☆日蓮と鎌倉幕府
建長5年(1253)4月28日、日蓮は生まれ故郷の安房国(あわのくに・現、千葉県)清澄寺(せいちょうじ)で、「南無妙法蓮華経」こそが末法の世における民衆救済の仏法であると説き始め、諸宗を一切の災厄(さいやく)の元凶であると非難した。やがて、日蓮は政都である鎌倉に入り草庵を結び布教の拠点とした。
文応元年(1260)7月16日、日蓮は「立正安国論」を北条時頼(ときより=前の執権であり時の最高権力者)に上呈し、
「法華経をもって国を治めなければ自界叛逆難(じかいはんぎゃくなん=内乱)と他国侵逼難(たこくしんぴつなん=他国からの侵略)の二難が起こる」
と説いた。
しかし、「御尋ねもなく御用いもなく」(下山御消息)、約一ケ月を経た8月27日の夜、日蓮の草庵を多くの念仏者たちが襲撃してきた。日蓮は辛くも難を逃れて鎌倉を脱出したが、翌弘長元年(1261)5月、鎌倉に戻っていたところを騒乱を起こした張本人と咎められ幕府によって捕捉された。そして、伊豆へ流罪となり、弘長3年(1263)まで押しとどめられた。
伊豆流罪赦免後の文永元年(1264)、故郷の安房国に戻っていた日蓮は、小松原において地頭の東条景信(かげのぶ)らに襲撃され、幾人かの弟子を失った。
一方、鎌倉では、日蓮が「立正安国論」で述べたとおりに、地震や火災などの災厄が頻発した。その上、文永5年(1268)1月には、元(蒙古)から、
「朕(ちん)が躬(み)に至って一乗の使(つかい)をもって和好を通ずることなし。通問して好(よしみ)を結び、以(もっ)て相親睦せんこと。兵を用うるに至る。それ孰(いずれ)ぞ好むところなり」(東大寺蔵・写)
要約すると、
「私が皇帝に即位してから、一度も使いをよこしていない。和を結ぼうともしていないので、兵を用いる(戦いを挑む)こととした」
と、日本を脅しにかかってきたのである。
日蓮の予言は的中したかにみえ、一貫して「立正安国論」の主張を曲げず、南無妙法蓮華経を唱えなければ国が滅びると警告し続け、諸宗に対する非難をさらに強めていった。そして、幕府に対して、公の場での諸宗との問答対決を要求し続けた。これにより、諸宗の僧らは日蓮を憎みさまざまな讒言(ざんげん)を幕府の要人らに訴えた。そのため日蓮やその門弟たちは幕府により一層の弾圧を加えられることとなった。
文永8年(1271)7月8日、極楽寺良観(りょうかん)が浄光寺行敏(ぎょうびん)の名を借りて日蓮に書状を送り問答を要求してきた。しかし、日蓮はあくまでも公の場での問答を要求する返書を送った。
こうしたことに怒りを憶えた良観らは幕府に日蓮の行状を訴えた。
9月10日、日蓮は評定所に呼び出され、侍所所司(さむらいどころしょし)平左衛門尉頼綱(へいのさえもんのじょう
よりつな)から尋問を受けた。日蓮は多くの経文を引用しながら「立正安国論」の正当性を展開した。そのことにより平左衛門尉頼綱は逆上し、「すこしもはばかる事なく物にくるう」(種種御振舞御書)の姿を露呈した。
さらに、9月12日、「一昨日御書」と呼ばれる一書に「立正安国論」を添えて頼綱に諫暁(かんぎょう=さとすこと)をした。頼綱は怒り心頭に達し、その日の午後に数百人の兵を引き連れて日蓮を捕捉した。そして、同日夕刻、腰越(こしごえ)竜の口の刑場に連行し斬首しようとした。
「江のしまのかたより月のごとくひかりたる物、まりのやうにて辰巳(たつみ=南東)のかたより戌亥(いぬい=北西)のかたへひかりわたる」(種種御振舞御書)
と記された異変が起きたため、兵士たちがおじけづいてしまい日蓮は斬首を免れた。(竜の口法難)。そして、酉刻(とりのこく=午後6時)に武蔵守北条宣時(のぶとき)に預けられた。
☆佐渡までの道のり
文永8年(1271)9月12日夜、幕府は緊急の評定を開き、日蓮を佐渡配流と決定した。
「此の十二日、酉の時御勘気、武蔵守殿あづかりにて十三日丑の時(午前2時)にかまくらをいでて佐土の国へながされ候が、たうはほんまえちと申すところに、えちの六郎左衛門の代官右馬太郎と申す者あづかりて候が、いま四五日はあるべげに候 九月十四日」(文永8年依智より土木殿御返事)
