佐渡の概略
  


佐渡と本間氏


☆本間氏
承久の乱(承久3年・1221)で勝利を収めた鎌倉幕府の執権北条義時は、乱鎮圧の恩賞として叔父の大仏時房(おさらぎときふさ)に佐渡一国を与えた。
大仏時房に被官していた本間氏や藍原氏、土屋氏、渋谷氏などが佐渡代官となり、彼らは話し合いの上で佐渡を割譲して支配するようになっていった。
しかし、中でも本間氏は強権で、後に佐渡守護代となって佐渡のほぼ全域を掌中に収め、藍原氏や土屋氏、渋谷氏は一部の郷村を収めるのみとなっていった。
初期の頃、本間氏らは秋の収穫期になると佐渡へ渡って、年貢の徴収などに従事していたが、やがては、その子孫や一族が島内各地に散住して土豪として勢力を強めていったものと言われている。
「佐渡合戦記」によれば、佐渡の盛時にはおよそ24の所領に分かれて、本間一族が支配していたといわれている。


☆本間氏の出自
大仏氏は北条氏の一族であるが、本間氏は大仏氏に被官しており、依知(えち)の出身と言われている。昔は、愛甲郡依知村と呼ばれていた。現在の厚木市金田、下依知、中依知、上依知がその地域と考えられる。
私の高校時代の日本史の恩師である田中圭一先生(後、筑波大学教授)が昭和50年頃にこの地を訪ね歩いた記録を基に話を進めてみたいと思う。
このうち金田には本間屋敷というものが残っている。中津川に面した段丘縁に一万坪とも言われる屋敷があり、土塁が巡らされていた。この土手を「本間土手」と呼んでいた。今、屋敷地内の一部に日蓮宗妙純寺が建っている。
また、上依知の日蓮宗妙伝寺境内は本間重連(しげつら)の館址伝えられ、下屋敷という地名をもち、日蓮を預かったのはこの地だと言っているという。(日蓮上人の項参照)
「厚木中世史話」では、
「本間氏は相模国高座郡海老名郷に住する。海老名源八季定の次男、右馬允能忠は、海老名の郷の南部、高座郡恩馬郷に分家して本間氏を姓とした。この本間能忠を立家の祖としたのちに、愛甲郡依知の郷に移り住んだ」
と書かれてある。



☆佐渡定着の要因
これには、元寇(げんこう)または蒙古襲来と呼ばれる文永の役(ぶんえいのえき・1274)と弘安の役(こうあんのえき・1281)が大きく関わっている。
国内の戦いであれば、勝者は敗者の土地などを手に入れて手柄を立てた者へ恩賞として与えることができるが、元寇では鎌倉幕府は勝利を納めたものの手柄を立てた者への恩賞としての与える土地は一切なく、さらには幕府の経済力は疲弊してしまった。そこで、各地の守護代や代官となっていた者たちは、その支配地へ急遽定着をし生活の安定を計ることを考えねばならなくなった。
佐渡の本間氏もこのような事情により、佐渡を安住の地として一族郎党までもが移り住んだと考えられる。また、藍原氏や土屋氏、渋谷氏なども小領地ではあったが、同じ理由により佐渡へ定住することとなった。

☆本間能久
佐渡での本間氏は惣領家は国衙地(こくえいち=幕府の出先機関としての役所のあった所)付近に居を構えたと思われる。そして、惣家の当主は本間能久(ほんまよしひさ)と言われている。
しかし、分家や庶子家は惣領家の代官として各郷村に散住したが、次第に預かる地を自己の領地とするために惣領家に対して反抗を始める。そして、新しい幕府(足利幕府)に対してその領地を自分のものとして認めてもらうことに奔走した。
14世紀頃に安堵状(あんどじょう)や譲状(ゆずりじょう)が多く残っているのは、こうした事情を窺わせるものである。


