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(参考文献等:稲垣史生著「江戸ものしり475の考証」・花咲一男監修「大江戸ものしり図鑑」・TV東京「大奥」他)
江戸城と大奥
☆千代田城(江戸城)
慶長五年(1600)、徳川家康が関ゲ原の戦いで勝利をおさめ、慶長八年、征夷大将軍となって江戸に幕府が開かれ、江戸は一躍、日本の中心地として繁栄の道を歩みはじめたのです。江戸城は正式名称を「千代田城」またの名を「舞鶴城」(ぶかくじょう)といいましたが、通常は、武士も庶民も、ただ単に「御城(おしろ)」と呼んでいました。現在の皇居の内堀に囲まれたところが本丸で、総面積30万坪といわれています。築城当時は五層に天守閣をすえた堂々とした造りでしたが、明暦三年(1657)の大火で類焼し、幕府経済も逼迫していたため、復興することなく明治維新まで放置されました。なお、大奥はもちろん「女の園」でしたが、実態をなかなかつかめなかったのが正直なところです。「お宿さがり」をした女中なども「禁句」とされて、お城(大奥)でのできごとを話してはならない「誓書」を入れさせられていたため、誰も語ることなく「闇の世界」でした。「一、奥方之儀 何事ニヨラズ 外様ヘモラシ申マジキ事」。
大奥の様子が初めて研究されはじめたのは、明治になってからで、まだまだわからないことが多いのが現状です。したがって、歴史作家などは、こぞって大奥の研究に奮闘しています。
☆江戸時代「将軍」のことを「将軍さま」とは呼ばなかった?
時代劇では、「将軍さまのお成り・・・・・・」などと仰々しく台詞を言いますが、実は、「公方さま」(くぼうさま)または「御公儀さま」「大樹さま」(たいじゅさま)と呼ばれたのが正しい。正式には、「征夷大将軍」といい、蝦夷(えぞ=東北地方)を征伐するという役職名でした。足利義満が将軍となった時、「公家に摂政なる棟梁あり、沙門(さもん=寺院)に門跡なる棟梁あれども武家になし、何とぞ公方の号を・・・」と第98代長慶天皇に願い出たのが最初だとか。
☆公方さまが隠居したら何と呼ぶ?
将軍が隠居をすると西丸へ移る。そして「大御所さま」と呼ばれた。しかし、条件があった。一つ目は、新将軍の父であること。二つ目は前将軍であること。そのどちらが欠けても「大御所さま」とは呼んではいけない。したがって、お世継ぎがいない場合、養子縁組をして新将軍の父ということで「大御所」と名乗った。
☆大名はこぞって将軍さまを真似した?
そうなんです。江戸城には「表」「中奥」「大奥」があり、諸大名は江戸城の格式を真似て「表」「奥向き」と仕切られていました。「中奥」や「大奥」と呼ばなかったのは、多少の遠慮があったからです。しかし、奥女中の職名や階級は同じで、それに間取りなども禄に応じて江戸城を小さく模した。「お毒見役」や「中(ちゅうろう)の御添寝役」なども諸大名家にもありました。したがって、貧乏大名では大して豪華でもない食事を、うるさい仕来りで食べねばならず、たいへん苦労しました。また、女ぎらいの大名もいましたが、奥向きへ行くことを薦める役職もあり、奥行きを勝手にやめるわけにはいかなかったのです。
☆将軍に謁見するときの決まり
謁見には「お目見得(おめみえ)」「御前御用」(おんまえごよう)などといろいろな内容の御用があり、呼ばれた者が平伏していると「それへ」と将軍から声がかかることがある。「近くそれへ進み出よ」という意味であるが、決して、本当に前に出てはいけない。匍匐蠢動(ほふくしゅんどう)といって、身体を左右に動かし「進みたいが進むことあたわず」という姿勢が慣例であった。そして、あくまでも、元の座で必要なことをお答えした。また、「お目付役」が必ず同席していて、テレビで見るように、袴(はかま)の裾を折って前に出るようなことが実際にあったりすれば、即、蟄居(ちっきょ=自宅謹慎)処分を受けた。幕末も近い頃、西郷隆盛が15代将軍徳川慶喜に謁見した時、将軍から「それへ」と声がかかり、耳が遠いのかと思い、本当に前に進み出てしまった。後刻、「お目付役」に叱責を受けたが、隆盛は動じることなく「そういう古い仕来たりに固執しているから幕府は倒れるのだ」とやりかえしたとか。
☆大奥は男子禁制?