この書状にあるように、9月13日午前2時に鎌倉を出立したことが窺える。おそらく、門徒たちの反乱や動揺を危惧して、わざわざ人目を避けての真夜中の出立であったと思われる。
そして、この書状でも判るように、依智(えち・現、厚木市)の佐渡守護代本間六郎左衛門重連(しげつら・佐渡本間氏の祖)の屋敷へ向かった。しかし、六郎左衛門重連はこの年の春から役務(年貢の徴収等)で佐渡へ渡っていたため、六郎左衛門重連の代官右馬太郎(うまたろう)の屋敷で預かることとなった。
右馬太郎の屋敷で待つことしばし、
「其の日の戌の時(午後8時)ばかりに、かまくらより上の御使とてたてぶみもちて来ぬ。首切れというかさねたる御使かと、もののふどもはをもひてありし程に、六郎左衛門が代官右馬太郎の尉と申す者、立てぶみもちてはしり来り、ひざまづいて申す、今夜にて候べし、あらあさましやと存じて候いつるに、かかる御悦びの御ふみ来りて候、武蔵守は今日卯の時(午前6時)にあたみの御湯へ御出・・・」(種種御振舞御書)
概略としては、
「午後8時に鎌倉より使いが来て、再度、首を刎ねよと言っているのかと右馬太郎は思ったらしかったが、そうではなかった」
と読み取れる。この日付は9月13日となっている。
従って、幕府は日蓮を追いかけるようにして右馬太郎の屋敷に来て、改めて「佐渡配流」を正式に申し渡したものと考えられる。
この日から約1ケ月間、日蓮は右馬太郎の屋敷にとどめられたが、その間、右馬太郎は、佐渡にいる六郎左衛門におそらく「佐渡での受け取りをよろしく頼む」といった内容の書状を出していると思われる。しかし、日蓮が右馬太郎の屋敷から出立したのは10月10日であるので、この26日間に使いの者が依智と佐渡を往復したと考えられる。と、なると片道13日である。旧暦の10月は日本海の波も高くなり、廻船なども浜に引き上げられている時期で、特別に船を仕立てたり、よほど波が穏やかだったのではないだろうか。
「今月七日さどの国へまかるなり」(五人土籠御書・10月3日付)
これは、「7日頃佐渡へ送られるようだ、と皆が話し合っている」
との文面で、日蓮は一人ではなく、佐渡へ随行する者が何人かいたことを物語っている。そして、鎌倉で土牢に閉じ込められている弟子たちに送った書状のようである。
「日蓮は明日佐渡の国へまかるなり、今夜のさむきに付けても、ろうのうちのありさま思いやられていたはしくこそ候へ、(中略)籠をば出でさせ給い候はば、とくときたり給へ、見たてまつり、見えたてまつらん 文永八年十月九日 筑後殿」
「筑後殿」とは日蓮の高弟の一人「日朗」(にちろう)のことである。そして、土牢の中の寒さを案じながらも、10日に佐渡へ向けて出立することが決まったことを伝えているのである。
「今月十日相州愛京郡依智を起って、武蔵の国久目河(東京都東村山市久米川)の宿に付き、十二日を経て、越後の国寺泊の津(港)に付きぬ、此れより大海を亘って佐渡の国に至らんと欲するに、順風定まらず其の期を知らず」(寺泊御書)
この書状は、日蓮がもっとも親しくしている檀越(だんのつ)で、越後まで何人もの供人を付けてくれ、さらに年老いているにもかかわらず自らも越後まで供をして来てくれた富木常忍(とき
じょうにん)に手渡して関東へ帰したものである。10月22日、寺泊からのことであった。
この寺泊で一行は6日間の船待ちをした。
右馬太郎の使いが依智と佐渡を行き来した時期よりもさらに遅い時期であり、廻船はなく全てが陸に引き揚げられていた頃である。
廻船ならば6〜7人が艪を漕ぎおよそ3刻(6時間)で寺泊と赤泊、あるいは、寺泊と松ヶ崎間を渡り切ることができる。(この区間はおよそ30qである)。
日蓮には数人の弟子たちが同行しており、数隻の船に分乗して渡海している。
日蓮一行が波間をみて佐渡へ渡ったのは10月28日であった。
☆佐渡での日蓮
日蓮一行は文永8年(1271)10月28日、佐渡の松ヶ崎に着いた。
通例として、その日は松ヶ崎に宿泊をしてから、翌29日に波多(はた・守護所の置かれた場所・現、畑野地内)へ向かい、その日のうちに波多にある守護所の隣にある本間六郎左衛門重連の館へ入ったと思われる。そして2日後に住まいとして与えられた場所で暮らすこととなった。
