佐渡の概略
  


上杉氏と佐渡


☆長尾為景と羽茂本間氏
永正4年(1507)、越後守護の上杉能房(よしふさ)が、当時の下剋上にならって家臣の長尾為景に討たれた。しかし、2年後の永正6年(1509)に上杉一族の関東管領上杉顕定(あきさだ)が攻め入って来た。為景は越中へ敗走した。だが、顕定の追撃の手は止まず、為景は命からがら佐渡へと逃れた。
それまで、為景は佐渡を掌中に収めようと、幾度となく佐渡へ兵を差し向けていたが、越後領内の混乱に乗じて佐渡よりももっと大きな越後そのものを手に入れようと考えを改め、永正2年(1505)、佐渡の羽茂(はもち)城主本間対馬守淳季(あつすえ)の息子三河守高信(たかのぶ)に一族の娘(一説には姪)を嫁がせ和を成した。
こうして、為景は羽茂本間氏に匿われることとなり、翌永正7年(1510)4月、為景は佐渡の羽茂と雑田(さわだ)の援軍を得て越後へと攻め込んだ。
顕定の治世に少なからず期待外れをした越後の土豪たちも加勢することとなり、ついに、為景は顕定を討ち破り名実共に越後の覇者となったのである。
この功により、雑田本間氏には越後の、椎谷(現、新潟県柏崎市椎谷)、宮川(現、新潟県胎内市宮川 )、新保(現、新潟県長岡市新保町)、搭(現、新潟県上越市頸城区塔ケ崎)の四ケ村が与えられ、羽茂本間氏には久津田(現、新潟県三島郡出雲崎町久田)、川本(現、新潟県長岡市寺泊郷本)、和多部(現、新潟県燕市渡部)の三ケ村が与えられた。
以来、羽茂本間氏は為景を援けた第一の功労者として、また、一族の姻戚関係として、上杉家(長尾改め)の為景、謙信、景勝とは強い絆で結ばれ、羽茂本間氏は佐渡での政治的権力を一手に握ることとなった。

☆一向宗禁止
為景が越後の覇者となった頃、越中や加賀では一向一揆の最中であり、為景も越中方面へ一向宗門徒の排除に力を入れざるを得なかった。
そんな中で、為景は越後領内に向けて大永元年(1521)2月に「無碍光衆(むげこうしゅう=一向宗)禁止令」を発している。
当然、佐渡にもその令は届いたが、佐渡の各城主たちも浄土宗や真宗系の寺に保護を与えたり、城主ばかりではなく家臣たちもそうした寺の檀家となっていた者も少なくない。しかし、為景の命とあってはそれに背く訳にはいかなかった。
佐渡の対応の一部を見てみると、雑田本間氏は太運寺(曹洞宗)を建て、河原田本間氏は本田寺(ほんでんじ・曹洞宗)を、羽茂本間氏も大蓮寺(だいれんじ・曹洞宗)へと改宗をしている。
だが、佐渡の各城主がこぞって改宗をするのに反して、家臣たちは依然として改宗を拒んだ例も少なくない。従って、例えば羽茂本間氏をとってみても、城主は大蓮寺を菩提寺としているが、重臣や家臣たちの多くは正覚寺(現、金海山照覚寺=真宗)に名を連ねている。また、大蓮寺も本尊は阿弥陀如来像であり、元来は真宗寺院であったことが窺える。おそらく、羽茂本間氏の菩提寺としての庇護を引き続き受けるために、寺自身が曹洞宗に改宗したものと考えられる。

