が老中として権勢を欲しいがままにしていたころである。旗本を中心に賄賂(まいない)が横行し、華美で豪奢な風俗が反乱していた。また、幕府が開かれて100年あまりも過ぎていたので、泰平の世であったため、戦場で武功を立てるすべもなく、武芸は差し置いて、唄(常磐津や新内節など)や三味線などの芸事がもてはやされていた。しかし、天変地変も相次いで、周辺の貧農から見れば、一度は華やかな江戸の水に手を染めてみたいという欲求にかられ、痩せた田畑を捨てて江戸府内へ流れ込む者が後を絶たなかった。
当時、佐渡奉行は老中支配下で旗本の内から2名が選ばれ、2〜3年の役務として隔年に佐渡へ出向いて職務にあたった。
石谷は、その年江戸にいた新任佐渡奉行依田十郎兵衛を呼び出し、
「江戸府内には不貞の輩(やから)が氾濫しており、いかんともしがたい。人別帳にも載らぬ無宿どもが諸国から流れ込んで、それが江戸の治安を一層不吉なものにしている。無罪無宿も多いが、軽微な悪事を働く者も後を絶たぬ。わしも、20年ほど前に佐渡奉行をつとめたことがあるが、佐州では金銀山に多数の役目をもった人足が関わっておった。そこで、まずは、江戸の無宿どもを金銀山の水替人足にでも使役させてみてはどうかと考えたのじゃ。さすれば、江戸の無宿どもも減り、佐州の金銀の増産にもつながる。一石二鳥ではないか」
と、切り出した。
石谷は、宝暦6年(1756)〜宝暦9年(1759)9月まで佐渡奉行をつとめていた。その頃、島内の犯罪者の処罰の一つとして「追込水替」という罰があった。石谷はそれを念頭においていたと思われる。
石谷はその後、御勘定組頭に昇進をし、さらに数年を経て勘定奉行となっていた。
依田はただちに佐渡で職務に就いている相奉行の高尾孫兵衛に書状をしたためた。その後、依田も交替のため江戸を出立して、安永5年(1776)5月27日に佐渡奉行所に入った。二人は意見を交わしたが、受け入れについての具体的な方策が出ないままに高尾は江戸へと帰って行った。その後1年くらいは音止みとなったが、翌安永6年(1777)8月、南町奉行の牧野大隅守成賢(しげかた)が江戸へ戻っていた依田を再び呼び出し、
「無宿者の管理は、地役人でよろしかろう。平日は麦飯などをあてがい、難儀をさせるがよい。改心した者は江戸へ召し帰してもよい。まずは、40〜50人を送りたい。これは老中も承知のことである」
と、直談判をした。
依田は1年間佐渡でつとめた経験から、
「無宿の世話を地役人にさせろと言われるが、地役人は敷の出入りを検閲することはあっても、敷へ入っていちいち作業を指図するわけにはいかない。また、水替の仕事は重労働で麦飯などを与えて仕事をさせられるようなものではない。雇い水替と一緒に住まわせるわけにもいかないので、小屋を建て竹矢来で囲み、厳重な警備のもとで、飯米や衣類、小遣銭も支給する必要がある。これには、お上のご入用も嵩むでありましょうし、仮病などを申し立てて休んだりすれば、他の職人どもの士気にもかかわる。他国に住めない者を送り込まれては、一国の風紀の乱れにもつながる」
と、強い口調で反論した。
しかし、幕府としては「何がなんでも無宿者を佐州へ」の気運が高まり、今度は、お掛りの老中松平右京太夫輝高(てるたか)より、
「改悛した者は、奉行の交替の時分等に江戸へ帰しても結構である。差支(さしつか)えの筋があれば、その節に聞き届ける」
との妥協案が示された。
依田は上司である老中からのお達しとあっては、断ることもできず、しかたなく、佐渡で職務に就いていた相奉行の宇田川平七へ書状をしたためた。
宇田川は高尾孫兵衛が御持弓頭に転出したため、この年、新たに佐渡奉行を任命されて佐渡でつとめていた。
宇田川は、ただちに、地役人や山主の代表などを集めて評定を開いた。