なお、太陽太陰暦(旧暦)では1ケ月は29日または30日までしかないが、この年は30日まであった。
「同十月十日に依智を立って同十月二十八日に佐渡の国へ着きぬ。十一月一日に六郎左衛門が家のうしろ塚原と申す山野の中に洛陽の蓮台野のやうに死人(しびと)を捨てる所に一間四面なる堂の仏もなし。上はいたま(板間)あはず、四壁はあばらに雪ふりつもりて消ゆる事なし、かかる所にしきがわ打ちしき蓑うちきて夜をあかし日をくらす。夜は雪雹(せつひょう)雷電(らいでん)ひまなし。昼は日の光もさ々せ給はず、心細かるべきすまゐなり」(種種御振舞御書)
☆配所の謎
これは現在でも明快な答は出されていない。私の高校時代の恩師である田中圭一先生(後、筑波大学教授)や佐渡の高名な歴史家をもってしても解き明かすことのできない永遠の「謎」に包まれているのである。そして、幾つかの論文等も発表がなされている。
私もそれらの何冊かは読んだが、私はこの解明に情熱を傾注された田中圭一先生の現在の佐渡市畑野地区目黒町を基とすることとした。
日蓮の起居する「堂」は「在家」(ざいけ)の堂と思われる。この在家の名主(みょうしゅ=在家の主・ある意味では「庄屋」と考えて良い)は阿仏房(あぶつぼう)であった。
「在家」とは、佐渡では一つの在家を「一堂一社七竃(かまど)」と呼び、近くの百姓が一つの社(やしろ)と一つの堂を持ち、主を中心とした結合体のことである。
佐渡へ流された流人(るにん)は、決して土牢などに閉じ込められるわけではなく、守護所近辺の寺や名主などに預けられ、守護所からは「扶持米」が支給された。
日蓮は、まずは守護所に近い名主阿仏房に預けられたのであった。
☆阿仏房
日蓮は、阿仏房の堂から文永8年(1271)11月23日に、開教初期から檀越(だんのつ)であった富木常忍入道(とき
じょうにん)に書状をしたためている。
「此の北国佐渡の國に下著(げちゃく)候て後、二月は寒風頻(しきり)に吹て、霜雪(そうせつ)更に降ざる時はあれども、日の光をば見ることなし、八寒(はっかん)を現身(うつせみ)に感す。人の心は禽獣(きんじゅう)に同(おなじ)く主師親を知らず。何(いか)に況(いわん)や佛法の邪正師の善悪は思ひもよらざるをや」(富木入道殿御返事)
現代訳すると、
「この北国の佐渡の国に到着してから二ケ月の間、寒風がしきりに吹いていて、霜や雪は降らない時もありますが、陽の光を見ることはありません。仏典に説かれる八寒地獄をわが身に感じています。佐渡の国の人々の心は獣のようであり、人が尊崇すべき主師親を知りません。いわんや仏法の正邪、つくべき師の善悪など考えることもないでしょう」
これは、日蓮が赦免後、身延山へ帰ってから阿仏房の妻千日尼に宛てた書状から次のことが判る。
「地頭々々等念仏者々々々等、日蓮が庵室(あんしつ)に昼夜に立ちそいてかよ(通)う人あるをまどわさんとせめしに、阿仏房にひつ(櫃)をしをわせ、夜中に度々御わたりありし事、いつの世にかわすらむ」(千日尼御前御返事)
訳すると、
「地頭や念仏者などが日蓮の庵室の前に昼となく夜となく立ち番をして、もし庵室に入る者がある時は、それを妨げようとしていたのに、あなたが阿仏房に櫃(炊いた飯を入れたもの)を背負わせ、夜中に何度も日蓮のもとに通わせて下さったことを、いつの世に忘れることができましょうか」
この書状に見られるように、日蓮の堂には常に念仏者たちが監視をしており、全くの自由がないことに内々で怒り、佐渡の国の人々は親をも尊崇できないような猛獣のようだ。と、書き送ったものである。
さて、ここで「念仏者」と出てくるが、一体何者なのであろうか。
これは、承元元年(1207)に法然門類配流の際、佐渡に法本房行空(ほうほんぼう ぎょうくう)が流されて来て「一念義念仏」の教えが広まったものである。
なお、行空が流された年については「歎異抄」(たんにしょう)や「拾遺古徳伝絵詞」(しゅういことくでんえし)、「三長記」(さんちょうき)では承元2年2月との記載がなされている。法然や親鸞とは別に後になって流刑が確定したものかも知れない。多少の疑問が残る。