☆殺された上杉家の代官
天正5年(1577)4月、佐渡で激しい一向一揆が起きた。
「上杉年譜」および「上杉家譜」、「北越軍記」によると、上杉氏の代官として佐渡に駐在していた蓼沼右京亮(たでぬまうきょうのすけ)は、一揆発生を府中(春日山)に急報し、自らもわずかな手勢で戦ったが、一揆の徒は非常に豪勇で蓼沼はついに討死してしまった。
この一揆は佐渡の各地に点在する銀山で働く者たちを中心として、佐渡の多くの城主たちも加勢していたのである。
上杉謙信は、元亀4年(1573)正月から越中方面で激しい一向一揆と戦っていた。従って、加賀や越中、能登方面の一向一揆に呼応して佐渡の一向宗門徒たちが立ち上がったのも理の当然であったのかもしれない。
謙信は佐渡で一揆が起きた報せを受けると、ただちに神洞城主甘糟藤右衛門景継を大将として多くの兵をつけて佐渡平定に向かわせた。これにより一揆は鎮圧されたが、平定の後謙信の味方となった者として、「上杉年譜」によると、羽茂城主本間太郎左衛門高信、吉田城主三川氏、雑田城主本間山城守、河原田城主本間孫太郎、太田城主本間但馬守秀氏、久知(くち)城主本間与十郎、吉岡城主本間遠江守、沢根城主本間対馬守高秀、潟上(かたがみ)城主弥太郎秀光らが名を連ねている。
なお、「北越家書」では元亀4年(1573)4月中旬謙信自らが佐渡に渡って鎮圧した。と書かれてあるが、謙信の動向を見てみると、この年の正月、瑞泉寺(真宗)との間に和議が成立。3月、越中出陣。4月21日、関東への出馬準備のため帰国。7月、越中平定・・・などとなっており、しいて言えば、確かに4月21日から7月まで謙信は春日山城に居たので佐渡へ出向くことはできたかも知れないが、他の史料等を総合的に見てみると、謙信は自らは動かなかったと考えられる。また年代についても越中や加賀、能登方面の鎮圧動向と混同していると考えられる。だが、これらを裏付ける史料は佐渡には一切残されていない。
(なお、このことについては「佐渡金山史」の項でも述べる)


☆本能寺の変と佐渡
天正10年(1582)6月2日、織田信長が天下統一を目前にしながらも明智光秀により殺戮された。世に言う「本能寺の変」である。
この報せは上杉景勝により佐渡の主だった城主7人に回状が届けられている。
「急度申届候、仍而当月二日、於京都信長父子三人切腹、依之越中能州諸要害打明、美濃尾張之者共悉遁失候、然間国仲相残国人等、皆々復先忠之間、為仕置与令出馬候、各為疑心之到来之書中一書差越候、日出吉左右弥可申候、恐々謹言 六月十二日 景勝(花押) 本間対馬守殿 本間但馬守殿 本間信濃守殿 本間弥太郎殿 本間下総守殿 本間帰本斎殿 本間山城守殿」
要約すると、
「急ぎ報せる。当月(6月)二日に京都において信長父子三人が切腹をした。これにより越中や能登では重要な拠点を投げ出した。美濃や尾張の者どもは逃げ去った。残った者どもは元の領主へと帰って行った。(光秀)打倒のため出馬することとなった。皆々においても疑心を抱かず次の報せを待つように。と日出吉(秀吉)が言っている」
ここで注目したいのは、本能寺の変が6月2日未明に勃発し、その報せを備中高松城(岡山県)の毛利に伝えようとした間者を秀吉側が捕えて事件を知った。秀吉は直ちに毛利と和議を成し、京都山崎へ兵を動かした。(中国大返し)。そして、6月13日には光秀軍と山崎において戦いを始めている。(山崎の戦い)
さてそこでである。秀吉が6月2日または3日に間者を捕えて事件を知ったとすると、景勝が佐渡へ書状をしたためたのが6月12日、その間10日である。しかし、中国大返しが始まると書状などをしたためている暇はないと思われるので、秀吉は6月2日または3日には素早く全国各地に書状をしたためたと考えざるを得ない。確かに、秀吉は「筆まめ」だったとは聞くが、まさにこの書状一通を見ても「恐るべし秀吉」、「あなどることなかれ秀吉」と言わざるを得ない。

