遊 女

☆遊女の起源
江戸時代の遊女の起源は何と「巫女(みこ)」であった。寺社は、当時、遊覧地で人が多く集まった。だから、隠れて商売をしても儲かった。夜になると巫女は門前町のそれぞれの宿へ向かい、春を売った。寺社の門前町は寺社奉行の支配で町方役人の手入れができなかった。隠れ「売女」(ばいた)の取り締まりは町奉行所の管轄で寺社奉行には、「風俗取締り」の権限がなかったことから、安全地帯というわけです。

☆もっと古くは?
★奈良時代の「万葉集」の中に、筑紫国大宰府で「遊行女婦」(うかれめ)が所属していたことが見られる。彼女たちは、宴席にはべり歌舞をするのが仕事であった。しかし、春をひさいだかどうかまでは定かではない。
★平安中期になると、旅籠(はたご=旅館)を兼ねて遊女を置き売春をしたことが散見され、これを「長者」(ちょうじゃ)と称し、女主人が取り仕切ることが慣わしであった。
★平安後期になって、初めて「抱き女」専門の業者が現れ始めたことが見受けられる。当時の遊女は、かなりの自由があったようであるが、この頃から、経営者は抱えている遊女に衣装を高く売りつけたりして搾取を始め、容易に身が抜けられないように仕向けたようである。
★平安末期頃からは、武士階級が誕生し、戦いで負けた側の妻女が勝者側の武士の「なぐさみ者」になっているケースが見られる。
★鎌倉時代では、正式に「遊女屋」が認められるようになっり、銭にゆとりのある者が遊女を買った記録がある。しかし、商人や百姓などの裕福な者まで遊女屋に出入りするようになったため、「風紀の乱れ」を理由に一旦は遊女屋を閉鎖した。だが、武士や御家人らの要望が強かったため、再び、遊女屋を復活させたが、武士階級のみとした。
★足利時代になると、12代足利義時の頃に幕府財政が破綻しかけたため、「傾城局」(けいせいきょく)という役所までもを設置し、進んで売春業を公認し、「鑑札」を発行すると同時に税を徴収した。
★信長時代では、まさに、「戦国時代」と呼ぶにふさわしく戦に明け暮れた時代であったが、この頃は、やはり、勝者たちは敗れた土地の女たちを略奪したことが見られる。
★天正13年(1585)、秀吉が関白となり天下を統一すると、秀吉は、遊女屋の営業を積極的に認め、京都に遊郭づくりを勧めた。かくて、京都の万手小路に「柳町遊里」が誕生し、ここに初めて「集娼制度」ができたのである。この頃から、遊女屋経営に男が携わるようになっていった。

☆売春禁止令
諸国でも同じだが、江戸でもたびたび「売春禁止令」が出された。しかし、特定の場所では許可されていた。そこは「吉原」と宿場の「飯盛女」(めしもりおんな)であった。禁止令や役人が手入れをしても、この道ばかりは雑草のごとく刈り取っても、刈り取っても出てきた。
「一、前々より禁制のごとく 江戸町中端々に至迄 遊女の類 隠置くべからず もし違犯のやからあれば 其所の名主 五人組 地主迄 曲事たるべきもの也」
この一条は、吉原の廓を構える者たちが町奉行所の許可を得て、大門前に立てていた高札の文言である。いかに私娼が絶えなかったかが窺われる。

☆吉原の誕生
慶長5年(1600)に家康が関が原の戦いに出陣したとき、東海道の鈴ケ森八幡の前に茶店を造り、揃いの赤ダスキに赤手ぬぐいを被った遊女8人にお茶を出させた者がいた。家康はこれを大変気に入り、戦いで勝利して江戸に帰ると、その男に遊女屋の開業を許可したのである。男は当時、柳町に遊女屋を営んでいた「庄司甚右衛門」という者で、許可がおりたのは元和3年(1617)だったという。日本橋葦屋町(ふきやまち)に公認の遊女屋を造ることを指示したが、このあたりは、まだ一面の葦(よし)野原であった。そこで、めでたくもじって「吉原」としたのである。

☆仮宅
明暦3年(1657)1月18〜19日に起きた明暦の大火(通称、振袖火事)で吉原(元吉原)も火災で廓全体が焼けてしまった。しかし、需要もそれなりにあり、営業を停止するわけにもいかず、そこで、楼主たちは知り合いの「料理茶屋」や「民家」を借りて営業を続けた。酒食の接待なども簡略化せざるを得なかったので、通常より安い価格で遊女が抱けた。庶民には大人気であった。

☆新吉原への移転
明暦3年(1657)の大火をきっかけに、吉原は葦屋町から浅草日本堤(づつみ)へと移転した。人口の急増で江戸府内が手狭になったことと、浅草周辺の開発をめざした都合からである。また、一説には、江戸城のすぐそばで遊女屋があることは風紀上よろしくない、との判断もあったようで、いずれも幕府がかねてより計画していたものである。以後、「元吉原」「新吉原」と呼ばれるようになった。