ともあれ、行空は法然(ほうねん)の提唱した「専修念仏」(せんじゅねんぶつ)を基にした説法の一つを用い、要は、法然や親鸞(しんらん)と同じく何の荒行や苦行も必要とすることなく、ただ「南無阿弥陀仏とさえ唱えていれば極楽往生ができる」という「浄土真宗」の教えを説いたものだったのである。この教えは、佐渡においても爆発的に拡大をしていったと思われる。日蓮を見張ったのはこのような人々だったのである。政都には遠く政治には疎く穏やかな気質の佐渡の島民にとっても、日蓮は持論を展開し一切の諸宗を誹謗中傷していることを聞かされた人々は、こと信仰のこととなると厳しい目を向けざるを得なかったのであろう。
なお、阿仏房は日蓮を預かるようになってから帰依したものと思われる。
また、文永11年(1274)2月14日、日蓮に赦免状が出された。そして、日蓮は3月15日に佐渡を離れ身延山へと向かった。
その後を追うようにして、阿仏房は文永11年から弘安元年(1278)までの5年間に3度も身延山を訪れている。
☆塚原問答
日蓮が流された翌年、文永9年(1272)1月、他宗の唯阿弥陀仏(ゆいあみだぶつ=唯一の阿弥陀仏を唱える者=浄土真宗)の生喩房(しょうゆぼう)、印性房(いんしょうぼう)、慈道房(じどうぼう)などの人々が集まり、
「阿弥陀仏の大怨敵(だいおんてき)日蓮房が佐渡に渡ってきた。これは放っておくことができない」(種種御振舞御書)
と、相談した結果、守護所に押しかけ、
「きらずんばはからうべし」(種種御振舞御書)
と、守護代の本間六郎左衛門重連(しげつら)に日蓮の斬首か死に及ぶ処置を要求した。
しかし、重連は、
「上より殺しまいすまじき副状下りて、あなづるべき流人にはあらず。あやまちあるならば重連が大なる失(とが)なるべし、それよりは只法門にてせめよかし」(種種御振舞御書)
と応え、その結果、日蓮と法論を戦わせることとなったのである。
文永9年(1272)1月16日の朝、塚原の堂の庭には各宗派の僧侶や本間六郎左衛門重連とその兄弟一族、百姓でありながら在家の入道と呼ばれる権力者たちが集まった。(塚原問答)
日蓮はその時の様子を後年、次のように語っている。
「念佛者は口々に悪口をなし、眞言師は面々に色を失ひ、天台宗ぞ勝つべきよしをの々しる。在家の者どもは聞こふる阿彌陀佛のかたきよとの々しり、さわぎひびく事震動雷電の如し、日蓮は暫(しば)らくさはがせて候、各々しづまらせ給へ。法門の御為にこそ御渡りあるらめ。悪口等よしなしと申せしかば、六郎左衛門を始めて諸人然るべしとて、悪口せし念佛者をばそくび(素首)をつきいだしぬ」(種種御振舞御書)
訳すると、
「念仏者は口々に悪口を言い、真言師は顔色を失いながらも天台宗が勝つのだということばかりを声高に叫んでいた。在家の者たちは『かねてより聞いていた阿弥陀仏の敵だ』とののしり騒いで、その声が響く様子は地震か雷のようであった。日蓮はしばらく騒がせた後、『皆の者、静かになされよ。今日は法門のためにいらっしゃられたのでないのか、悪口など意味がない』と言った。すると、本間重連をはじめ諸々の人が『そうだ』と言って、悪口ばかりを言っていた念仏者の首をつかまえて日蓮に差し出した」
機先を制した日蓮は、相手を一つひとつ責めたてた。こうして対立者たちは、
「或は悪口し、或は口を閉ぢ、或は念佛ひが(僻=正常でないこと)事也けりと云うものもあり、或は当座に袈裟平念珠をすてて念佛申すまじきよし誓状を立つる者」(種種御振舞御書)
のような様相を呈し、日蓮は一方的な勝利をおさめたと言われている。
2月18日、守護代の重連の元へ鎌倉から使者が来た。
「鎌倉や京都で戦が始まったので、直ちに帰参せよ」(二月騒動)
と言うものであった。
重連は間もなく参陣すべく佐渡を発った。
佐渡守護代であり、実質的な佐渡の統治者がいなくなったのである。
この機会を逃してなるものか。とばかりに、敗北者たちは、直ちに、さまざまなかたちでの復讐を開始し日蓮を圧迫した。
その一例が、檀越に対する迫害であった。阿仏房を在家から追い出し、日蓮に対する庇護を封じ込め始めたのであった。