☆河原田と羽茂の争い
惣領家雑田本間氏は河原田と羽茂が経済力と政治力で力をつけてきたことを憂い、享禄5年(1532)および天文4年(1535)、天文5年(1536)と三度に渡って惣領家としての威信をかけて、佐渡での覇権を確立すべく河原田等打倒を目指したが、たちまち、河原田、羽茂等の連合軍に敗れ、島内での実力は無きものに等しい状況となっていった。
こうして惣領家を排除した後、佐渡の北で鶴子銀山を掌中にしている河原田本間氏は佐渡随一の経済力を誇り、南佐渡では羽茂本間氏が上杉家との縁戚関係により政治力を一手に掌握していた。「両雄並び立たず」のたとえがあるように、佐渡島内では頻繁に覇権争いで河原田と羽茂はことごとく対立をしていた。
景勝は狭い島内で燃えては消え、消えては燃え上がる河原田と羽茂の対立に対して、何度か仲介の労を取っている。
「羽茂、河原田干才末落居之由候之条、為助言、如前々一族中甚深尤候、猶、後藤入道相銜口裡候、恐々謹言 八月廿二日 本間山城守殿(河原田本間氏) 景勝(花押)」(大和田上杉家文書)
景勝は河原田と羽茂の和解の仲介役として後藤勝元入道を佐渡へ派遣している。
これに対して、河原田側を代表して和泉城主本間弥太郎季直(すえなお)が10月14日に直江兼続に書状を送り、
「羽茂は一向に譲ろうとしない」
と、訴えている。
一方、羽茂本間高季(たかすえ)の返答も紹介してみよう。
「御貴礼之趣拝見、欣悦至極奉存候、仍而当国和睦之段被御下候、拙者一門各奉存其旨、雖古今之鬱憤候、拠諸事可任御上意候処、敵方河原田、吉井、潟上被背御尊意、承引不被申事、全拙夫非疎略候、然而御貴州弥以御繁昌之由珍重存候、委曲直江山城守へ申理候条宣被上聞候間不能審候、恐々謹言 十一月二十八日 本間対馬守高季 春日山」(羽前・志賀慎太郎家文書)
概略で読み解くと、
「景勝殿のご厚意を深く感謝致します。当方としては御貴殿の言うとおりにしたいのですが、河原田や吉井、潟上(かたがみ)などが攻め入ってくるので仕方なく戦っています。このことは直江山城守(直江兼続)へもすでに報告済です」
両者とも一歩も引かぬ膠着状態が続いていたとみられる。
この文面には年号が記されていないが、越後領内がほぼ安定期に入っているにもかかわらず、佐渡一国だけが狭い島内での争いを繰り広げていることを憂いている状況から見て、天正12年(1584)のやり取りと考えられる。