☆遊女とは?
江戸時代、吉原で営業する公娼を「遊女」と呼び、潜りの私娼を「売女(ばいた)」といいわけた。したがって、「遊女」「売女」の違いができたのは、元和3年(1617)に元吉原ができてからである。

☆吉原の初めは金持ち専門
吉原ができた当初は、大名や裕福な武士、豪商などしか相手にされませんでした。つまり、幕府としては、裕福な大名や武士などが居ては、いつ幕府転覆をされないとも限らない、と言う事情から、とにかく、銭を使わせて「貧乏にさせる」と言う政策だった。
庶民に開放されたのは、「新吉原」へ移ってからのことでした。
理由は、浅草の日本堤は開発を目指していたとはいえ、まだまだ田園地帯で江戸府内からは離れていた。そのため、客足が急激に減少した。そこで、庶民も呼び込んで営業が成り立つようにと、幕府に申請をし認められたものであった。

☆吉原の遊女は「奉公」
遊女になるのには、さまざまな理由があった。貧しい農家に生まれ売られた者、商人や武家であっても借金のカタに奪いとられた子女、同棲中の男に騙されて身売りさせられた者。
しかし、吉原は幕府公認、そして、幕府は「人身売買」を禁止していたため、公には「売買」ではなく「奉公」と呼ばれていた。

☆遊女の階級

まず、「太夫」そして「格子」、「散茶」、「梅茶」、「五寸局(つぼね)」、「三寸局」、「なみ局」、「次(つぎ)」の8階級であった。太夫は一番多い時で70人余りいたという。しかし、彩色教養兼備の遊女が少なくなったため、寛保年間(1741〜1743)には2〜3人にまで減少し、ついには、宝暦年間に「太夫」の位はなくなってしまった。

☆太夫と花魁(おいらん)
宝暦年間(1751〜1763)以前は、遊女の最高の位は「太夫」または「傾城(けいせい)」と言ったが、格式が高く教養も良家の子女をうわまわるほどだったため、「遊び」には、かなりの物入りだった。そこで、もう少し「安く」遊べるようにと、「太夫」を廃止し「花魁」(おいらん)が遊女の最高ランクとなった。しかし、やはり「高値の華」だった。ちなみに、「花魁」の語源は「おいらの姉御」から「おいらんの」「おいらん」と呼ばれるようになり、「花魁」という漢字が当てられました。   

☆なぜ「太夫」はなくなったか
「太夫」は容姿だけが資格ではない。声曲、お茶、お花、香合、そのほか芸事全般、和歌、文字の上手さ、囲碁、将棋、などを身に付けていた。中には「八代集」や「源氏物語」、「竹取物語」を覇読したり、漢文を「レ」(れてん、または、かえりてん)なしに読める者までいて、当時の最高インテリ女性であった。従って、客層も江戸へ出府した大名もお忍びで通ったり、、家老などもいた。さらには、豪商はもちろんのこと、田舎から出てきた庄屋などもいたが、客も大尽らしく振舞わなくてはならず、寝るためだけに買うと大恥をかいたという。
大名気分にはなれたものの窮屈極まりなかった。そこで、「太夫」がいなくなった時点で、そこそこの容姿、教養を身に付けた「花魁」へと替わっていった。
しかし、京や大阪では「太夫」の名称は残りました。これは、京や大阪では、踊りや芸事に優れた者を「太夫」と呼ぶ習慣があったからです。ただし、江戸の「太夫」のような教養はあまり必要ではなかった。

☆花魁(おいらん)道中とは
「太夫」や「格子」をお客が指名するときは、まず、客は「引手茶屋」へあがって、ひとしきり酒宴を開く。頃合いをみて、茶屋の者を「使い」として遊女屋に走らせた。そして、指名された「太夫」あるいは「格子」が客の待つ茶屋まで着飾って高い朱塗りの三枚歯の下駄(三つ足、とも呼ばれた)を履き、独特の外八文字を描いて時間をかけて出向いた。これが「花魁道中」である。
一度目は客がどんなに話しかけても、「あい」と答えるだけ。杯を渡して酒を勧めても、一口も呑まず自分の前に杯を並べるだけであった。
二度目で初めて会話をするようになり、杯の酒や勧められた料理なども口にした。だが、まだ抱くことはできない。
三度通って、花魁が気に入れば妓楼へ連れて帰り、はじめて蒲団を一つにできた。この帰り道でも花魁道中をしながら、妓楼へ向かいました。茶屋への席代、茶屋での飲食代、使いの者への駄賃、遊女に付き添ってきた者一人ひとりへのご祝儀、遊女屋への支払い、そして、遊女へのご祝儀。実に、一晩だけで30両余りもとんだと言われている。よほどの大尽でなければこんな「遊び」はできなかった。
そして、花魁道中は昼見世(九ツ刻・12:00〜七ツ刻・16:00)がほとんどであった。
これは、皆が働いている真っ昼間からこのような遊びができる。俺は裕福なのだ。などという廓内の人々に見せつける意味合いがあったからである。
しかし、三度通っても花魁が気に入らなければ客を妓楼へは連れて行かなかった。そのような降られた客は、当時としては最高級品といわれた座布団や布団一式などのプレゼント攻勢で気を引こうと必死であった。
なお、京や大阪では「太夫道中」と言いました。

