遊 女

☆遊女の起源
江戸時代の遊女の起源は何と「巫女(みこ)」であった。寺社は、当時、遊覧地で人が多く集まった。だから、隠れて商売をしても儲かった。また、寺社の門前町は寺社奉行の支配で町方役人の手入れができなかった。隠れ「売女」(ばいた)の取り締まりは町奉行所の管轄で寺社奉行には、「風俗取締り」の権限がなかったことから、安全地帯というわけです。

☆もっと古くは?
★奈良時代の「万葉集」の中に、筑紫国大宰府で「遊行女婦」(うかれめ)が所属していたことが見られる。彼女たちは、宴席にはべり歌舞をするのが仕事であった。しかし、春をひさいだかどうかまでは定かではない。
★平安中期になると、旅籠(はたご=旅館)を兼ねて遊女を置き売春をしたことが散見され、これを「長者」(ちょうじゃ)と称し、女主人が取り仕切ることが慣わしであった。
★平安後期になって、初めて「抱き女」専門の業者が現れ始めたことが見受けられる。当時の遊女は、かなりの自由があったようであるが、この頃から、経営者は抱えている遊女に衣装を高く売りつけたりして搾取を始め、容易に身が抜けられないように仕向けたようである。
★平安末期頃からは、武士階級が誕生し、戦いで負けた側の妻女が勝者側の武士の「なぐさみ者」になっているケースが見られる。
★鎌倉時代では、正式に「遊女屋」が認められるようになっり、銭にゆとりのある者が遊女を買った記録がある。しかし、商人や百姓などの裕福な者まで遊女屋に出入りするようになったため、「風紀の乱れ」を理由に一旦は遊女屋を閉鎖した。だが、武士や御家人らの要望が強かったため、再び、遊女屋を復活させたが、武士階級のみとした。
★足利時代になると、12代足利義時の頃に幕府財政が破綻しかけたため、「傾城局」(けいせいきょく)という役所までもを設置し、進んで売春業を公認し、「鑑札」を発行すると同時に税を徴収した。
★信長時代では、まさに、「戦国時代」と呼ぶにふさわしく戦に明け暮れた時代であったが、この頃は、やはり、勝者たちは敗れた土地の女たちを略奪したことが見られる。
★天正13年(1585)、秀吉が関白となり天下を統一すると、秀吉は、遊女屋の営業を積極的に認め、京都に遊郭づくりを勧めた。かくて、京都の万手小路に「柳町遊里」が誕生し、ここに初めて「集娼制度」ができたのである。この頃から、遊女屋経営に男が携わるようになっていった。

☆売春禁止令
諸国でも同じだが、江戸でもたびたび「売春禁止令」が出された。しかし、特定の場所では許可されていた。そこは「吉原」と宿場の「飯盛女」(めしもりおんな)であった。禁止令や役人が手入れをしても、この道ばかりは雑草のごとく刈り取っても、刈り取っても出てきた。
「一、前々より禁制のごとく 江戸町中端々に至迄 遊女の類 隠置くべからず もし違犯のやからあれば 其所の名主 五人組 地主迄 曲事たるべきもの也」
この一条は、吉原の廓を構える者たちが町奉行所の許可を得て、大門前に立てていた高札の文言である。いかに私娼が絶えなかったかが窺われる。

☆吉原の誕生
慶長5年(1600)に家康が関が原の戦いに出陣したとき、東海道の鈴ケ森八幡の前に茶店を造り、揃いの赤ダスキに赤手ぬぐいを被った遊女8人にお茶を出させた者がいた。家康はこれを大変気に入り、戦いで勝利して江戸に帰ると、その男に遊女屋の開業を許可したのである。男は当時、柳町に遊女屋を営んでいた「庄司甚右衛門」という者で、許可がおりたのは元和3年(1617)だったという。日本橋葦屋町(ふきやまち)に公認の遊女屋を造ることを指示したが、このあたりは、まだ一面の葦(よし)野原であった。そこで、めでたくもじって「吉原」としたのである。

☆仮宅
明暦3年(1657)1月18〜19日に起きた明暦の大火(通称、振袖火事)で吉原(元吉原)も火災で廓全体が焼けてしまった。しかし、需要もそれなりにあり、営業を停止するわけにもいかず、そこで、楼主たちは知り合いの「料理茶屋」や「民家」を借りて営業を続けた。酒食の接待なども簡略化せざるを得なかったので、通常より安い価格で遊女が抱けた。庶民には大人気であった。