確かに「男子禁制」でした。「表」と「大奥」の中間に「中奥」というところがあり、ここは公方さまが主に休息などをされる区画でした。つまりは、公方さまの住まいであり、御台所さまは大奥に住まわれていましたので、夫婦と言えども別々の住まいだったのです。従って、「精進日」(歴代将軍の忌日)などで大奥泊りができない日は公方さまはこの「中奥」で寝起きをされました。「中奥」と「大奥」の先を仕切ってあるのが上御錠口(お鈴口)。このお鈴口を公方さまが入られるときに、合図として鳴らされたのが鈴で、「奥」の廊下の鴨居つたいに鈴が幾つもぶらさがっていましたので、この廊下を「お鈴廊下」と称しました。そして、公方さまは大奥へ入ってすぐの「蔦の間」で寝起きをし、子造りにも励まれました。
大奥は「御殿向」(ごてんむき)「長局」(ながつぼね)「御広敷」(おひろしき)と分かれており、「御殿向」は御台所様の居室や上級お女中の居室があり、その他の女性たちは「長局向」で起居していました。「御広敷」は玄関口などを警備する役人の詰所でした。大奥は10歳以上の男子はいっさい出入りが禁止されていました。しかし、老中などの位が高くなると、役目上の御用で、特別に大奥に入ることが許されました。また、警備上の理由で月に一回は「老中見回り」、三ヶ月に一回は「御留守居見回り」があり、男子が「女の園」に入ることができました。男に飢えたお女中たちが、この時ばかりと、特別に着飾って色目をつかったが、見て見ぬ振りをすることが義務付けられていました。
☆大奥に男の園??
★「御殿向」(ごてんむき)・・・公方さまの正室の住まいである「新御殿」や側室、大奥の上級者である上臈御年寄や御年寄などの住まいである。公方さまは通常大奥の御小座敷の「蔦の間」で子作りに励まれるのですが、この蔦の間はお鈴口を入ったすぐのところにあり、もしもの時はすぐにも「表」に逃げられるようになっていた。また、御切手の間という老中などが御用で大奥へ出入りする時の「(通行)手形」をあらためる者の詰め所や側室、御世継ぎ以外の子女の居室、さらには、公方さまが大奥にはいられた時や常日頃の御台所の世話をする奥女中たちの詰め所などがありました。
★「長局向」(ながつぼねむき)」・・大奥の御台所や上級者以外の居住空間、二階建てになっており、下級お女中たちの寝所などがあった。
★「広敷向」(ひろしきむき)・・大奥での事務や警備等を担当する「男性役人」の詰め所。唯一、男性の入ることのできた区画です。しかし、火事などの非常時以外は御殿向や長局向へ出入りは「厳禁」でした。「広敷用人」は、大奥の御台所や上臈(じょうろう)御年寄りなど、大奥の上級お女中から頼まれた事務を取り仕切った。「御用達」は、用人の指示により、出入りの商人から買い物などを調達する掛り。「広敷番」は、大奥の女中が城外への出入りに使用した「平川門」(不浄門)の警護や御錠口という「御殿向」と「広敷向」とを区切るための扉の警護。さらに、「七つ口」と呼ばれる「長局向」と「広敷向」とを区切るための扉の警護。この七つ口は、朝五つ(午前8時)に開き、夕七つ(午後4時)に閉まることから「七つ口」と呼ばれるようになりました。そして、最後は「広敷伊賀者」、大奥の上級者たちが社寺へ詣でるような時の警護役。
☆大奥3000人て本当?