☆本間氏の系図
佐渡の本間氏の系図は幾つか残されているが、いずれも後世に書かれたもので正確な系図は見つかっていない。
なぜならば、天正17年(1589)の上杉景勝による佐渡攻略により、佐渡のほとんどの主だった城主たちが敗北し、城も灰塵と化し後世に伝えるべき史料なども全て消失してしまったからである。
とりあえず、系図の名称だけでも記載しておこう。
「佐渡式部大輔重成の系図」、「小野系図」、「本間系図(続群書類従系図部)」、「本間系図(浅羽本)」、「海老名荻野系図」、「本間系図(丸山本)」、「河原田本間系図(佐渡風土記)」、「久知本間系図(野本本)」などがある。
中でも「佐渡式部大輔重成の系図」では、清和天皇を祖として清和源氏の流れを汲むとしている。また、「本間系図(続群書類従系図部)」、「本間系図(浅羽本)」、「海老名荻野系図」、「河原田本間系図(佐渡風土記)」では、いずれも本間能久を「佐州之守護」あるいは「佐渡守」、「佐渡国守護職」としている。
と言うことは、本間能久が佐渡へ定着したことで大仏氏との関係を断ち切った。または、すでに鎌倉幕府の衰退とともに大仏氏の手の届かないようになってしまった。
いずれにしても、本間氏は大仏氏から離脱し、新しい足利幕府に働きかけをして「佐渡守護」の職を任命されるに至ったものと考えられる。


☆平地から城へ
佐渡を分割した本間氏一族は、時には争い、時には手を携えることを繰り返しながら、やがては、戦国時代の到来とともに居館を「城」の体裁へと整えていった。

☆平城と山城
佐渡の城は、大坂城や名古屋城に見られるような三層、五層に天守を置くようなものではなく、平城(ひらじろ)、山城(やまじろ)様式であった。
<平城>・・・平坦地に土塁や石垣などを巡らせ、平面的に本丸、二ノ丸、三ノ丸などを配している。埼玉県の川越城(初雁城)が代表的である。佐渡では「雑田城」(さわだじょう)がそれにあたる。
<山城>・・・小高い丘や山の中腹などを城に見立てて、平地から坂を登るにつれて三ノ丸、二ノ丸、本丸などを配して、丘や小山自体を要害として立体的に城の様式をとったものである。佐渡では「河原田城」(かわはらだじょう)や「羽茂城」(はもちじょう)などがそれにあたる。

☆壇風城
本来は「雑田城」(さわだじょう)と呼ばれ、本間一族の惣領家と言われている。広大な国仲平野を領地として豊かな経済力を誇っていた。(現、真野地内)
「壇風城」(だんぷうじょう)の由来は、後世になって謡曲「壇風」の舞台となったことから名づけられたものである。
最後の城主は本間大炊介憲泰(おおいのすけ のりやす)である。

☆獅子城
獅子城(ししがじょう)は、本来「河原田城」(かわはらだじょう)と呼ばれ、雑田本間氏の兄の一族だったと言われており、雑田城主が宗家を名乗るのに対して本家と称してやまなかった。
当時としては、佐渡第一の金銀の産出量を誇る鶴子(つるし)銀山の近くに「沢根城」(さわねじょう)を築き、一族の本間摂津守に任せ、佐渡随一の経済力を誇っていた。(現、佐和田地内)
最後の城主は本間山城守高統(たかとう)である。

☆五社城
五社城(ごしゃじょう)は、本来「羽茂城」(はもちじょう)と呼ばれ、本間一族ではあったが、永正2年(1505)頃、越後の長尾為景と姻戚関係を持ったことにより、その後の上杉(長尾改め)謙信および上杉景勝とは強い絆で結ばれており、政治力の羽茂として佐渡の中でも強い影響力を持っていた。(現、羽茂本郷地内)
また、天正17年(1689)6月3日から始まった上杉景勝の佐渡攻略に際しては、最後まで抵抗をして6月16日に佐渡最後の城として落城した。
最後の城主は本間対馬守高貞(たかさだ)である。

☆沢根城
沢根城は本間一族の中でも、河原田本間氏から分家をし、鶴子銀山の稼ぎを任されていた。しかし、後年には河原田本間氏と金銀の取り分について争うようになり、佐渡を見限り越後の上杉景勝の佐渡攻略に際しては、一早く臣下の礼をとり、天正17年(1689)6月1日に景勝軍を沢根の浜に手引きをし、佐渡上陸の拠点として開城した。(現、沢根地内)
最後の城主は本間摂津守高次(たかつぐ)であるが、景勝が佐渡攻略を終えて越後に引き返すと、高次は景勝に従って越後に渡り、上杉家の家臣として重きを成した。


☆佐渡の主な城址等
佐渡の城址