☆新吉原への移転
明暦3年(1657)の大火をきっかけに、吉原は葦屋町から浅草日本堤(づつみ)へと移転した。人口の急増で江戸府内が手狭になったことと、浅草周辺の開発をめざした都合からである。また、一説には、江戸城のすぐそばで遊女屋があることは風紀上よろしくない、との判断もあったようで、いずれも幕府がかねてより計画していたものである。以後、「元吉原」「新吉原」と呼ばれるようになった。

☆遊女とは?
江戸時代、吉原で営業する公娼を「遊女」と呼び、潜りの私娼を「売女(ばいた)」といいわけた。したがって、「遊女」「売女」の違いができたのは、元和3年(1617)に元吉原ができてからである。

☆吉原の初めは金持ち専門
吉原ができた当初は、大名や裕福な武士、豪商などしか相手にされませんでした。つまり、幕府としては、裕福な大名や武士などが居ては、いつ幕府転覆をされないとも限らない、と言う事情から、とにかく、銭を使わせて「貧乏にさせる」と言う政策だった。
庶民に開放されたのは、元禄年間のことでした。

☆吉原の遊女は「奉公」
遊女になるのには、さまざまな理由があった。貧しい農家に生まれ売られた者、商人や武家であっても借金のカタに奪いとられた子女、同棲中の男に騙されて身売りさせられた者。
しかし、吉原は幕府公認、そして、幕府は「人身売買」を禁止していたため、公には「売買」ではなく「奉公」と呼ばれていた。

☆遊女の階級

まず、「太夫」そして「格子」、「散茶」、「梅茶」、「五寸局(つぼね)」、「三寸局」、「なみ局」、「次(つぎ)」の8階級であった。太夫は一番多い時で70人余りいたという。しかし、彩色教養兼備の遊女が少なくなったため、寛保年間(1741〜1743)には2〜3人にまで減少し、ついには、宝暦年間に「太夫」の位はなくなってしまった。

☆花魁(おいらん)
宝暦年間(1751〜1763)以前は、遊女の最高の位は「太夫」または「傾城(けいせい)」と言ったが、格式が高く教養も良家の子女をうわまわるほどだったため、「遊び」には、かなりの物入りだった。そこで、もう少し「安く」遊べるようにと、「太夫」を廃止し「花魁」(おいらん)が遊女の最高ランクとなった。しかし、やはり「高値の華」だった。ちなみに、「花魁」の語源は「おいらの姉御」から「おいらんの」「おいらん」と呼ばれるようになり、「花魁」という漢字が当てられました。   

☆なぜ「太夫」はなくなったか
「太夫」は容姿だけが資格ではない。声曲、お茶、お花、香合、そのほか芸事全般、和歌、文字の上手さ、などを身に付けていた。中には「八代集」や「源氏物語」、「竹取物語」を覇読したり、漢文を「レ」(れてん、または、かえりてん)なしに読める者までいて、当時の最高インテリ女性であった。だから、客も大尽らしく振舞わなくてはならず、寝るためだけに買うと大恥をかいたという。大名気分にはなれたものの窮屈極まりなかった。そこで、「太夫」がいなくなった時点で、そこそこの容姿、教養を身に付けた「花魁」へと替わっていった。
しかし、京や大阪では「太夫」の名称は残りました。これは、京や大阪では、踊りや芸事に優れた者を「太夫」と呼ぶ習慣があったからです。ただし、江戸の「太夫」のような教養はあまり必要ではなかった。

☆花魁(おいらん)道中とは
「太夫」や「格子」をお客が指名するときは、まず、客は「引き手茶屋」へあがって、そこの店の者を「使い」として遊女屋に走らせた。そして、指名された「太夫」あるいは「格子」が客の待つ茶屋まで着飾って高い朱塗りの下駄をはき、独特の八文字を描いて時間をかけて出向いた。これが「花魁道中」である。茶屋で客と出会った後、気に入れば自分の遊女屋へ伴ってきた。しかし、一度目、二度目は単なる「お話」程度で抱くことはできず三度通って、花魁が気に入れば妓楼へ連れて帰り、はじめて蒲団を一つにできた。茶屋への席代、茶屋での飲食代、使いの者への駄賃、遊女に付き添ってきた者一人ひとりへのご祝儀、遊女屋への支払い、そして、遊女へのご祝儀。実に、一晩だけで30両余りもとんだと言われている。よほどの大尽でなければこんな「遊び」はできなかった。
なお、京や大阪では「太夫道中」と言いました。