文永9年2月末頃であったと思われる。
幸い、阿仏房はある程度の財産を所有していたため、新しい地での生活はできたようであるが、これにより日蓮への差し入れなどが一切できなくなったのであった。(上記「塚原等の位置関係」の地図参照)
さらに、敗北者たちは日蓮たちをも堂から追い出し、一里半(5〜6q)ほど離れた一谷(いちのさわ)入道のもとへと追いやったのであった。(現、佐渡市佐和田地内野沢)
☆蓮華王山(阿仏房)妙宣寺
妙宣寺(みょうせんじ)の由緒書では、
「当阿仏房妙宣寺は承久三年(1221)順徳上皇当国へ御遷幸ありしとき、供奉(くぶ)侍遠藤左衛門尉為盛(えんどうさえもんのじょう
ためもり)の開基にして、仁治三年(1242)上皇崩御せらるるや、落髪して陵下に心喪を修する事三十年、念仏称名おこたらざりしを以て時人呼て阿仏房と称し、其の妻千日女と共に在家の僧なり・・・」
と書かれてある。
これらは、佐渡の観光案内書などにも書かれてある。
新潟県唯一の五重塔がある。
☆法久山世尊寺
世尊寺(せぞんじ)の由緒(伝承)としては、
日蓮に随行して佐渡に渡った上足(じょうそく=高弟)日興(にっこう)により開かれ、二代目は遠藤四郎盛国(もりくに=為盛(阿仏房)の弟)こと下江房日増(しもこうぼう
にちぞう)と妻の妙円尼(みょうえんに)、三代目は国府入道(こうのにゅうどう)と是日尼(ぜにちに)が継いだ・・・」
と言われているが、
「世尊寺年代記」によると、
「国府(こうの)入道は名を遠藤四郎盛国といい、遠藤武者盛遠(もりとお)の後裔(こうえい)で、順徳上皇にしたがって佐渡に渡ったが、仁治3年(1242)の9月、上皇がお隠れになった後は、その御遺勅にしたがい・・・・(中略)・・・御菩提をとむらった。年52歳であった。・・・(略)・・・そして、盛国は下江房日増(しもこうぼう
にちぞう)と名をあらためた」
となっている。
となると、伝承では二代目の下江房と三代目の国府入道を別人としているが、世尊寺年代記では「下江房=国府入道」と書かれてあるのだ。
矛盾があると思われる方もおられることと思いますが、伝承にしても「世尊寺年代記」にしても後世に書かれたりしたものであり、実際は何とも言いようがない。
☆長慶山妙満寺
妙満寺(みょうまんじ)由緒書、
「創立年月は詳(つまびらか)ならずといえども口碑に伝ふ、順徳上皇御遷幸の際、供奉の士遠藤左衛門尉為盛、法名阿仏坊日得(にっとく)、同人嫡子藤九郎盛綱(もりつな)、法名豊後房日満(ぶんごぼう
にちまん)の開基」。
☆三つの寺の謎
この謎解きには、恩師の田中圭一先生にも多大なるご尽力をいただきました。サイト上で失礼とは存じますが深く感謝申し上げております。
妙宣寺と妙満寺では、順徳上皇に供奉して来た「遠藤左衛門尉為盛」を縁起としている。また、世尊寺でも「遠藤四郎盛国」(為盛の弟)を住持としている。
しかし、「皇代暦」(こうだいれき)や「吾妻鑑」(あづまかがみ」、「承久記」(じょうきゅうき)を精査した結果、遠藤為盛も遠藤盛国も佐渡への随行者に、その名が見られないのである。
では、どこから「遠藤伝説」が生まれたのであろうか。
遠藤氏が出てくる書籍を色々とあたってみた。
「渡辺遠藤六郎頼方」(平家物語)
「渡辺党に遠藤六郎頼賢」(源平盛衰記)
「文覚(ぶんがく=盛遠の父)は渡辺党に遠藤右近将監盛光が一男、上西門院の北面の下摶轣v(源平盛衰記)
「渡辺の遠藤左近将監持遠」(平家物語)
そして、「国史大辞典」によると摂津渡辺党として栄えた者たちであることが判った。
また、本来は妙満寺にあるべき「開山日得系図」が妙宣寺にあるが、まずは、「続群書類従」(しょくぐんしょるいじゅう)の系図とがある部分で完全に一致しているのである。ところが、摂津渡辺党の正統といわれる家系図をあたると、「(渡辺党)遠藤系図」には書かれていない枝葉(えだは)の系譜が数多く見られ、摂津渡辺党からすれば流人の島に渡った遠藤氏は完全に除外視していることがわかる。
さらに、「開山日得系図」の中ほどに大きな柳の木が描かれ、その柳の木から佐渡の遠藤氏が飛び出しているのである。
これは、何を意味していたのだろうか?
