佐渡観光
☆佐渡へ
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ときわ丸(カーフェリー) | あかね(カーフェリー) | 高速船(寺泊⇔赤泊) | ジェットフォイル | 新潟交通・定期観光バス |
★新潟⇔両津★
ジェトフォイルという高速船が就航しており、1時間で渡り切ることができる。全席指定席で椅子席のみである。
カーフェリーも出ている。約2時間20分で、人はもちろんのこと車やバイク、自転車などを乗せて渡る。こちらは、椅子席もあるが自由に寝っ転がっての絨毯敷の部屋もある。
両津港にはレンタカーもある。
★直江津⇔小木★
カーフェリーのみである。約2時間30分で渡ることができる。
★寺泊⇔赤泊★
高速船で65分で渡ることができる。
1 1月頃から翌年の4月頃までは運休となるので注意が必要。
★佐渡には、国道350号線が横断しており、道路もほぼ全域にわたって舗装されている。
島内では、新潟交通のバスが、かなりの所まで運行してくれている。
また、観光シーズになると、定期観光バスがずらりと両津港などに並んでお出迎えをしてくれる。
色々なコースがあるので、事前に調べて予約をすると良いだろう。
☆佐渡おけさ
「佐渡おけさ」はすでに全国的にも有名ですね。
写真は「春日崎灯台前」の広場
絵葉書などではこの場所での写真が多く用いられている。
☆加茂湖
加茂湖(かもこ)は、周囲約17qの両津湾から広がる湖。
昔は「越の湖」(こしのみずうみ)と呼ばれ淡水湖であったが、両津湾内の湊(みなと)と夷(えびす)の間を開削して海に通じるようにした。
今は、淡水と海水が入り混じっており、佐渡で唯一の牡蠣の養殖、生産地となっている。
両津の湊と夷の間には、通称「らんかん橋」が架けられている。
両津甚句に「両津らんかん橋しゃ落ちても舟で通う・・・」と唄われるようになった。
☆佐渡金銀山
夢と野望が渦巻いた「佐渡金銀山」。
多くの尊い命を呑みこんだ。
写真は「道遊の割戸」(どうゆうのわりと)
露天掘りにより山が二つに割れてしまった。
※「佐渡金山」の項を参照されたい※
☆根本寺
根本寺(こんぽんじ)は、日蓮宗の10大聖地の一つである。
深い森の中にあり、石畳の長い参道を行くと、祖師堂、本堂、太鼓堂などが立つ。
風雨にさらされた白茶けた堂宇は、歳月の重みをかたりかけてくるようだ。
日蓮の高弟「日成」が建立し、江戸時代初期に相川金山の山師味方(みかた)但馬守孫大夫家重が莫大な寄進をして、今日の隆盛を極めるようになったといわれている。
日蓮が佐渡へ流されたとき住したという「三昧堂」(ざんまいどう)などもあるが、これは、後世に書き加えられたものである。
門前には駐車場が完備されており土産物店もある。また、新潟交通の観光バスのコースにもなっている。
※「日蓮上人」の項と「佐渡金山」の項を参照されたい※
☆阿仏房妙宣寺
阿仏房妙宣寺(あぶつぼう みょうせんじ)は日蓮上人を預かった阿仏房の開基といわれる。
新潟県唯一の五重塔がある。ちなみに、新潟県唯一の三重塔は中条町乙宝寺(おっぽうじ)にある。
※日蓮上人の項を参照されたい※
☆朱鷺保護センター
朱鷺(とき)は絶滅危惧種で、古くは、日本、ロシア、朝鮮半島、中国などに生息していたと言われているが、水田に農薬が撒かれ、エサとなるドジョウなどが減少したため、朱鷺も時を同じくして減少してしまった。
昭和42年(1967)、佐渡で野生の朱鷺2羽が見つかったことから、新穂村(にいぼ・現、佐渡市新穂地内)に「トキ保護センター」が造られ、繁殖に向けての取り組みが始まった。
昭和56年(1981)、中国でも朱鷺が見つかり、DNA鑑定の結果、99.93%の確率で同種ということが判り、中国と日本の相互協力により、数々の失敗を繰り返しながらも、着実に増え続け、平成26年(2014)現在、約97羽が放鳥されたり、保護センター内で飼育されている。