☆太夫の衣装の重量
髪飾り・・・3s位。黒塗りの三枚歯の下駄(三つ足呼ぶ)・・・片方が2s。着物・・・20s位。合計27s位。

☆遊女の揚代
寛永18年(1641)・・・太夫=1両=約25万円
明暦年間(1655〜1658)・・・太夫=60匁(もんめ)、格子=26匁、散茶=1分、局=3匁
元禄年間(1688〜1704)・・・太夫=37匁、格子=26匁、局=3〜5匁
享保19年(1734)・・・太夫=74匁=約19万円、格子=52匁、散茶=1分、梅茶=10匁
延享2年(1745)・・・・太夫=90匁、格子=60匁
1匁は「花いちもんめ」で述べたように、約1,500〜2,500円位。

☆では「手ごろな」ところでは?
遊女の格で第三位に「散茶」というのがいる。これは、お茶をたてる時、振って出すお茶と振らないで出すお茶があり、振らないでたてるお茶を「散茶」と言った。これがそのまま遊女の名称になった。つまりは、どんな客でも「振らない」という意味である。格子戸越しにずらりと並んで見世を張る。そして、覗き見の客に甘い言葉をかけて、とにかく、しゃにむに二階へとあげた。  

☆忘八(ぼうはち=亡八とも書く)
遊郭の楼主を「忘八」と呼んだ。これは、中国の古典に出てくる「仁」「義」「礼」「智」「忠」「信」「孝」「悌」の八つの人倫を失った、強欲で人面を被った野獣のような「あくどい」商売をしていたから。遊女は楼主のことを「親方」と呼んでいた。

☆遊女の借金と取り分
遊女は借金だらけであった。遊郭では、衣装や蒲団、化粧品、簪(かんざし)、櫛(くし)、鏡台、座布団、火鉢、煙草盆などなど、全てが貸与で「1日幾ら」というように銭がかかった。
遊女の取り分は、75%が楼主、25%が遊女であったが、その内15%は借金の返済に充てられ、結局、手元に残るのは10%であった。前出の「遊女の揚代」で、太夫=1両=25万円と述べましたが、太夫の手元に入ったのは10%=2万5000円位で、酒食のバックマージンがあっても、せいぜい、3万円位だったのです。「太夫」以下の遊女は押して知るべし・・・。
さらには、「太夫」や「格子」になると、毎日同じ着物を着ていることはできず、自分の稼ぎの中から着物などを買ったが、遊女は街中の実情を知らないため、楼主は呉服屋などと結託をして、10両位のものを15両などと言って売りつけ、楼主は「まんま」とバックマージンを取り、結局、遊女も1回では支払えないため、ふたたび、楼主からの借金をしなければならなかった。
現代でもそうであるが、高級な着物になると100万円位はしますが、楼主はそれを150万円と騙して買わせましたので、「太夫」の手取りが3万円位では、何日かかれば借金を返せたのでしょうか。まあ、それでも「苦海(くがい=苦界)10年」も勤めれば、まあまあ、何とか借金は返済できて、「年季明け」の自由の身になれました。

☆遊女たちは腹をすかしていた
太夫(後に花魁)や格子クラスでは、それなりの「揚代」があり、楼主も遊女も潤っていたが、散茶以下の遊女になると「揚代」も少なかった。そこで、いかに客から銭を引き出すかが勝負であり、客に酒食の注文をさせ「バックマージン」をもらうことに必死であった。妓楼でもそれを見越して朝飯などは少量しか食べさせなかった。従って、遊女は常に「すきっ腹」であった。