田中圭一先生が解読してくれた。それによると、
柳の木は自らの宅地を暗示し、それを国府入道(こう<の>にゅうどう)の跡と伝える下国府房(しもこうぼう)に寄進をした「柳屋遠藤氏」を讃えるために描かれたものである。と言われたのである。
つまりは、柳屋遠藤氏の系統を代々に渡って加筆、粉飾したことにより、遠藤系図をどこかの偉い人物に結び付ける必要性から、まずは、渡辺党遠藤氏に結び付け、続いては、恐れ多くも順徳上皇に随行した人物に仕立て上げた可能性が高いのである。
こうしたことは、中世では良くあることで、例えば、徳川家康も系図上では源氏の血を引くといわれるように、自らの系図を偉い人物につながらせることにより、その家が名誉を保ち郷村の実力者として崇め奉られるからである。そのおかげかどうかは判らないが、柳屋遠藤氏は四日町(現、真野地内)という市場(街)を開き、大檀那となって妙経寺(みょうけいじ=法華宗・現、河原田地内)を建立している。大変な資産家であり実力者だったのだ。
そして、上記の三寺も時代とともに遠藤氏の多大な寄進により、徐々に寺領を広げていっている。従って、三寺の由緒書は当然、後年になって書かれたものであって、加筆、粉飾された柳屋遠藤家の系図から引っ張ってきたと考えられるのである。
だが、まあ、佐渡の人々の夢を壊さないためにも、阿仏房=遠藤左衛門尉為盛としておきましょうか・・・。
☆一谷入道
塚原問答の後、敗北者たちは阿仏房を在家から追い出し、次に日蓮をも塚原から追い出した。そして、日蓮たちは一谷(いちのさわ)入道が預かることとなった。
日蓮が身延山へ行ってから、建治元年(1275)5月8日付で一谷入道の妻に宛てた手紙を紹介しよう。
「文永九年(1272)の夏の頃、佐渡の國石田の郷一谷と云ひし處に有りしに、預かりたる名主(みょうしゅ)等は公と云ひ、私と云ひ、父母の敵よりも宿世の敵よりも悪げにありしに、宿の入道といゐ、め(妻)といゐ、つかうものと云ひ、始めはおぢをそれしかども先世の事にやありけん、内ゝ不便(ふびん)と思ふ心付きぬ。預かりよりあづかる食は少なし、付ける弟子は多くありしに、僅の飯の二口三口ありしを、或はおしきに分け、或は手に入れて食ひしに、宅主内々心あて、外にはをそるる様なれども内には不便げにありし事、何の世にかわすれん。我を生みておわせし父母よりも、当時は大事とこそ思ひしか」(一谷入道御書)
訳すると、
「文永9年の夏の頃、佐渡の国の石田郷一谷というところにいたのですが、日蓮を預かった名主は、公にも私にも、父母の敵よりも過去の世(よ)からの敵よりも日蓮を敵視していましたが、宿の入道といい、その妻といい、使用人たちといい、はじめは日蓮を恐れていたようでしたが、前世からの宿縁があったのでしょうか、次第に心の中で日蓮を不憫(ふびん)と思う心が生じてきたようでした。預かり主の名主から預かる日蓮のための食糧は少なく、日蓮のもとについている弟子は多かった。二口か三口分のわずかな飯を、ある時は(木製の)角盆に分け、ある時は手で食べていたところ、宿の入道は内々こころがあって、外面では日蓮を恐れているようでもありましたが、内心では日蓮を不憫に思ってくれる心があったことを、いつの世にも忘れることはできません。当時は、私を生んでくれた父母よりも大事な人でした」
日蓮には下男も含めて8人が共に起居していた。しかし、守護所より配給される扶持米等は、1日あたり米1升、塩1勺(しゃく)と日蓮一人分でしかなかった。さらには、扶持米もいつまでも支給されるわけではない。およそ1年間位は支給されるが、その後は田畑が与えられ、そこを耕して食を得なければならなかったのだ。しかし、塚原においても阿仏房が差し入れするぐらいであったから、当然、食糧は足りてはいなかった。そして、文永9年3〜4月頃、一谷へ移され田畑を与えれ耕したとしても、食を得るには秋まで待たなければならないのだ。日蓮たちの食糧事情は慢性的に大変厳しいものだったのだ。