     
            花魁道中                    花魁に気に入られて引手茶屋から妓楼へ向かうお大尽

☆太夫の衣装の重量
髪飾り・・・3s位。黒塗りの三枚歯の下駄(三つ足呼ぶ)・・・片方が2s。着物・・・20s位。合計27s位。

            太夫(花魁)の着付け
右から「姉女郎」「禿」「茶屋下女」「茶屋女房」「太夫」(花魁)。太夫の着付けには得意先の引手茶屋から、茶屋の下女や茶屋の女房が毎朝手伝いに来ていた。


☆遊女の揚代
寛永18年(1641)・・・太夫=1両=約25万円
明暦年間(1655〜1658)・・・太夫=60匁(もんめ)、格子=26匁、散茶=1分、局=3匁
元禄年間(1688〜1704)・・・太夫=37匁、格子=26匁、局=3〜5匁
享保19年(1734)・・・太夫=74匁=約19万円、格子=52匁、散茶=1分、梅茶=10匁
延享2年(1745)・・・・太夫=90匁、格子=60匁
1匁は約1,500〜2,500円位。
★良く人から「江戸時代の貨幣価値はどれくらい?」と聞かれるが、これは、正直に言って大変難しいのです。歴史学者や史家の間でも意見は統一されていません。
日本銀行の資料でも。そば代金を基礎として計算すると、1両は現代の金額で4万円位。米価を基礎とすると、1両は30万円位。と非常に大きな差があるのです。また、時代によっても1両の価値は変動しています。
ここに掲載した価格は、私が独自に「そば代金」、「風呂屋の代金」、「髪結いの代金」等、庶民の生活レベルを基礎としたもので、あくまでも「参考価格」として見ていただきたいと思います。

☆では「手ごろな」ところでは?
遊女の格で第三位に「散茶」というのがいる。これは、お茶をたてる時、振って出すお茶と振らないで出すお茶があり、振らないでたてるお茶を「散茶」と言った。これがそのまま遊女の名称になった。つまりは、どんな客でも「振らない」という意味である。格子戸越しにずらりと並んで見世を張る。そして、覗き見の客に甘い言葉をかけて、とにかく、しゃにむに二階へとあげた。  

☆忘八(ぼうはち=亡八とも書く)
遊郭の楼主を「忘八」と呼んだ。これは、中国の古典に出てくる「仁」「義」「礼」「智」「忠」「信」「孝」「悌」の八つの人倫を失った、強欲で人面を被った野獣のような「あくどい」商売をしていたから。遊女は楼主のことを「親方」と呼んでいた。

☆遊女の借金と取り分
遊女は借金だらけであった。遊郭では、衣装や蒲団、化粧品、簪(かんざし)、櫛(くし)、鏡台、座布団、火鉢、煙草盆などなど、全てが貸与で「1日幾ら」というように銭がかかった。
遊女の取り分は、75%が楼主、25%が遊女であったが、その内15%は借金の返済に充てられ、結局、手元に残るのは10%であった。前出の「遊女の揚代」で、太夫=1両=25万円と述べましたが、太夫の手元に入ったのは10%=2万5000円位で、酒食のバックマージンがあっても、せいぜい、3万円位だったのです。「太夫」以下の遊女は押して知るべし・・・。
さらには、「太夫」や「格子」になると、毎日同じ着物を着ていることはできず、自分の稼ぎの中から着物などを買ったが、遊女は街中の実情を知らないため、楼主は呉服屋などと結託をして、10両位のものを15両などと言って売りつけ、楼主は「まんま」とバックマージンを取り、結局、遊女も1回では支払えないため、ふたたび、楼主からの借金をしなければならなかった。
現代でもそうであるが、高級な着物になると100万円位はしますが、楼主はそれを150万円と騙して買わせましたので、「太夫」の手取りが3万円位では、何日かかれば借金を返せたのでしょうか。まあ、それでも「苦海(くがい=苦界)10年」も勤めれば、まあまあ、何とか借金は返済できて、「年季明け」の自由の身になれました。

☆遊女たちは腹をすかしていた
太夫(後に花魁)や格子クラスでは、それなりの「揚代」があり、楼主も遊女も潤っていたが、散茶以下の遊女になると「揚代」も少なかった。そこで、いかに客から銭を引き出すかが勝負であり、客に酒食の注文をさせ「バックマージン」をもらうと共に食にありつけることに必死であった。妓楼でもそれを見越して朝飯などは少量しか食べさせなかった。従って、遊女は常に「すきっ腹」であった。
朝飯は、小さな茶碗に飯は1しゃくしだけでお替りはない。汁は醤油のすまし汁で具はほとんどない。後は、たくわん漬け、あるいは、夏ではキュウリに塩もみなどのみであった。
味噌もあったが、江戸中期位までは味噌汁などの調味料というよりおかずの一品であった。その名残が、ねぎ味噌、金山寺味噌、朴葉味噌、などである。
それでも、遊女たちは宴席で食にありつけることも多かったが、禿や新造は宴席に呼ばれなければ食べることができない。そこで、禿や新造たちは、客の残した酒、肴をつまみ食いしていた。