しかし、地役人たちは管理上の諸問題や財政的な問題で反対をし、山主たちも荒くれ者たちが来ることを恐れて反対をした。
評定は連日繰り返され、やっと草案が出来上がった。
安永6年(1777)10月、宇田川と依田は連名で、次の二つの条件を老中に提示した。
一、使役させるとすれば、特別な業(わざ)を必要としない水替であるが、老年や病弱であっては務まらない。二十歳から四十歳くらいまでの身体強健な者に限る。
一、無宿者がただただ増え続けても、管理不行届になるは必定。よって、数年をもって勤勉、実直なる者は、お解き放しを致すべきこと。
これに対して老中からは、
「いずれも承知」
との回答が届いた。
かくて、安永7年(1778)7月25日、品川無宿あんま市五郎二十九歳、深川入れ墨与吉二十歳、神田めでい小僧とう吉こと長五郎二十三歳ら60人が佐渡へ送られてきたのであった。(史料では、道中で2人死亡して58人とある)。これより毎年60人ずつが佐渡へ送られることとなった。

☆無宿水替の暮らし
無宿水替の起居する小屋は、建坪157坪、逃亡を防ぐため周囲は竹矢来で囲まれている。そして、差配人小屋や米搗納屋、風呂場などが別棟として建てられていた。
小屋内は、やはり逃亡を防ぐため窓などは一つもない。出入り口も一つしかない。梁に鍵棒を吊るし素焼きの皿には劣等な魚油が黒煙を上げて臭いもきつい。夏は魚油の臭いと男たちの汗の臭いで、まるで蒸し風呂のようだ。かといって、冬はもっと厳しい。急場造りの小屋はいたるところに隙間が空いており、そこから、雪が積もるほど吹き込む。
無宿たちには敷草履、腰当叺(かます)、蓑笠などの作業道具や、米(白米)、味噌などであるが、米は作業日は1日1升2合余、休番日には5合8勺余が与えられ、そのほかに1日に味噌35勺、野菜代として10文、醤油代2分5厘、塩代4厘3毛が支給された。また、小遣銭1日15文(現代の約100〜150円)、1年分の仕着(しきせ)代3貫895文、蓑笠代63文、隔年には蒲団代800文も支給されたが、差配人を通しての支給であったため、当然のように差配人によるピンハネがあった。
そして、無宿水替は御直山(おじきやま=奉行所直営)の間歩で働かされた。小屋内の者を半分ずつに分けて、一昼夜交替(明け六ツ=午前6時から翌明け六ツまで)で働かされた。入出坑の際は番所で身体検(あらた)めが行われた。仕事は敷内(坑道内)に入り、地下に溜まった水を「かな樋」(かなどい=井戸の釣瓶の桶を大きくしたようなもの)で一段上の桝(ます)へ汲み上げる。そして、上の者はさらにその上の桝へと汲み上げる。ただ、それだけのことであるが、かな樋には5升の水が入る、半刻もすると腕も肩も腰もパンパンに張ってくる。しかし、交替での休憩の刻限までは手を休めることは許されない。鞭(むち)を持った差配人が巡回して来る。もし、過怠が見つかると鞭で叩かれたりするのはまだ良い方で、「連日追込」などという2〜3日も連続で働かされる。敷内は粉塵と灯りとして用いられている魚油の臭いで充満している。つかの間の休息も昼と夜の握り飯もそんな汚れた敷内でとるほかはなかった。
1日働くと翌日は休みになる。だが、金山(やま)から小屋へ帰ってくると皆、倒れ込むようにして眠りこけた。
1〜2年もすると、無宿たちにも焦りと士気の低下が見られるようになってきた。それは、いつ解き放されるかも分からない先の見えない労働(無期懲役)が最大の理由であった。そこで、奉行所では、当初の差配人は奉行所の雇った「雇い水替」の中から選ばれたが、「毒には毒をもって制する」のたとえがあるように、「悪には悪をもって制する」こととして、成績優秀な者を差配人へと昇格させたりもした。しかし、当初恐れていた通りの仮病を申し立てたりする者などが後を絶たなかった。