☆妓楼の格式
見世の格式は「籬」(まがき)の取り付け方で決まっていた。「籬」とは、見世の正面と脇土間の横手にある「格子」のことで、「惣籬」(そうまがき)は、第一級の大見世であるが、極端に言えば、妓楼の裏手を除いては妓楼全体が格子囲いであった。次が「半籬」で籬の1/4を空けてある造りで中見世(ちゅうみせ)。別名「交見世」(まじりみせ)と呼ばれた。最後は、「惣半籬」で格子が下半分だけしかなかった。小見世。(このページの最下部「遊女屋の様子」をクリックしてみてください)。
遊女屋は、ピンからキリまでの遊女を抱えていたわけではなく、遊女屋の格式により、抱える遊女のランクが決まっていました。
元禄14年(1701)刊行の「けいせい色三味線」の中の「新吉原遊女名寄」によると、
○太夫、太夫(格)格子のみを抱える遊女屋
 二軒(京町三浦屋、新町巴屋)
○太夫、太夫(格)格子、うめ茶を抱える遊女屋
 一軒(角町茗荷屋)
○太夫(格)格子を抱える遊女屋
 四軒(新町長崎屋、角町藤屋、江戸町山口屋、江戸町二丁目車屋)
−−−−−ここまでが大見世−−−−−
○散茶のみを抱える遊女屋
 三十四軒(一軒あたり10〜20人)で江戸町二丁目や角町に集中。
○うめ茶のみを抱える遊女屋
 二十九軒(一軒あたり5〜23人)。角町、新町、京町二丁目に集中。
−−−−−ここまでが中見世−−−−−
○五寸局のみを抱える遊女屋
 七十二軒(一軒あたり2〜15人)。江戸町、京町、角町に集中。
○三寸局のみを抱える遊女屋
 九軒(一軒あたり4〜8人)。伏見町に集中。
○なみ局、次などしか抱えていない遊女屋
 その他あまた。
−−−−−ここまでが小見世−−−−−

☆顔見世をするのは?
見世の格子戸の前で顔見世をするのは、散茶以下の遊女で、太夫や格子は絶対に顔見世座敷には座りませんでした。太夫や格子に客がつくと待合茶屋まで「花魁道中」をし、気に入れば三度目にして、初めて自分の妓楼へ客を連れて行き、与えられた自室で客の相手をしました。(花魁道中参照)

☆禿(かむろ)
禿とは、幼くして吉原に売られた少女たちであった。大見世では、だいたい5〜6人は抱えていた。普段は、太夫や格子などの上級遊女の身の回りの世話をしながら遊女としての心得やしつけ、教養、音曲などを教わった。およそ、12〜13歳くらいまでを「禿」と呼び、その後は「振袖新造」(ふりそてしんぞう)などとも呼ばれた。
「水揚げ」と呼ばれる客をとれるようになるのは、17歳からで、昔は、数え年でいったので、満年齢になおすと16歳ということでしょうか。そして、遊女として「年季明け」の、およそ10年間という期間計算はこの客をとれるようになってから数えられた。

☆花いちもんめ
童謡で「花いちもんめ」という歌があるが、これは女衒(ぜげん=人買い)に売られる少女を歌ったもので、1匁(もんめ)は、時代により換算金額は違うが、約1,500〜2,500円位であった。女衒が少女を売ったのは、主に、集団娼の水茶屋や出会い茶屋、四宿の飯盛り女で高く売れた。吉原に売られることは「割合少なかった」。これは、割合安い値段であると同時に、建前上は「人身売買」が禁止されていたので、幕府公認の吉原へ売ることは、堂々と捕まりに行くようなものであったからである。しかし、やはり、裏道には裏道、貧農の家の少女を買った女衒は、女衒が「親」となり、吉原の楼主と、あくまでも「奉公」という「契約」の形での売買があった。

☆遊女の年季明け
遊女は、だいたい幼いころから身売りさせられて、およそ27〜28歳くらいで借金は返せたという。だから、27歳位になると、客の中から将来身を任せられ男を選んだ。自由の身になると、親元に帰ったり、男と一緒になったりしたが、廓(くるわ)に残って遣手婆(やりてばばあ)として、若い娘の躾(しつけ)をした者もいた。