禿や新造たちの食事風景
 「飯炊き女」が飯の減り具合を確かめている。

  遊女たちは別室で食事をするが内容は同じであった。
書き出しに「澤菴」(たくわん)の文字が見える。
 禿や新造たちが客の残した酒、肴をつまみ食いしている。

☆妓楼の格式
見世の格式は「籬」(まがき)の取り付け方で決まっていた。「籬」とは、見世の正面と脇土間の横手にある「格子」のことで、又のなを「しがらみ格子」とも呼んだ、
「惣籬」(そうまがき)は、第一級の大見世であるが、極端に言えば、妓楼の裏手を除いては妓楼全体が格子囲いであった。
次が「半籬」で籬の1/4を空けてある造りで中見世(ちゅうみせ)。別名「交見世」(まじりみせ)と呼ばれた。
最後は、「惣半籬」で格子が下半分だけしかなかった。小見世。(このページの最下部「遊女屋の様子」をクリックしてみてください)。
遊女屋は、ピンからキリまでの遊女を抱えていたわけではなく、遊女屋の格式により、抱える遊女のランクが決まっていた。
それは、規模の違いでもあり、遊女の揚代の違いでもあった。

惣籬・大見世  半籬・中見世 惣半籬・小見世 惣籬の妓楼の門構え

元禄14年(1701)刊行の「けいせい色三味線」の中の「新吉原遊女名寄」によると、
○太夫、太夫(格)格子のみを抱える遊女屋
 二軒(京町三浦屋、新町巴屋)
○太夫、太夫(格)格子、うめ茶を抱える遊女屋
 一軒(角町茗荷屋)
○太夫(格)格子を抱える遊女屋
 四軒(新町長崎屋、角町藤屋、江戸町山口屋、江戸町二丁目車屋)
−−−−−ここまでが大見世−−−−−
○散茶のみを抱える遊女屋
 三十四軒(一軒あたり10〜20人)で江戸町二丁目や角町に集中。
○うめ茶のみを抱える遊女屋
 二十九軒(一軒あたり5〜23人)。角町、新町、京町二丁目に集中。
−−−−−ここまでが中見世−−−−−
○五寸局のみを抱える遊女屋
 七十二軒(一軒あたり2〜15人)。江戸町、京町、角町に集中。
○三寸局のみを抱える遊女屋
 九軒(一軒あたり4〜8人)。伏見町に集中。
○なみ局、次などしか抱えていない遊女屋
 その他あまた。
−−−−−ここまでが小見世−−−−−

☆顔見世をするのは?
見世の格子戸の前で顔見世をするのは、散茶以下の遊女で、太夫や格子は絶対に顔見世座敷には座りませんでした。太夫や格子に客がつくと待合茶屋まで「花魁道中」をし、気に入れば三度目にして、初めて自分の妓楼へ客を連れて行き、与えられた自室で客の相手をしました。(花魁道中参照)

張見世で並ぶ遊女たち。中央ほど位が高い。
(花魁と格子は絶対にここには座らない)
皆、煙草盆を前にしている。

☆禿(かむろ、かぶろ)
禿とは、幼くして吉原に売られた少女たちであった。大見世では、だいたい5〜6人は抱えていた。普段は、太夫(花魁)や格子などの上級遊女の身の回りの世話をしながら遊女としての心得やしつけ、教養、音曲などを教わった。
何も分からずウロウロしていれば、遣り手や姉女郎たちに怒鳴られる。徒弟制度そのもので「見て覚えろ」「盗んで覚えろ」の世界であった。
だが、8歳位の少女では何もかもが分からない。涙が出る。声を上げて泣いたりすれば、なおさら怒られる。口で怒られるならまだしも、遣り手などからは容赦なく「ビンタ」が飛んでくる。まあ、それでもかばってくれる姉女郎もいたかもしれない。
小遣いなどは妓楼からは一銭も貰えない。それどころか、「食わしてもらえるだけ、ありがたいと思え」と何かにつけて、楼主からは怒鳴られる。
禿の寝所は、妓楼の奥のそのまた奥の薄暗い小部屋に、先輩の禿や新造たちと雑魚寝同然だ。
時として、仕える太夫などからもらって貯めていた小銭がなくなることもある。同室の先輩新造などが盗んだのには違いないのだが、仮に、旦那さま(仕える高級女郎)に言いつけたとしても、
「あら、そう、お前がきちんとしないからよ」
と、軽くあしらわれるだけだ。
親を恨むか、わが身を恨むか、最早、彼女たちの生きる場所は妓楼しかない。それが運命(さだめ)と諦めて、日々精進するしかないのである。