☆一通の書状

ここに羽茂本間氏へ届いた一通の面白い書状を紹介してみよう。
「将亦■一具令進覧之候 可申通口迄候 以上 雖末申通、御近国之条、為以来令啓達候、仍能登加賀両国守護前田又左衛門尉依申付、能州鳳気至郡宇出津、令要害構在之儀候、又左衛門尉於可被仰通者、拙子致御取次、向後御入魂之様可令馳走候、■天下所司代羽柴筑前守ニ候、又左衛門尉親子之契■■御座候条、羽筑江自然御用等之儀モ、是亦同前可申■候、越中之国近年佐々内蔵助申付候、雖然、筑前任置目、又左衛門尉進退候、同越後国之儀、又左衛門尉ヲ以、喜平次種々懇望候、■■別条有間敷躰候、委曲口上申含候条、不能詳候、恐惶謹言  六月十四日 輔秀(花押) 佐渡国はもち殿参御宿所」(珠洲郡北方村・喜兵衛文書)
要約すると、
「今日にいたるまでの(佐渡の)近辺の国々の様子をお知らせします。(私は)能登と加賀両国の守護である又左衛門尉(前田利家)の命令によって、能登国鳳至郡(ふげしぐん)宇出津(うせつ)の要害の地に砦を構えて守備をしている者です。私の主君である又左衛門尉が申すには、私が橋渡しの役になって、貴殿(羽茂殿)と前田家が心を許し合う仲になるよう、一生懸命努力せよと申しています。そもそも現在では、天下の主は羽柴筑前守(秀吉)ですが、この筑前守と又左衛門尉は親子の契を交わしたような親密な関係でありますので、自然と貴殿が筑前守に何かを申したいことがあれば、又左衛門尉が羽茂殿のよいように計らうつもりであることを申し伝えるように言っています。越中国は佐々内蔵助(佐々成政)が管理をしておりますが、これは名目上のことで実際は筑前守の支配下です。越後国についても喜平次(上杉景勝)が治めていますが、実際は又左衛門尉を通じて懇望しているのです。ですから、貴殿もこの機会に又左衛門尉と手を握るのがよろしいかと考えます」
これは一読して判るように、戦国の武将間で良く取り交わされた「密書」である。従って、誇張した部分もかなり含まれており、特に、上杉景勝も前田利家を通じて秀吉の歓心をかっているかのように見せかけている。戦国時代によく行われた諜略合戦の一つといえよう。
また、この書状の意図としては、上杉家と羽茂が深い仲(姻戚関係)であることを承知した上で、羽茂を口説き落として越後から切り離し、佐渡での政治的優位にある羽茂と同盟関係を結び、直接的には佐渡一国と佐々に睨みをきかせ、間接的には佐渡の金銀が上杉方へ流れることを止めて、越後の上杉に制約を与えようとしたものと窺える。
この書状にも年号が記されていないが、秀吉の北陸平定が行われ佐々成政が越中から除けられたのは天正13年(1585)8月以降であるので、天正12年(1584)または天正13年夏までの間に送られてきたもののように思われる。
なお、近年の調査をもってしても「輔秀」なる人物がどのような者であったかは、能登においても羽茂においても全く解明されていない。


☆羽茂の名馬の口伝
天正年間の頃、羽茂殿は一匹の名馬を所有していたという。それを聞いた景勝がその名馬を所望した。しかし、羽茂殿は偽物を送ったところ景勝の勘気をかい佐渡攻略につながった。
と言うものである。
田中圭一先生は、羽茂は西三川砂金山を領有しており、羽茂に対して金銀を納めるように求めたものではないか。と推論をされているが、当時の佐渡、特に羽茂をみてみると、幾多の遷移があったものの、羽茂城主本間対馬守高貞(たかさだ)は吉岡城主本間遠江守正方(まさかた)と共同して佐渡の最南端に位置する小木半島木野浦郷に放牧場を経営しており、景勝が望んだ通りの名馬がいても不思議ではない。
しかし、私が幾多の史料を読んでいくうちに、高貞の娘に「馬姫」という名前が見つかった。
と言うことは、景勝は名馬に引っ掛けて馬姫を差し出せと言ってきているのではないかと思われるのである。
また、口伝によると、高貞は馬姫を送らず代わりに馬姫に似た侍女を春日山に送ったという。
ところが、景勝は馬姫でないことを見抜き次のような書状と共にその侍女を羽茂に送り返したと言われている。
「此の度の所業、その方らの姑息な手の内とくと拝見いたした。我が手の者の注進により、羽茂殿とは縁もゆかりもない女子(おなご)と相わかった。男なれば直ちにその首貰い受けるところではあるが、まだうら若き女子なれば、この後のこの女子の行く末も案じられる。よって、死一等を免じて送り返す」
というものであるが、私としては「馬姫」という名前が気にかかる。
ちなみに、私の読んだ史料では、長女が「房姫」、次女が「馬姫」となっており、天正12年〜13年頃、河原田と羽茂の和睦の証として房姫は河原田城主本間山城守高統(たかとう)に馬姫は沢根城主本間摂津守高次(たかつぐ)に嫁いだことになっている。
一見、羽茂が敗れて人質のようにも見えるが、数少ない史料から読み取ると、仲介に入った後藤勝元入道が、
「人質ではござらぬ。この婚儀により羽茂殿は河原田殿および沢根殿の舅殿(しゅうと)という立場になられるのでござる。さらには、それぞれに御子がお生まれになれば、まさに、羽茂殿と河原田殿との血を分けた強い絆となるでありましょう」
と、説いたと言われている。
まあ、口伝であるので、どこまでが本当で、どこまでが偽物かは判らないが、ちょっとしたエピソードとして紹介してみた。