☆逃亡
安永9年(1780)6月11日夜、ついに小屋を取り巻く竹矢来を打ち破っての逃亡事件が発生した。
「十一日夜、江戸ヨリ被遣候無宿水替之内七人、行衛不相ニ付、一国ヘ御触。次郎吉二十二歳、万吉二十歳、源蔵三十二歳、八之助二十歳、専吉三十歳、弁内二十六歳、政十三十九歳」(相川町年寄伊藤氏日記)
彼らは、竹矢来だけではなく、番所にある高い施錠された門もあったがそれも乗り越えた。
奉行所ではただちに島内の郷村へ一斉に手配書を配った。
間もなく、春日ケ崎にある高瀬集落から一艘の小舟が盗まれたとの報告が入り、役人が駆けつけて小高い丘に登って海を見渡したが、それらしい舟影は見つからなかった。
6月14日、大佐渡の北端の岬近くの真更川(まさらがわ)集落より、沖を漂う乗り逃げらしい舟を見つけた。との報告があり、役人が直ちに現地へ行ったが、小舟を捕えることを諦めた。
小舟は、南から北への潮流(対馬暖流)に流されて、越後とはほど遠い方角へ向かっていたからである。

☆佐渡奉行本目隼人と石野平蔵
しかし、この乗り逃げ事件を契機として奉行所内では広間役と地役人の間で嫌悪な状態に陥っていた。
奉行所内の組織として、奉行の下に組頭がおり、その配下に10人の広間役がいた。金山(かなやま)方、町方、在方、吟味方とあり、そのうち2名は江戸より派遣された者であった。
乗り逃げの反省を込めた評定では、江戸より遣わされた広間役が厳しく地役人を責め立てた。江戸より遣わされた広間役にとっては、失態が江戸に聞こえては、自らの役職などに汚点が付き、出世の妨げとなることを恐れたためである。
地役人は、
「こうしたことが起きるから、我々は当初から受け入れに反対したのだ」
と言い張ったが、そうした道理が通るはずもないことは地役人たち自身が一番良く知っていたのだ。
その後、奉行の本目隼人(ほんめ はやと)は、
「すべて佐渡奉行の一存でいかように取り計らってもよい。替わりはいくらでもいる」
という通達が出されていたため、この一件を江戸へ報告することはなかった。
安永9年(1780)9月1日、本目は突然の病に倒れた。高熱が何日も続き食欲もなく、日に日に痩せ衰えていった。そして、病床へ組頭の井坂又兵衛を呼び、
「わしも、江戸にいたころ見聞きしたが、罪を犯した者でさえ、遠島でも軽い者は三年から五年で御赦免になっていた。しかも、何かの慶弔事でもあれば、さらに一層早まったものじゃ。そこへいくと、無宿たちは何の罪も犯してはおらぬ。まあ、多少は軽微な罪を犯した者もいるが、どちらにしても、このまま生涯をこの地で終わらせるには忍びない。罪を犯した者が許されて、ただ、無宿というだけで許されぬとは不公平とは思わぬか」
と、語りかけた。
それにより、井坂は本目の名を借りて、
「奉行の交替の時分等に、おいおい江戸へ帰し候」
という書面を盾に、老中に「平人申請」(ひらびとしんせい、佐渡では訛って、ひらんど=平人=一般庶民に戻すこと)を送ったが、音沙汰は何もなかった。
安永10年(1781)2月3日明け六ツ、佐渡奉行本目隼人は江戸に残した愛する妻や子供たちに看取られることもなく、佐州相川の地で静かに息を引き取った。
4月2日、年号が安永から天明に改元された。
4月12日、新たに任命された石野平蔵が佐渡奉行として着任をした。
石野は精力的に金山(やま)の検分や無宿水替の様子などを視察してまわった。そして、井坂から前奉行本目の遺言ともいうべき意見を聞いた。
石野はあるとき井坂を呼び出し、
「無宿水替は足りているのか」
と、問いかけた。
井坂は、狐につままれたような顔を上げた。石野は続けた、