※残念ながら、見学することはできません※
☆大佐渡スカイラインと佐渡金山
国仲平野の金井と相川を結ぶスカイライン。
佐渡の主峰金北山(きんぽくさん・1172m)を望みながら妙見山(みょうけんさん)の尾根を貫く約30qのコース。
白雲台は、佐渡の東西の両津湾や真野湾、国仲平野、小佐渡山脈の佐渡最南端の小木半島までが見られる絶景ポイント。駐車場完備。
5〜6月は群生するレンゲツツジやシャクナゲが咲き誇り、秋は紅葉が素晴らしい。
佐渡金山・・・宗太夫坑(そうだゆうこう)は実際に金が稼がれていた坑道を、観光的にアレンジして、人形が掘削の様子や水替の様子などを再現して見せている。坑道を出たところに、展示室があり、プラスチック容器に入った純度99.9%の金塊(約16s、450万円相当)があり、プラスチック容器には大人の手が入るほどの穴が開いている。その穴から金塊を取り出せたら、お持ち帰りができる。だが、これまでに成功した人は誰一人としていないという。巡回コースの出口は土産物店内へと出てくる。
※11月下旬から翌年の4月まではスカイライン全体の道路は舗装されているが、雪道でのスリップ事故防止のためスカイラインは閉鎖される。
※佐渡金山へは相川側から行くことはできる。徒歩では40〜50分の山道を登る。タクシーなら10分位。
☆無名異焼
無名異焼(むみょういやき)は、佐渡金山付近で採れる酸化鉄を多く含んだ粘土をこねて、窯に入れ1200℃の高温で焼き上げる。釉(うわぐすり)をかけなくても赤い光沢が綺麗に浮かび上がる。
江戸時代に伊藤甚兵衛という人が初めて試みて、その出来栄えに魅了され、今日までその伝統が受け継がれている。
佐渡伝統工芸品の一つに加えられている。
☆尖閣湾
尖閣湾(せんかくわん)は、達者(たっしゃ)集落から揚島(あげしま)までの約2qの海岸線。
揚島側から揚島峡湾(あげしまきょうわん)、膳棚峡湾(ぜんだなきょうわん)、金剛峡湾(こんごうきょうわん)、立雲峡湾(りつうんきょうわん)、幽仙峡湾(ゆうせんきょうわん)とそれぞれに趣の異なった断崖絶壁を見ることができる。
尖閣湾の命名は、佐渡を国定公園に指定するにあたって、当時の帝国大学(現、東京大学)の脇水鉄五郎博士がノールウェーのハルダングル峡湾に似ていることから、その和名である尖閣湾と名付けたものである。
揚島へは、通称「真知子橋」があり、ここは昭和の初期に菊田一夫原作の「君の名は」でのロケが行われたことから名付けられた。
昔は、大縄と板張りの本当の意味での吊り橋であったが、昭和後期になってから危険防止の観点からコンクリート製に架け替えられた。
※この写真の奥の方に見える白い橋が「真知子橋」、左が「揚島」※
☆大野亀の「キバナカンゾウ」
大きな亀の頭に似ている岩山が海に突き出しており、夏の海水浴シーズンには多くの人でにぎわう。
標高167m。
5月〜6月にかけては亀の首の部分に、特別天然記念物に指定されている「キバナカンゾウ」という百合に似た黄色い花が一面に咲き乱れる。
☆二つ亀
大小二つの岩山が、ちょうど親子亀の形に見えることから名付けられた。
干潮時には歩いて渡れる。
「二つ亀キャンプ場」も整備されており、夏にはキャンプをしながら海水浴を楽しむ人たちでにぎわう。
☆七浦海岸
相川から西に行くと春日崎に出る。
春日崎は慶安4年(1651)7月、「由井正雪の乱」の失敗で捕捉されて佐渡へ流された大岡源三郎が相川で槍の道場を開いていたが、世をはかなんで自害した場所でもある。
春日崎を南下すると、「大浦」(おおうら)、「鹿伏」(かぶせ)、「高瀬」(たかせ)、「橘」(たちばな)、「稲鯨」(いなくじら)、「米郷」(よなご)、「二見」(ふたみ)の七つの集落があることから七浦海外(ななうらかいがん)と名付けられた。