まず、公方さまの身の回りの世話をする「腰元」が約300人。御台所様にも同じく約300人。「中掾vは数十人の女中を使っていました。大奥の居住者総数はほぼ1000人程度。多いときで2000人くらいだったでしょうか。「大奥3000人」は、江戸城の図面から見ても、とても収容することができない人数です。しかし、それくらい「でっかい」と言いたかったのでしょう。大奥の敷地面積は約6000坪、部屋数約600室でした。そして、中揶ネ上になると、一人で20畳以上ある部屋が与えられました。しかし、それ以下の者の大半は畳1畳分くらいの寝床しかありませんでした。
☆大奥の階級
頂点は何といっても、御台所(みだいどころ=公方様の正室)。これは、もちろん一人。次に、上(じょうろう)御年寄りが約10名。中年寄り約7名。中(ちゅうろう=側室候補)、「表使」や「御右筆」など。ここまでが「御目見得」(公方さまに顔を見せることを許された者)以上で、その下に「御末」、「御犬子供」という「御目見得」以下の女性たちがひしめいていたのです。公方さまや御台所さまのお世話をするのは「御末」などの中から選ばれた者が「御目見得腰元」としてお世話にあたりました。しかし、「御目見得」以下の腰元や女中たちが大半を占めていました。中揶ネ上の総勢は約90名ほどだったといわれています。2000〜3000人の大奥女性たちのキャリア組またはエリートというわけです。「大奥の階級」はこちらをクリック→大奥の階級
☆大奥の給料
幕府の年間予算が盛時で約80万両(640億円)。ところが、大奥の予算は約20万両(160億円)もかかりました。国家予算の四分の一が大奥の経費にあてられた、というわけです。そして、御台所さまの年収はというと「使い放題」。中揩ナは約932万円、御目見得以上の腰元は約144万円くらいだったといわれています。当時の大工の平均年収が210万円くらいだったことからみると、実に贅沢な暮らしだったかがわかります。なぜなら、大工は年収の中で衣食住をまかない、家族も養いました。しかし、大奥女中たちは住まいと食事はタダだったのです。そして、その大半は化粧道具や着物、簪(かんざし)、櫛(くし)などというファッションに使われたのです。しかし、御目見得以下になると、ほとんど「無給」だったのです。これは「行儀見習い」として町方の大店(おおだな=大商人)の家から大奥へ仕える子女が多かったためです。この者たちは実家から小遣いをもらっていました。町方の娘にしては、ただ大奥に仕えるということだけで誇りと名誉だったからです。ただし、衣食住は提供されましたから、生活するだけなら、何も不自由はなかったようです。
☆御台所様の化粧方法
顔面から襟元までを「白粉」で真っ白に塗りたくり、眉を書き口紅を塗っていました。一見しては、誰が誰だかわからないような化粧法でした。これは公家の習慣で、素顔を見せるのは失礼に当たる、という意味でした。しかし、その他もろもろの女性たちは素顔でいました。なお、白粉には「鉛」が多く含まれており、顔に吹き出物などが出てきました。それを隠すためにも、さらに、厚化粧をして隠しました。そして、鉛を肌から吸収することにより、「貧血」や「脳障害による情緒不安定でキレやすい」などの病が発現した方もおられたようです。
☆大奥の廊下で御台所様やお中揩ニ出くわした下級お女中は・・・
下級お女中がバッタリ廊下で御台様などと出くわしてしまったときは、女中はバタッと腹ばいになり、顔を床に押し付けて、ただただ御台様一行が通り過ぎて行くのを待ちました。これには、「下品な者」が御台様などの目に入らぬようにとの仕来たりでした。しかし、御台様などが廊下で立ち話などをされていると、さあ大変。急用などでどうしてもというときは、腹ばいになったまま後ずさりをして、廊下の曲がり角などに身を隠してから立ち上がり、別の廊下を通って御用に走りました。
☆御台所様は30歳で「おしとね御免」
「おしとね」とは公方さまと床を一緒にすることですが、30歳になると、公方さまと一緒に寝ることは許されませんでした。これには、当時の御台所様の多くが公家出身で健康状態もあまり良くなくひよわでした。もし、妊娠でもされると、今で言う「高齢出産」ということで、身体への影響を考えて避妊の意味も含まれていました。しかし、お世継ぎを生んでもらうためには、さらに、辛いことには、御台様が30歳になると自ら「お添い寝役」として、自分の子飼いの女中を公方さまに差し出しました。若い娘で10歳という記録もあるようです。自分の子飼いの女中を差し出すのは、自分の権勢を保つためでしたが、年に一度の「お花見の会」などで、公方さまが「あの者の名は?」と側近に洩らすと、イコール「お添い寝役」決定でした。こぞって、器量良しに豪華な着物を着せて公方さまのお近くをそぞろ歩かせました。とにかく、お目にとまるよう必死だったのです。大奥の派閥争いは熾烈だったのです。また、そうした行事のないときでも、側室を薦めるときには「お庭お目見得」がおこなわれ、候補者に庭を歩かせ、公方さまは障子の蔭から覗き見て、気に入った者がいると「夜のものを取らせよ」とお声がかかった。でも、遠くから綺麗に着飾ってお目にとまっても実際に床に入ったらブス・・・。どうしましょう。「ほかに床を」の一言でお役御免になってしまったのです。ああ可愛そう。