また、この手紙で判るように、「預かりたる名主」と「一谷入道」が別人として書き分けられている。預かりたる名主は日蓮を大変憎んでいたようだが、一谷入道は次第に日蓮を不憫と思うようになってきたことが窺える。だが、一谷入道の宅地内には阿弥陀堂があり熱心な念佛者だったのだ。日蓮の法華経の説法は理解できても、阿弥陀信仰を捨てることはできなかったようである。
なお、一谷入道は「市野沢村」に住していた近藤伊代守清久(きよひさ)の一族で同じく「近藤」を名乗り、「預かりたる名主」は近藤家の本家筋を指していると思われる。
☆国府入道
国府入道(こう<の>にゅうどう)についての史料は非常に乏しい。
世尊寺の「寺社境内案内帳」(文歴年間・1234年頃作成)によると、
「駿州富士本門寺末で開基は日貞(にってい)上人、俗名は(遠)藤四郎盛国といい順徳院に仕へ、崩御の後禅門して国府入道と云ふ。文久九申年((1272)正月十六日、塚原に於て祖師の直弟子となる」
また、「世尊寺年代記」では、
「国府入道は、はじめ雑太(さわだ)郷之内畑方村(現、畑野地内下畑)に寺一宇を建てたが、それは、「下国府房」(しもこうぼう)と呼ばれていたという。それが世尊寺の元の名前である」
と書かれてある。
つまりは、国府入道は阿仏房の弟であり、共に順徳上皇に供奉していたが、上皇崩御の後は二人とも佐渡に残り、兄の為盛は阿仏房と呼ばれて守護所近くで仏に仕える身となり、弟の盛国も国府入道と呼ばれて雑田で禅寺を開いた。しかし、二人とも日蓮により改宗をした。と言うことらしい。
確かに、阿仏房と国府入道は互いに親密な間柄であった。
建治元年(1275)、佐渡の国府尼御前(国府入道の妻)に宛てた書状では、
「・・・しかるに、尼ごぜん並びに入道殿は、彼の國に有る時は人めををそれて、夜中に食ををくり、或る時は國のせめをもはばからず身にもかわらんとせし人々也・・・」(国府尼御前御書)
これは、阿仏房が櫃(ひつ)を背負って日蓮のもとへ食事の差し入れを運んだのに対して、国府入道は食事(食費)を送ったことに対するお礼の手紙である。
文永12年(1275)の初夏、国府入道は身延山の日蓮を訪ねた。
「あまのりのかみぶくろ二、わかめ十でう、こも(小藻)のかみぶくろ一、たこひとかしら、人の御心は定めなきものならば、うつる心さだめなし、さどの國に候し時御信用ありしだにもふしぎにをぼへ候しに、これまで入道殿をつかわされし御心ざし、又國もへだたり年月もかさなり候へば、たゆむ御心もやとうたがい候に、いよいよいろ(色)をあらわし、こう(功)をつませ給ふ事、但一生二生の事にはあらざるか・・・」(国府入道殿御返事)
訳すると、
「あまのり(海苔)の入った紙袋二つ、わかめ十帖、小藻の紙袋一つ、蛸一頭(ひとかしら)を頂きました。人の心は変わりやすく、移る心は定めなきものです。佐渡の国に日蓮がいたとき、日蓮を御信用くださったことだけでも不思議に思っておりましたところ、この遠く離れた身延山まで御主人の国府入道殿を送り出してくださった御志、また、国も遠く離れ、月日も隔たっているので、御信心も弛(ゆる)んでしまっているのではなかろうかと疑っていたのに、あなたの信心の深さはいよいよはっきりとしたものとなり、仏道修行に励まれているそのお姿は一生二生の因縁でこの信心にめぐりあったものではありますまい。・・・」