☆身請け
史料として残るのは、元禄年間(1688〜1704)で「梅茶」あたりで40〜50両(約1千万円余り)。「梅茶」の借金が30両位で後は忘八の取り分。「太夫」になると借金は500〜600両で、身請け金額としては、それまで世話になった人々への「ご祝儀」も含めて、1,000両(約7,500万円位)かかったと言われています。
身請けの日には、妓楼(ぎろう)では、「赤飯」を炊き、豪勢な食事を用意し、一通りの「祝いの膳」を終えてから(全て、身請け人の銭で)、大門の前に用意された「籠」で廓(くるわ)を去った。
天明年間(1781〜)に入ると、松葉屋半左衛門という楼主は、これまでの26年間に渡り、2代目瀬川から5代目瀬川までの4人を身請けさせ、5,000両という大金をせしめたと言われている。そこで幕府も、余りにも高額過ぎる、と判断をし、以後は「500両以内とする」と言う通達まで出している。
身請けするには、まず、客から楼主に「だれだれを身請けしたい」との相談があり、楼主は、一応は親元に確認をとり、異存のないことを確かめたうえで、客に身請け証文を入れさせ、さらには、身代金と本人の借金を支払わせた。
天明13年(1793)に身請けされた薄雲太夫の身請け証文は以下のように書かれてある。
「証文之事 一 其方抱之薄雲と申す傾城 未年季之内に御座候へ共 我等妻に致度 色々申候所に無相違妻に被下 其上衣類夜着蒲団手道具長持迄相添被下忝存候 則為樽代金子三百五拾両其方え進申候 自今已後 御公儀様より御法度被為仰付候 江戸御町中 ばいた遊女出合御座舗者不乃申道中茶屋はたごやへ 左様成遊女がましき所に指置申間敷候 若左様之遊女所に指置申候と申すもの御座候はば 御公儀様え被上仰 何様とも御懸り可被成候 其時一言之義申間敷候 右之薄雲若離別致し候はば 金子百両に家屋舗相添へ 隙出し可申候 為後日証文如件 元禄十三年辰の七月三日 貰主源六 請人平右衛門 同半四郎 四郎左右衛門殿」
要約すると、
「薄雲という太夫(または、花魁)はまだ年季の途中であるが、私の妻にいたしたく、色々な所へ相談し許可を得ました。また、衣類や夜着、蒲団、手荷物、長持ちなども一緒に引き取ることといたしました。酒宴のための酒樽代金350両をあなたに差し上げます。私は今後、御公儀より御法度とされている町中(の女郎)やばいた、旅の途中の茶屋やはたごの遊女がましき所へは出入りをいたしません。もし、そのようなことをして薄雲と離別するようなことがあれば、金子100両に家屋敷を添えてひまを出します。後日の証文といたします。元禄13年辰7月3日 貰主源六、証人平右衛門、同じく半四郎。四郎左右衛門殿」

☆遊女たちの一日
四ツ刻(10:00)・・・遊女たちが起きだし、振袖新造(禿=かむろの欄参照)が掃除を始める。床から出た遊女はまず湯に入り、食事をした後、化粧にかかる。
             遊女同士のお喋りや手紙を書くのもこの刻限。やがて、貸本屋や文使い(郵便屋)、髪結いなどが来る。
九ツ刻(12:00)・・・若衆が「湯をしまいます」と風呂の終わりを触れ回ります。遊女たちの髪結いも終わり、昼見世が始まる。太夫、格子などでの昼の指名が
             あった場合は、茶屋まで花魁道中。散茶以下は、しゃにむに二階に連れ込む。
七ツ刻(16:00)・・・昼見世がひける。遊女たちの食事。秋や冬には陽が落ちるのが早いので、この頃には見世には一斉に灯りが点される。夜の部の花魁
             道中などが繰り広げられる。
六ツ刻(18:00)・・・清掻き(すががき)と呼ばれる三味線の合図とともに夜見世が始まり、散茶以下は格子戸の前に並び、廓内も人の往来が激しくなる。
五ツ刻(20:00)・・・登楼した客の宴もそろそろ終わりに近づき、床付(床入り)となる。
四ツ刻(22:00)・・・帰る客やこれから揚がる客の送迎で妓楼は一番忙しい時間帯となる。
九ツ刻(24:00)・・・中引け。拍子木が四つ叩かれて刻を告げる。引け四ツとも呼んだ。
八ツ刻(02:00)・・・大引け。遊女たちは床につく。
七ツ刻(04:00)・・・遊女は泊まり客なども含めて、すべての客を大門まで送る。常連客が姉女郎に背いて浮気をした男を振袖新造が大門で待ち伏せして、
             姉女郎のところへ連れて行き折檻をするのもこの刻限。
六ツ刻(06:00)・・・客を送り出して、身の回りを片付けて、やっと遊女たちの就寝の刻限。