右から、「振袖新造」、「花魁」、「番頭新造」、「禿」が2人、「遣り手」「下女」(階段の女)。禿や新造は赤い着物が多かった。

☆新造と「水揚げ」
禿がおよそ、12〜13歳くらいになると、その後は「振袖新造」(ふりそでしんぞう)と呼ばれるようになる。
ここでやっと旦那さまから解放されるが、逆に、その他の姉女郎たちから、次々と雑用を頼まれる。
序列の順番を間違えてはならない。さりとて、用事の順番を間違えても、グダグダと説教をされてしまう。多忙なのは禿以上かもしれなかった。
まれに、器量が良かったりすると、姉女郎が「回し」(一人の遊女が数人の客を掛け持ちすること)などの時には、待たせる客の話し相手に抜擢されることがある。これを「引込新造」(ひきこみしんぞう)と呼んだ。
姉女郎や客の男から、たまに「おひねり」(チップ)をもらえることもあった。いつの世でも美人は徳だ。
妓楼の主人たちの会合で、各妓楼で17歳になる新造が数人揃うと、「新造出し」(お披露目の花魁道中)という行事を開催することが話し合われる。当時は「数え年」であったので、「満年齢」にすると16歳である。
もちろん、暦を見て「大安吉日」が選ばれる。この日ばかりはお披露目をされる新造たちが主役だ。妓楼でも他の妓楼に負けまいと一張羅(いっちょうら)の振袖を買い与えられて着せる。(当然、新造の借金になる)。さらには、豪華な髪飾りなども姉女郎などから貰ったり、貸してもらったりして、水道尻と呼ばれる吉原遊郭の一番奥手の場所に集合する。
先導するのは若衆。若衆は昼間にもかかわらず大きな小田原提灯に蝋燭を灯して、足元を照らすようにして先を行く。その後がお披露目新造。そして、この日ばかりは太夫の中の一人が選ばれて道中に華を添える。その他にも、禿、その他の新造、姉女郎、遣り手、若衆、他の妓楼からの応援遊女たちまで揃い、水道尻から仲の町通りを大門まで時間をかけて、ゆっくりと練り歩く。通りに面した妓楼や道の左右に集まった客たちからは、時々、拍手が沸くこともしばしばだ。
この行事を終えると、客を取れるようになる。しかし、初夜を失敗してしまうと「SEX恐怖症」になってしまうこともある。
そこで、楼主は馴染み客の中で財力もほどほどにあり、温厚で遊女の扱いにも慣れた、ある程度年齢のいった男を選び、話を持ちかける。(揚げ代はしっかりと取られる)。男はさぞかし大喜びをしたに違いないと思われるのだが、この当時、世間的に「処女性」はそれほど重要視はされなかった。それでも、若い初の少女(遊女)を抱くのだから光栄極まりない心地だったに違いない。
こうして「初夜」を迎えることを「水揚げ」と呼び、この日より「年季」が始まり、10年間を務めてもらうことになるのであった。

「新造出し」の図。前の4人がお披露目新造その後が太夫(花魁)と左右に
 禿が2人。そして、姉(あね)女郎。一番後ろは「遣り手」。男たちは若衆。


「水揚げ」の図

一番上が「水道尻」。ここから「仲の町」(なかのちょう)を大門まで練り歩いた。  

☆花いちもんめ
童謡で「花いちもんめ」という歌があるが、これは女衒(ぜげん=人買い)に売られる少女を歌ったもので、1匁(もんめ)は、時代により換算金額は違うが、約1,500〜2,500円位であった。だが、この歌は「安い銭で売られた」ということを強調したものであり、実際は30〜50両(30〜50万円)くらいであった。
女衒が少女を売ったのは、主に、集団娼の水茶屋や出会い茶屋、四宿の飯盛り女で高く売れた。吉原に売られることは「割合少なかった。これは、かなり安い値段であると同時に、幕府は「人身売買」を禁止していたからである。しかし、やはり、裏道には裏道があり、女衒が「親」となり吉原の楼主と、あくまでも「奉公」という「契約」の形での売買をした。

☆遊女の年季明け
遊女は、だいたい幼いころから身売りさせられて、およそ27〜28歳くらいで借金は返せたという。だから、27歳頃になると、客の中から将来身を任せられ男を選んだ。自由の身になると、親元に帰ったり、男と一緒になったりしたが、廓(くるわ)に残って「遣り手」(やりて)などになり若い娘の躾(しつけ)をした者もいた。