弘安元年(1278)7月、国府入道は今度は阿仏房と一緒に、身延山に向かって出発したが、舟待ちでもあったのか国府入道は途中で引き返している。
「国府入道殿は同道にて候いつるが、早稲はすでに近づきぬ、子はなし、いかんがせんとて、帰られ候いつる」(阿仏房尼御前御返事)
とあるように、国府入道には子供がおらず、早稲米の稲刈りのときには自分がいなければならなかった境遇が読み取れる。
☆赦免状と日朗伝説
文永11年(1274)2月14日、赦免状が鎌倉幕府から出された。
佐渡に伝わる伝説をまず紹介してみよう。
「鎌倉に残っていた弟子の一人の日朗(にちろう)は、夜に日をついで佐渡へ向かった。折しも海は荒れていたが、一刻も早く赦免状を届けたいとの願いから一艘の小舟で沖へ出た。廻船ならば船頭以下6〜7人が艪を漕いで3刻(6時間)余りで渡り切るのだが、日朗の乗った小舟は佐渡を目前にして日本海の荒波の中へと消えた。日朗はまさに板切れ一枚につかまって必死の思いで泳いだ。岩影が見えた。とにもかくにも、命だけは助かったのであった。荒れ狂う波を避けて岩の頂上に登り、暗闇の中でなすすべもなく、ただただ法華経を唱えて夜を明かした。陽が昇り始めて、日朗は辺りを見た。一念が天をも貫き仏の加護か日朗が夜を明かした岩は陸続きであったのだ」
と言うもので、現在、佐渡市小木地内宿根木(しゅくねぎ)、経島(きょうじま)伝説である。
「文永十一年二月十四日の御赦免状、同三月八日に佐渡の国につきぬ。同十三日に国を立ちて、まうら(真浦・現、佐渡市赤泊地内)というつ(津=港)にをりて、十四日はかのつにとどまり、同じき十五日に、越後の寺どまり(寺泊)のつにつくべきが、大風にはなたれ、さいわひに、ふつかぢすぎてかしはざき(柏崎)につきて、次の日はこうにつき、中十二日をへて、三月二十六日に鎌倉へ入りぬ、同じき四月八日に平左衛門尉(へいのさえもんのじょう)に見参す」(光日房御書)
2月14日に出された赦免状を日蓮が受け取ったのは3月8日だといっている。
鎌倉からは急ぎ足ならば12〜13日で佐渡へ着く。しかし、書状にもあるように、2〜3月頃はまだ海が荒れていて日朗はだいぶ船待ちをさせられたことが判る。
江戸時代の千石船でさえ、佐渡から船出をするのは3月の下旬から4月初旬にかけてであるから、小さな漁舟ではよほど波の静まるのを待たなければならなかったのであろう。
☆塚原山根本寺
根本寺(こんぽんじ)は日蓮宗の10大聖地の一つであり、後世に書き加えられた寺史には、この寺の三昧堂(ざんまいどう)で日蓮は起居したことになっている。
また、ここの三昧堂で塚原問答が行われ、それを経て、日蓮はこの地で「開目鈔」(かいもくしょう)や「勧心本尊抄」(かんじんほんぞんしょう)などを著して教義を確立したとも言われている。
だが、日蓮が佐渡にいた頃には、まだ寺として公認されてはいなかった。そして、初期の段階では法華宗「正教寺」(せいきょうじ)として縁起を持ち、その後、根本寺と改められている。
江戸時代に入り、佐渡金銀山で大きな財力を持っていた山師味方(みかた)但馬守孫太夫家重(いえしげ)が莫大な寄進をして、今日の隆盛を誇るようになったといわれている。
(「味方但馬守」については「佐渡金山」の項を参照されたい)。
☆佐渡の日蓮宗
日蓮が佐渡へ流されたので、「佐渡では日蓮宗が多いのでは?」と良く聞かれるが、先にも述べた通り、日蓮の配所の周りには念佛者たちが四六時中、見張りをしていたため、日蓮や供をしてきた弟子たち自身が布教をして回ることはできなかった。
わずかに、日蓮を預かった阿仏房や国府入道らによって広められていったようであるが、真の日蓮宗が佐渡で広まったのは近世になってからのことである。