☆死んだ娼婦
郭(くるわ)は決して衛生的ではない。梅毒などはあたりまえであった。不治の病にかかった遊女は、見世もロクに食事も与えず、手当てなども一切せずに、ただただ死ぬのを待った。死ねばすぐに銭二百文をつけて「投げ込み寺」へ持ち込んだ。寺では「総墓」と呼ばれる大穴に投げ込み、簡単な読経ですませた。成覚寺、回向院、総泉寺、霊巌寺、浄心寺などがあった。

☆芸者
芸者ははじめ「踊り子」といった。器量の良い娘が三味線を持って、お座敷で踊ったり歌ったりして酒宴を盛り上げた。元禄の末ころに、こうした女たちを「芸者」と呼ぶようになった。のちに、「町芸者」、「郭(なか)の芸者」、「深川芸者」の派閥ができて勢力争いさえ繰り広げたという。
中でも、「深川芸者」は着物の上に羽織をはおっていた。そして、源氏名には「ぽん太」とか「吉奴」とかの男の名を付けて幅をきかせていた。

☆警動(けいどう)
町奉行所による岡場所の手入れのことである。
吉原の客が減って楼主たちが訴え出た時だけ形ばかりに行われた。ちなみに、検挙された私娼は「奴女郎」と呼ばれ、吉原遊郭で3年間「無給」で働くと解放された。

☆オケラの処置
「オケラ」。つまりは、銭を使い果たして「スッカラカン」になった者のことである。オケラとわかると見世の若衆がでてきて、見世の前に引きずり出し、大きな桶を被せた。桶には小さな小窓が開いており、晒し者にしたのである。監禁とリンチを兼ねたようなものである。その間に若衆は、まだ陽がある内は客の関係者から遊興費を集めて回ったし、陽が沈んでからオケラとわかると、一晩そのままにして、翌朝回収に駈けずり回った。この時の回収役を「付き馬」と呼んだ。

☆岡場所(私娼)
幕府の許可を受けていない私娼(ししょう=売女「ばいた」とも呼ばれた)のこと。集団娼(しゅうだんしょう)と散娼(さんしょう)に分けられた。
集団娼・・・水茶屋や出会い茶屋などに抱えられて春を売った。
また湯女(ゆな)・・・・・湯屋(銭湯)にも私娼がおり、西神田の堀丹後守の屋敷前にあった「丹前風呂では「勝山」という湯女(ゆな)は人気NO1だったと言われている。
散娼・・・・・蹴転(けころ)・・・・・・・上野のお山を中心に出没した。
       提げ重(さげじゅう)・・・明和〜安永年間(1764〜1781)頃流行した、提げた重箱に餅や饅頭を売り歩きながら春も売った。
       船饅頭(ふねまんじゅう)・・・天明(1781〜1789)頃流行。饅頭を売ることを表向きとして「大川(隅田川)」の船の中で春を売った。
       夜鷹(よたか)・・・元禄年間(1688〜)から出没するようになった。下記参照。
       比丘尼(びくに・・・天和〜貞享(1681〜1687)頃から出没し始めた。下記参照。
なぜ「岡場所」と呼ばれたかは、「岡」に登れば四方が見渡せる。つまり、「岡目八目」や「岡惚れ」と同じく横合い(本筋ではなく)から手を出すからきている。

☆比丘尼(びくに)への憧れ?
「比丘尼」とは諸国勧進に回っていた「尼さん」が「娼婦」に落ちた者をさした。天和年間(1681〜)頃から出没し始めた。
尼僧姿で娼婦とは変なものだが、坊主頭に色気を感じる変体男もいて、江戸ではなかなかの人気があったという。狂歌で、
「三ケ日(さんがにち)待たず比丘尼は見世を張り」
というのがある。つまり、正月の三ケ日も休めないほど繁盛した、というものである。
主に、「中宿」にたむろして商売を行ったが、寛保2年(1742)、比丘尼と武士の心中事件が起こり、中宿の一斉摘発が行われたのを機に比丘尼は姿を消した。