高瀬には「夫婦岩」と呼ばれる奇岩があり、土産物店兼ドライブレストランもある。また、夕陽が綺麗な場所でもある。
夏の頃には、真野湾ではスルメイカ漁が最盛期となる。二見港を中心として夜になると出漁するので、真野湾には多くの漁火が輝き、佐渡の風物詩の一つにもなっている。
☆真野御陵
真野御陵(まのごりょう)は、承久3年(1221)に佐渡へ流された「順徳上皇」が御火葬されて、翌年の春まで御遺骨を埋めた場所といわれている。
近くには「真野宮」もある。
また、「歴史伝承館」も近くにあり、佐渡の民話などを人形が語ってくれる。
※順徳上皇の項を参照されたい※
☆西三川ゴールドパーク
佐渡で唯一の砂金採りの体験ができる。
枠型の中に砂金が含まれた砂が集められており、それを掬(すく)って水に揺らす。
採れるか採れないかは、その時の運と腕しだい。
採れたとしても砂粒よりやや大きめの砂金の粒が数えるほどである。採れた砂金はもちろんお持ち帰りができる。
一攫千金は夢見ないほうがよろしいでしょう。
※佐渡金山の項を参照されたい※
☆宿根木集落
江戸時代初期の頃には、宿根木(しゅくねぎ)は自然の入江となっていたため、佐渡への物資輸送や商取引の拠点として栄え、多くの廻船商人たちが問屋の軒を連ねた。また、佐渡沖を航行する船も暴風雨の際の避難港として利用した。
しかし、寛文年間(1661〜)頃に入ると、佐渡金山で採れた金銀の輸送のため、さらには、西回りの大型廻船(千石船)などが行きかうようになり、入り江に奥まった宿根木よりも小木の「外の間」(そとのま)にできた小木港が好まれるようになり、当然のことのように商取引も小木港へと移り、問屋筋も出店(でみせ)を残すのみとして小木へと移ってしまい、以後は、さびれた漁村となってしまった。
写真は、何度も修築されているが、宿根木が繁栄していた頃の面影を残す船の船首をかたどった住居。
この集落の中にある茶店での「あんみつ」は絶妙である。
近くには「民族資料館」もあり、千石船の様子をとらえた縮小版もある。
☆矢島・経島&たらい舟
矢島(やじま)は、戦国時代に弓矢の「矢」になる上質の竹が採れたことから名付けられた。
また、能登方面で風水害が起きると材木片や家財道具などがここの浜に打ち上げられる。
経島(きょうじま)は、日蓮上人の赦免状を手にした日朗が、佐渡を目前にして難破し、板切れ一枚にすがって辿り着いたところ。
※日蓮上人の項を参照されたい※
※写真では、朱色の「たいこ橋」のすぐ左の松の木が一際高くそびえているのが「経島」、その左で欠けてしまっているのが「矢島」である※
★お光の碑★
昔、柏崎に住む「五作」という漁師が大波にのまれて、宿根木の浜に打ち上げられた。それを見つけた「お光」は家に連れ帰り、寝ずの看病をし五作は一命をとりとめた。やがて、二人は親も認める仲となり将来を誓ったが、五作はいつも海を見てはため息をついていた。それを見ていたお光が訳を訊ねると、「一度でいい、柏崎の実家に帰り、自分が無事に生きていることを伝えたい。それから改めて宿根木に戻ってきてお前と一緒になりたい」と言われ、お光は「必ず戻ってきて一緒に暮らしましょうね」と約束をして五作を送り出した。
しかし、半年が過ぎ、一年が過ぎても五作は宿根木には戻って来なかった。心配になったお光は「たらい舟」を操(あやつ)って一人で、やっとのおもいで柏崎の浜に辿り着き、訊ね訊ねたあげくに陽も落ちた頃、五作の家を探しあてた。お光は高鳴る心を抑えて戸板の隙間から中を覗くと、そこには、女房と子どもに囲まれて幸せそうな五作がいた。
お光は五作を恨むこともなく、嘆き悲しんで柏崎の浜から海へ身を投げて短い命を絶った。
そのことを知った宿根木の人たちは、「お光の碑」を建てて供養した。
※写真の「たいこ橋」の右手に「お光の碑」がひっそりと建っている※