☆身請け
史料として残るのは、元禄年間(1688〜1704)で「梅茶」あたりで40〜50両(約1千万円余り)。「梅茶」の借金が30両位で後は忘八の取り分。「太夫」になると借金は500〜600両で、身請け金額としては、それまで世話になった人々への「ご祝儀」も含めて、1,000両(約7,500万円位)かかったと言われています。
身請けの日には、妓楼(ぎろう)では、「赤飯」を炊き、豪勢な食事を用意し、一通りの「祝いの膳」を終えてから(全て、身請け人の銭で)、大門の前に用意された「籠」で廓(くるわ)を去った。
天明年間(1781〜)に入ると、松葉屋半左衛門という楼主は、これまでの26年間に渡り、2代目瀬川から5代目瀬川までの4人を身請けさせ、5,000両という大金をせしめたと言われている。そこで幕府も、余りにも高額過ぎる、と判断をし、以後は「500両以内とする」と言う通達まで出している。
身請けするには、まず、客から楼主に「だれだれを身請けしたい」との相談があり、楼主は、一応は親元に確認をとり、異存のないことを確かめたうえで、客に身請け証文を入れさせ、さらには、身代金と本人の借金を支払わせた。
天明13年(1793)に身請けされた薄雲太夫の身請け証文は以下のように書かれてある。
「証文之事 一 其方抱之薄雲と申す傾城 未年季之内に御座候へ共 我等妻に致度 色々申候所に無相違妻に被下 其上衣類夜着蒲団手道具長持迄相添被下忝存候 則為樽代金子三百五拾両其方え進申候 自今已後 御公儀様より御法度被為仰付候 江戸御町中 ばいた遊女出合御座舗者不乃申道中茶屋はたごやへ 左様成遊女がましき所に指置申間敷候 若左様之遊女所に指置申候と申すもの御座候はば 御公儀様え被上仰 何様とも御懸り可被成候 其時一言之義申間敷候 右之薄雲若離別致し候はば 金子百両に家屋舗相添へ 隙出し可申候 為後日証文如件 元禄十三年辰の七月三日 貰主源六 請人平右衛門 同半四郎 四郎左右衛門殿」
要約すると、
「薄雲という太夫(または、花魁)はまだ年季の途中であるが、私の妻にいたしたく、色々な所へ相談し許可を得ました。また、衣類や夜着、蒲団、手荷物、長持ちなども一緒に引き取ることといたしました。酒宴のための酒樽代金350両をあなたに差し上げます。私は今後、御公儀より御法度とされている町中(の女郎)やばいた、旅の途中の茶屋やはたごの遊女がましき所へは出入りをいたしません。もし、そのようなことをして薄雲と離別するようなことがあれば、金子100両に家屋敷を添えてひまを出します。後日の証文といたします。元禄13年辰7月3日 貰主源六、証人平右衛門、同じく半四郎。四郎左右衛門殿」

左奥の座っている男は、立っている遊女の馴染み客で将来の身請け
を誓い合った仲。
馴染み客となると、他の遊女とは遊べない。奥の男は浮気をしてしまい、髷(まげ)を切り落とされ、さらには女の着物を着せられ、皆の笑い者になっている。

☆遊女たちの一日
四ツ刻(10:00)・・・遊女たちが起きだし、振袖新造(禿=かむろの欄参照)が掃除を始める。床から出た遊女はまず湯に入り、食事をした後、化粧にかかる。
             遊女同士のお喋りや手紙を書くのもこの刻限。やがて、貸本屋や文使い(郵便屋)、髪結いなどが来る。
九ツ刻(12:00)・・・若衆が「湯をしまいます」と風呂の終わりを触れ回ります。遊女たちの髪結いも終わり、昼見世が始まる。太夫、格子などでの昼の指名が
             あった場合は、茶屋まで花魁道中。散茶以下は、しゃにむに二階に連れ込む。
七ツ刻(16:00)・・・昼見世がひける。遊女たちの食事。秋や冬には陽が落ちるのが早いので、この頃には見世には一斉に灯りが点される。夜の部の花魁
             道中などが繰り広げられる。
六ツ刻(18:00)・・・清掻き(すががき)と呼ばれる三味線の合図とともに夜見世が始まり、散茶以下は格子戸の前に並び、廓内も人の往来が激しくなる。
五ツ刻(20:00)・・・登楼した客の宴もそろそろ終わりに近づき、床付(床入り)となる。
四ツ刻(22:00)・・・帰る客やこれから揚がる客の送迎で妓楼は一番忙しい時間帯となる。
九ツ刻(24:00)・・・中引け。拍子木が四つ叩かれて刻を告げる。引け四ツとも呼んだ。
八ツ刻(02:00)・・・大引け。遊女たちは床につく。
七ツ刻(04:00)・・・遊女は泊まり客なども含めて、すべての客を大門まで送る。常連客が姉女郎に背いて浮気をした男を振袖新造が大門で待ち伏せして、
             姉女郎のところへ連れて行き折檻をするのもこの刻限。
六ツ刻(06:00)・・・客を送り出して、身の回りを片付けて、やっと遊女たちの就寝の刻限。

 花魁や格子の部屋で仕える新造が朝の掃除をし、
   若衆が 生け花を飾っている。

遊女は床から起きると、すぐに入浴をした。右下は厠で用を足している。

一刻の休憩
張り見世に出るための身支度

☆遊女のあの手この手
吉原というところは「嘘」で成り立っている。
遊女は何人もの客に、
「主(ぬし)さんに惚れんした」
と、言わなければ、客は二度と来ない。それだけ「揚代」も減れば、酒食代の「バックマージン」も減る。
客は客で、
「また来るよ」
と、言わなければ、床の中で十分なサービスをしてもらえない。
落首に、
    ”傾城(けいせい)に嘘をつくなと無理を言い”
※「傾城」は本来、太夫(または、花魁)、を指したが、ここでは「遊女全体」を指している。
※たんまり金になると思える客には、「起請文」(きしょうもん)を書いたり、小指を切ったり、男の名前を腕に刺青したりして、遊女の誠意の証とした。そして、客が他の遊女に浮気をさせないようにした。
※「起請文」とは、熊野神社などが発行する厄除けの護府(ごふ)に、「神仏に誓って私の言葉は嘘ではありません」と書いたものを客に渡したり、客の目の前で飲み込んでみせて愛情表現のしるしとした。