☆景勝いわく「佐渡は俺のものだ」
天正10年(1582)6月、秀吉は主君織田信長を殺戮した明智光秀を倒し(山崎の戦い)、続いて、天正11年(1583)4月24日には織田家の宿老柴田勝家を自刃に追い込んだ(賤ヶ岳の戦い)。
さらに秀吉は、天正13年(1585)には関白に昇進をし、政治の実権をほぼ掌中に収めたが、関東の勇徳川家康がなかなか秀吉に付こうとしなかった。しかし、異父妹の旭姫を家康の正室としたり、母親のなかまでをも人質として差し出すことで、ようやく家康を臣下とすることに成功した。天正14年(1686)のことであった。
当時、越後の上杉景勝はまだ親順の意を示してはいなかったが、時流を見るかぎり、秀吉に従うことが得策と考えられた。
天正14年5月、景勝は春日山城を発ち、6月14日に大坂へ入った。ただちに秀吉に接見することが許された。この時、景勝が持参したものは佐渡の金銀であった。秀吉が歓喜したことはいうまでもない。
6月22日、上機嫌の秀吉に伴われて宮中に参内し、景勝は従四位上左近衛権少将に任じられた。
6月23日、再び秀吉に接見が許された。この時、景勝は「佐渡には国人領主が乱立しており、金銀の取立てが思うにまかせない」と説いた。
秀吉の金銀に対する執着心は異常なもので、直ちに、景勝に対して「佐渡安堵」の書き付けを手渡した。景勝はこの朱印状さえ手に入れれば後は用はなかった。踵(きびす)を返して7月6日には春日山城へ帰城し、7月17日、佐渡の主だった各城主に対して臣下の礼をとるよう書状をしたためた。
佐渡の本間一族は大いに驚いた。これまでは上杉氏とは対等な同盟関係であったはずが、一夜にして臣下の礼をとれと言ってきたのだ。
佐渡の城主たちは、何やかやと理屈を並べて出仕を遅らせていた。