☆夜鷹(よたか)
京都では「辻君」(つじぎみ)・・・何となく風情がある。
大阪では「惣嫁」(そうか)・・・・・何でも喰らい付くの意。
江戸では「夜鷹」・・・・・・・・・・・これは、夜になると鷹のように目を凝らして相手を見つけた。
「凡(おしなべ)て鮫ケ橋、本所、浅草堂前、此三ケ所より出て色を売り、此徒凡て四千に及ぶと云ふ」(武野俗談)とあるから、江戸の女五十人に一人の割合であったとか。夜鷹の出没するのはほかにも両国、柳橋、呉服橋、鎌倉河岸など柳のある土手が多かった。彼女たちは柳の陰からす〜っと出てきて、往来の男の袖を引っ張って土手を降り、川端に積んである材木の間などで事をすませた。持参のゴザが唯一の商売道具であった。もちろん、隠れ「売女」(ばいた)であった。

☆飯盛女
江戸四宿、つまり、品川、千住、板橋、内藤新宿、が四宿(ししゅく)であり、ここには「飯盛女」(めしもりおんな)という宿場女郎がいた。宿場の活性化のために黙認されていて「一軒に付き二人」と決められてはいたが、見世の表に顔を出すのは二人で、裏に回ればぞろぞろ・・・。

☆私娼のお値段
時代によって金銭価値が違うが、元禄年間(1688〜)頃の相場で、1文=約25円相当。
夜鷹・・・・・・・・・・・24文=約600円。
船饅頭・・・・・・・・・32文=約800円。
比丘尼・・・・・・・・・100文〜200文=約2,,500円〜5,000円。
蹴転・・・・・・・・・・・200文〜500文=約5,000円〜12,500円。
湯女・・・・・・・・・・・500文〜1,000文=約12,500円〜25,000円。
飯盛り女・・・・・・・・400文〜600文=約10,000〜12,500円。

☆小便組(しょうべんぐみ)
宝暦年間(1751〜)頃から出没し始めた。これは、裕福な旗本などへ「妾奉公(めかけぼうこう)をする」と約束をし、多額の支度金をせしめて、数ヶ月もしないうちに夜の床の中でわざと寝小便をし、暇をもらう「詐欺行為」であった。

☆京都の事情
豊臣秀吉が京都の再興をするにあたり、花街を「二条柳馬場」に「柳町」という一角を造り「遊女屋」などを集めました。やがて、六条坊門(現:東本願寺の北側)へ移され「六条三筋町」として栄えました。さらに、江戸時代に入ってからは、京の街も人口が急増したため、寛永18年(1641)に市街地の西の「朱雀野」へ移転をさせました。そして、廓の一帯を、正式には「西新屋敷」と呼ばせましたが、この移転は突然の「移転命令」でしたので、ちょうど「島原の乱」が終結した時期でもあり、この慌しさをひねって、通称「島原(嶋原)」と呼ぶようになりました。
島原には「揚屋」(あげや)と「置屋」(おきや)があり、「揚屋」は、現代で言うと「高級料亭」で宿泊施設はありませんでした。
そこで、お大尽は、まず、「揚屋」に腰を据え、そこから使いを出して「置屋」の「太夫」を呼び寄せて「高級料亭」での酒食を共にし、太夫に気に入られれば、「置屋」へ案内をされて夜を共にしました。この時行われたのが「太夫道中」でした。しかし、江戸の「花魁道中」のように10人近くを従えるほどではなく、せいぜい5〜6人にお供をさせました。

☆大阪の事情
京に見世を構えていた「扇屋」という「置屋」が寛文年間(1661〜)か延宝年間(1673〜)頃に大阪の新町へ移転したのが始まりとされています。
この時、その見世の看板遊女であった「夕霧太夫」も一緒に大阪へ移り、大阪では大変有名になったと言われています。現在でも、11月第2日曜日に「清涼寺」で「夕霧供養祭」が行われています。
大阪も京と同じように「揚屋」と「置屋む形式でしたので、「太夫道中」が行われました。

☆遊女屋の様子
いろいろな絵で楽しめます。


遊 女