起請文はこうした護府に書かれた

  「指切り」 大概の遊女は気絶した 「刺青」 馴染みの男の名前を掘って誠意を示した


☆死んだ娼婦

郭(くるわ)は決して衛生的ではない。梅毒などはあたりまえであった。不治の病にかかった遊女は、見世もロクに食事も与えず、手当てなども一切せずに、ただただ死ぬのを待った。死ねばすぐに銭二百文をつけて「投げ込み寺」へ持ち込んだ。寺では「総墓」と呼ばれる大穴に投げ込み、簡単な読経ですませた。成覚寺、回向院、総泉寺、霊巌寺、浄心寺などがあった。

☆芸者
芸者ははじめ「踊り子」といった。器量の良い娘が三味線を持って、お座敷で踊ったり歌ったりして酒宴を盛り上げた。元禄の末ころに、こうした女たちを「芸者」と呼ぶようになった。のちに「町芸者」、「郭(なか)の芸者」、「深川芸者」の派閥ができて勢力争いさえ繰り広げたという。
中でも、「深川芸者」は着物の上に羽織をはおっていた。そして、源氏名には「ぽん太」とか「吉奴」とかの男の名を付けて幅をきかせていた。
「廓の芸者」は、年季明けの遊女が男にも身請けされず、妓楼に残って三味線、琴、太鼓、などの自分の特技を生かして宴席の盛り上げ役となった。

廓に残って芸子(芸者)になった女たちの練習風景

☆警動(けいどう)
吉原の客が減少し始めると、妓楼だけではなく遊女たちも生活に困った。そこで、楼主たちが集まり協議の結果、町奉行所へと訴える。幕府公認の吉原からの訴えは町奉行所としても聞き届けなくてはならない。
そして、普段は黙認をしているのだが「警動」と呼ばれる私娼の摘発が行われる。散娼(岡場所の項参照)は個人営業であり、何時どこに出没するかが分からないため除外されたが、主に、水茶屋、出会茶屋、湯女(ゆな、岡場所の項参照)などの私娼(売女)が対象で多い時には200人余りにもなったという。
摘発された売女たちは、まとめて楼主たちに引き渡された。そして、競りが行われる。美人だったりすれば、当然、高い値が付いた。こうして買い取られた売女たちは、それぞれの妓楼に連れて行かれ、妓楼の仕来りなどを聞かされるが、彼女たちはすでに春を売る経験者であるため、すぐにも張見世に出て客を取ることができた。遊女たちの階級の中では、もちろん、最下位であり、さらには、「奴女郎」(やっこじょろう)と呼ばれさげすまれた。売り上げの全ては楼主に取り上げられ「無給」であった。しかし、彼女たちは3年間無給で働けば解放された。解放とは廓(くるわ)から出ても良いと言うことである。楼主たちは、彼女たちがまた売女になることは分かり切ってはいたが、お上からは「3年間無給で働いたら、解放せよ」という通達が出されていたため仕方のないことであった。

☆警動で摘発されたが太夫にまで上り詰めた遊女
元は湯女であった「勝山」という遊女であった。(岡場所の湯女の項参照).。諸説があり、また、史料が乏しいので余り詳しくは述べられない。
警動により売女として捕捉され、3年間の無給奉公を終えた後、妓楼の親方(遊女たちは楼主をそう呼んでいた)の山本芳順に頼まれて妓楼に残った。それは、無給の年月でも勝山の美貌の人気は評判に評判を呼び妓楼は繁盛した。そして、次々と昇進を重ねて、ついには、楼主たちの例会で勝山は推挙され、楼主たちの満場一致でついに太夫にまで上り詰めたのであった。
勝山は江戸時代初期の女性であったが、美貌に加えファションセンスも優れており、彼女が考案をし自らも実践していた髪型を「勝山髷」(かつやままげ)と言い、少なくとも、江戸市中では女性の間で爆発的な人気となったと言われている。また、綿入りの長めの着物の「たんぜん」を考案し、これは、以前売女をしていた「丹前風呂」からその名を取ったといわれている。

 
 廓を去る勝山の絵(お気に入りの勝山髷をしている)