☆佐渡敗れる
この頃、河原田城主本間山城守高統(たかとう)から鶴子(つるし)銀山の経営を任されていた沢根城主本間摂津守高次(たかつぐ)が河原田との金銀の取り分についての争いが頻繁に起こるようになり、高次はおそらくこのように考えたのではなかろうか。
「このままでは、最早、我らは河原田や羽茂に先んずることは不可能だ。そればかりではない、いずれ河原田は本家という立場で我らを潰しにかかるやもしれぬ。どうすれば良いか・・・。そうか、景勝に身を委ねてみるのも一つの手かもしれぬ」
高次は佐渡を見限り、天正17年(1589)春、景勝に臣下の礼をとることを伝えた。
沢根城は真野湾に面しており、湾内を航行する船は多い。従って、密かに船を操り越後に書状を送ることは容易なことであった。
景勝にしてみれば、思わぬところから風穴が空いたことに驚くと同時に、まさに、棚からボタ餅であり、喜悦したことは言うまでもない。
天正17年(1589)4月16日付で、景勝より高次に書状が届いた。
「その方の儀、近年まれにみる忠臣である。よって当月中旬に富永備中守を差し向ける。この者に口頭で親順の意を伝えよ。さらに、この者と佐渡攻略の相談をせよ」
4月26日、景勝は富永備中守長綱を佐渡攻略軍の総大将に任じ、沢根の高次と打ち合わせをすべく佐渡へ向かわせた。
当然のことながら、佐渡の各城でもこの出来事を察知し事態を重く受け止めていたが、この期に及んでも佐渡勢を誰がまとめるかで河原田や羽茂、雑田(さわだ)、潟上(かたがみ)等がそれぞれの思惑を持って一歩も譲らなかった。
例えば、河原田では分家が寝返ったことに面目を絶たれ誰の手も借りずに自らだけで分家を、そして上杉を討つと主張し、雑田の大炊介憲泰(おおいのすけ のりやす)は、雑田城は平地に築かれた平城(ひらじろ)であり、羽茂などの山城(やまじろ)とは戦い方が違う。などというようなものであった。
足並みは完全に乱れていたのである。
一方、沢根では佐渡の内で孤立無援となってしまい上杉方に援助を求めた。上杉方も快くそれに応じ、5月15日、沢根に密かに兵糧米を陸揚げした。
かくて、天正17年6月1日、富永を将にいただいた3,000余騎、順風満風に大幟(おおのぼり)をはためかせた船団が沢根の沖に現れたのであった。何らかの混乱を避けるためか、船団は同日夜半に沢根に上陸した。
同日夜、富永は佐渡の各城に対して、
「再度申す。親順の意がある者には手は出さぬが如何。明日を限りとして返答せよ」
との書状をしたためて、すぐさま、沢根の手の者に渡し佐渡の各城へと届けさせた。
6月2日、夜半を過ぎてもどこからも返答はなかった。
6月3日、夜明けとともに、かねてより打ち合わせてあった富永と高次連合軍は河原田へ大挙して押し寄せた。富永軍3,000余騎、沢根軍およそ800騎。城への坂道をことごとく固めた河原田勢も奮戦したが、同日夜、河原田城は猛火に包まれて本間山城守高統は自刃した。
6月4日からは、雑田、吉井、多田(おおた)、潟上、久知(くち)らを相手に国仲平野を舞台にして青田の中を駆け巡る戦いとなった。しかし、これらの城はそれぞれに離れており、富永、高次連合軍は兵を分散せざるを得ず、多大な苦戦を強いられることとなった。戦況は押しては引き、引いては押すの膠着状態へと突入していった。
この局面を打開すべく、6月12日、さらに1,000騎余りの兵を引き連れて景勝自身が渡海してきた。先陣として佐渡で戦っていた景勝軍が勇気付けられたことはいうまでもない。
6月14日、潟上城主本間帰本斎秀高が景勝の本陣へ降伏を申し入れた。
6月15日、雑田城陥落。本間大炊介憲泰自刃。
6月16日、佐渡最後の砦となった羽茂城へと大軍は押し寄せた。
国仲から羽茂城へは小泊を抜けた辺りから道は二手に分かれる。片方は小佐渡山脈の尾根伝いにだらだらと小木半島まで延び、途中から急な坂道を下ると西方(にしがた)城辺りに出る。もう片方は一気に尾根を駆け下って村山城、上山田城を経て羽茂城下へと続く。
景勝軍は手勢を分断した。羽茂側でも途中の村山城、上山田城、西方城などにそれぞれ500騎余を配したが、これらの出城はたちまち陥落した。
本城にも1,000とも2,000ともいわれる兵を置いて戦ったが、5,000近い景勝軍に適うはずもなかった。
同日夕暮れ刻、羽茂城主本間対馬守高貞と弟の三河守高頼(赤泊城主)の二人は家老の海老名弾正正行の
「為影殿の先例もありますれば、ここは一旦城を逃れ、再起を期してくだされ」
との説得により羽茂城を脱出し、赤泊港から越後へと逃れた。
そして、羽茂城も同夜炎上落城した。
こうして、佐渡はことごとく景勝により平らげられ、本間氏一族の佐渡支配も終焉を迎えたのであった。
ちなみに、羽茂城を脱出した高貞と高頼は越後の寺泊の浜で待機していた景勝軍に捕捉され、数日後、佐渡の四日町(現、真野地内)へ連れ戻されて首を刎ねられた。
また、沢根の本間摂津守高次と潟上の本間帰本斎秀高は、景勝に従って越後へ渡り上杉家の家臣として働いた。

このように、佐渡の各城はことごとく灰塵と期してしまったため、本間一族の系図や古文書なども全くといって良いほど残されていないのが現状である。