「老中との約束があるとはいえ、ただただ闇雲にこちらの言い分だけを押し付けても聞いてはもらえぬかもしれぬ。そこで、江戸からの無宿水替をさらに受け入れるから、それと引き替えに何人かを江戸へ帰す、という代替えの折衷案ではどうか」
と言い出したのである。
そして、石野は、その通りのことを書面にして老中へと送った。 しかし、老中、特に、お掛りの松平は、
「無宿者を送るのは良しとしても、せっかく捕まえた無宿どもを江戸へ返すとは何事か」
と、強く反対をした。
だが、事態は急変した。
天明元年(1781)10月3日、老中松平右京太夫輝高が急死したのである。
石野は、この報せを聞くと、本目の遺志を継いで、ついに大英断を決行したのである。
江戸に迷惑をかけることなく、佐渡島内、主に相川近辺に住むことを条件として平人として渡世させることとしたのである。
「(十月)廿三日、江戸水替之内、大坂吉兵衛、本所卯之助、与五郎、岩五郎、勘太郎、吉次、安五郎〆七人当国住居被仰付」(相川町年寄伊藤氏日記)
その後、老中からは、
「十年未満の者は対象外とせよ。三年、五年はもってのほか」
などとの横やりも佐渡奉行所へ届いたが、代々の奉行に引き継がれ、天明元年から幕末までの約80年間に58人が平人となった記録が残されている。

☆水替増員要請
江戸水替は管理上の問題点は常にはらんでいたが、思いのほか効果が上がったらしい。
文化14年(1817)の佐渡奉行所から老中に出された書状では、
「天明のころから水替小屋には百五、六十人から二百二十人くらいはいたが、この他に地水替も雇い入れて水を汲み上げさせている。無宿の数も年々減ってきた。地水替を雇い入れれば御入用もかさむので、小屋内には常に二百人ほどいないと汲み方に不便である」
と、無宿水替の増員要請をしている。
江戸も周辺地域が安定をしてきて府内に流れ込む無宿も年々減少していたし、何よりも年齢的、身体的制約があったため、幕府はとうとう江戸だけではなく、大坂や京都で捕えた無宿者を送り込んだ記録も残されている。


☆年一度の外出
無宿たちに読んで聞かせた「御定書」では、
「敷内へ相越候節の外、たとえ近辺たりとも他出一切停止に候条、急度(きっと)相つつしみ申すべく、万一心得違い逃去り、乗逃げ等致し、召捕られ節は、外に悪事これ無くとも彼地において死罪に処す」
と、外へ出られるのは、敷への行き帰りだけに限る、とされていた。
しかし、こうした閉鎖性が江戸無宿たちの気持ちをさらに陰鬱にし、無期限の労働で先が見えないため、次第に士気の低下や仮病の申し立て、さらには、小屋内サボタージュ等が頻繁に起きるようになっていた。
そこで、年に一度だけ無宿たちを解き放すこととした。この解き放しはいつから始まったかは正確には判らないが、
天保11年(1840)に佐渡奉行であった川路三左衛門聖謨(としあきら)の日記には、
「水替人足共、一年に一度ずつ外出することなり、今日それを伺うにつき、例年の通りと申し遣はし候」
とあり、
「(地役人が)水替たちの外出の許可を求めてきたので、例年通り行ってよいと返事をした」
というものである。
外出の許可が出たとはいえ、勝手気ままに街へ繰り出すことはできない。逃亡を防ぐため地役人が総出で彼らを取り囲んで街へ出た。
そして、彼らが向かった先は、当然のことのように「水金(みずかね)遊郭」であった。
遊郭一帯に地役人と妓楼の若い衆が総出で見張りを厳しくしていた。
水替たちは与えられて貯めてあった小遣銭で懐勘定をしながら、酒を呑み、美食を食い、遊女を抱いた。
しかし、別れる刻限は着々とやってきた。
遊女たちは妓楼の前まで出て、彼らの自由のない身の定めに涙して送り、水替たちも遊女たちとのつかの間の夢に涙して別れを惜しんだ。
水金遊郭も栄枯盛衰はあったが、この頃の妓楼の数は42軒前後であったと言われている。