☆おめかけ候補も存在した
おめかけ候補は実際に存在しました。候補となるのは中攝Eに限られていました。中揩フ多くは旗本の娘でしたから、行儀、作法を身に付けており公方さまのお声がかかっても、すぐに十分なお相手ができた、というわけです。ちなみに、セックスの御用をつとめた翌日からは「お手付き中掾vと呼ばれ、独立した部屋と女中が与えられました。おめかけ候補の中でもお声がかからない中揩ヘ「お清の中掾vと呼ばれました。
☆公方さまの寝所には二人の女がいた
そうなんです。ただし、一人はもちろん公方さまの寵愛を受けるお方で、公方さまと床を一つにしました。しかし、もう一人の中揩ヘ畳一枚ほど離れたところに床を敷き公方さまに背を向けたまま一睡もせずに、公方さまと床を一つにされるお方の睦言に耳をそばだてました。この方を「お添寝役」(お添伏)と呼びました。そして、翌朝になると、御年寄に一部始終を報告しました。直接の原因としては、五代将軍綱吉のとき、寵臣の柳沢甲斐守吉保が、自分の意のままになる中揩つかって、公方さまと床を一つにされていた最中に100万石の加増をねだらせたという。この一件は未然に防がれましたが「柳沢騒動」として、以来、人権無視の監視中揩ェ付くようになったというわけです。でも、監視役の中揩ヘ、すぐそばで、公方さまがセックスをされている音を聞くと、さぞかし身体が火照ったことでしょう。悲しい寂しい役目ですね。
☆将軍夫妻の会話
公方さまも「表」では威厳正しく厳格であったが、大奥での夫婦同志の会話となると、いたって、庶民と変わりがなかった。公方さまは自分のことを「こちらは・・・」とか「自分は・・・」と言い、御台所は「私は好きだ」とか「私は嫌い」と何も変わったところはなかった。また、お附きの者にも「遊ばせ言葉」と言って、公方さまのことを「お上(かみ)」御台所のことは「御前(おまえ)」と呼ばせた。
☆お庭番
八代将軍吉宗が紀州から江戸城へ入ったとき、供をしてきた者の内17名が将軍じきじきの命令で働く役目を仰せつかった。普段は平凡な武士の姿で誰が「お庭番」かは見分けがつかないようにした。他の役人とはいっさい交際を禁じられており、世襲制で結婚も同じお庭番同士の家柄で結ばれた。将軍より指令を受けると、帰宅せずにそのまま大丸呉服店の奥の一室で指令の内容に応じた変装をして出発した。そして、半年も一年も帰らないことがあったという。もちろん、忍術の心得を持っていた。また、旅先で死んだり怪我をするようなことがあっても、ご公儀からは何の保護も与えられなかった。いわば、使い捨てということらしい。さらには、時には旗本連中の陰口などを直接公方さまに上申したりもしたので、旗本連中も「あの男はお庭番に違いない、滅多なことは口にすまいぞ、それ来た、油断するでない」と敬遠したという。
☆公方さまの食事
公方さまの食事には必ず「鱚(きす)」が付いた。これは、言わずと知れた喜ばしいという字が付くので縁起かつぎであった。また、朝食には味噌汁に落とし卵が定番だった。奥向きで作られる公方さまの食事は、いつも同じものを10人前ほど作り、1膳は「公方様御膳所掛」という台所の責任者が食べ、「お毒見役」が2膳に少量ずつ箸をつけて毒が盛られていないか、または、腐ってはいないかを確かめた。そして、中奥で公方さまの前には2膳が用意され、公方さまは1品に二箸をつけると、「お代わり」と称して、そばにはべるお女中が、もう一つの膳の品と取り替えて出されました。また、公方さまの食べるころには、すっかり冷え切っていて、味もそっけもなかった。落語でおなじみの「目黒のサンマ」は温かいものを食べたことのない公方さまを皮肉った話である。ちなみに、10-1-2-2=5人前残るわけですが、お勝手方の上級者がいつも「ありがたく」食べていました。
なお、御台所さまにも「御台様御膳所掛」、「お毒見役」がいて、公方さまと全く同じように膳が運ばれました。
☆将軍の立ちションベン
江戸城内にいるときは、もちろん厠へ行ったが、式典などで装束を身に着けたときや外出時(例えば、内裏への参内とか寺院仏閣詣で)などでは、おいそれと簡単には小便もままならなかった。そこで、家康は土田孫三郎という者に「公人朝夕人」(くにんちょうじゃくにん)という肩書きを与え、尿筒(にょうづつ)と呼ばれる竹筒をくり貫いたものを装束の袴の下から差し込み放尿した。尿筒は樋(とい)なので、庭などに流れていった。ちなみに、この役職は十人扶持で脇差一本という軽い身分であったが、公方さまじきじきに仕える役目だったので、誇りを持って土田家が世襲をした。明治維新で江戸幕府が倒されるまで250年余りを土田家はこの役職一筋に生きてきた。
江戸城と大奥