☆2階で小便
妓楼は全てが2階建てで、中庭を取り囲むようにして建てられ、間取りはほぼ統一されていた。大見世では間口が24m、奥行きは40mもある壮大なててもので、遊女を初めとして奉公人などをあわせると100人余りが暮らしていた。
1階は妓楼で働く者たちの生活の場で、台所、厠、内風呂、奉公人たちの部屋、内所(ないしょ=楼主の居場所)、楼主の家族の部屋、行灯部屋、などがあった。行灯部屋は昼間使わない行灯を仕舞う部屋であった。そして、表に面して張見世の座敷があった。
2階には四方に延びた廊下があり、その両側に情交のための部屋、宴会用の部屋などが並んでいた。
そして、当時の大工の技術では非常に困難をきわめた「厠」があった。
そのため、「2階で小便をして来た」といえば吉原で遊んで来たことを意味しており、男の自慢であり見栄っでもあった。

妓楼の1階・内所 妓楼の1階・「火の用心」の柱から左が内所と楼主家族の居場所で、暗黙の了解のもと遊女は用のない限りは基本的に立ち入らないこととなっていた。

妓楼の2階・中庭を取り囲むように四方に廊下が延びている

妓楼の2階。右端の黒い着物の男が2階で小便をしている

妓楼の2階。左奥では酒宴の最中。左下の遊女はこれからお床入り。中央は務めを終えた遊女。

☆オケラの処置
「オケラ」。つまりは、銭を使い果たしてスッカラカンになった者のことである。オケラとわかると見世の若衆がでてきて、見世の前に引きずり出し、大きな桶を被せた。桶には小さな小窓が開いており、晒し者にしたのである。監禁とリンチを兼ねたようなものである。その間に若衆は、まだ陽がある内は客の関係者から遊興費を集めて回ったし、陽が沈んでからオケラとわかると、一晩そのままにして、翌朝回収に駈けずり回った。この時の回収役を「付き馬」と呼んだ。

☆一銭もなくても遊べた?
客は、まずは吉原の大通りの仲の町(なかのちょう)にある、行きつけの引手茶屋に揚がる。一通りの酒宴を開き、折を見て店の者を使いとして妓楼へ走らせる。やがて妓楼からは花魁(または、格子)が華やかな花魁道中を繰り広げながら茶屋へと向かう。
引手茶屋に着いた花魁は、しばし客と酒を酌み交わしながら談笑をする。やがて、男は引手茶屋の若衆に先導をされ、花魁は再び花魁道中を繰り広げながら時間をかけて妓楼へと向かう。通りを行きかう人々は羨ましそうにただただ見つめるだけだ。花魁にしてもこうした花魁道中という派手な宣伝は、自らの名を知らしめると同時に妓楼の宣伝にもなり、妓楼での株を上げた。
妓楼に着くと、花魁専用の部屋で再び酒宴が開かれる。台屋と呼ばれる仕出し料理店から豪華な料理を取り寄せ、芸者や封間(ほうかん=男芸者)による三味線、小太鼓、唄、踊り、即興芸、などが繰り広げられる。
こうして盛大に騒いだ後は、客はいよいよ花魁とお床入りである。引手茶屋の若衆は二人が寝床に入るまで、何かにつけて先回り、先回りをして世話にあたる。
翌朝になると、指定した刻限になると引手茶屋の若衆がわざわざ妓楼まで客を起こしに来る。客は背伸びの一つでもしてから、花魁に見送られながら、若衆とともに引手茶屋へ行き、用意された雑炊などで朝食をとる。
これが、吉原での最高に贅沢な遊び方なのである。
引手茶屋を通した遊びでは非常に高くつく。一晩で30両や40両はとんでしまう。しかし、一度はしてみたい男の「粋」と「見栄」でもあった。
ところがその後、客は裕福なはずなのに一銭も支払わずに引手茶屋を後にする。引手茶屋での酒宴代、妓楼への支払いや揚代、妓楼での酒宴の酒や肴、芸者や封間、などの支払い。
さて、どうするのか??
実は、これらの費用の全てを引手茶屋が立て替えてくれてあり、引手茶屋は後日大店などへ回収に行くのである。従って、客は一銭も持つことなく豪遊ができたのである。
客と引手茶屋の信用関係が成り立っていればこその所業なのであった。

  

花魁との一夜

引手茶屋。仲の町には茶屋が並ぶが、その筆頭とされるのが絵に描かれている「山口巴屋」。大門を入った右側には一流の茶屋七軒が軒をつらね「七軒茶屋」と呼ばれた。茶屋からの指名を受けた花魁は茶屋までを「花魁道中」をした。

☆遊女の末路
遊女の中でも花魁や格子などの位の高い遊女は、生活用品、光熱費、自らの装身具、化粧品、見習いとして仕える禿や新造たちの養育費、などを捻出するためにあらゆるテクニックを駆使して客から貢がせた。
また、こうした高級遊女を馴染みとする裕福な客層も、ただ単に妓楼で彼女たちを抱いて銭を落とすだけではなく、盆暮れはもちろんのこと四季折々のプレゼントを付け届けをすることが、男の「粋な計らい」であり「ステータス」であった。
従って、彼女たちは、基本的には「妾」としての身請けはあまり良しとはされなかったが、そこはそこ、裏には裏があり、楼主が提示した額よりも上乗せがあれば、親や本人と話し合った上で目をつぶることも当然のことのように行われた。そして、遊女の年季明けはおよそ27〜28歳位であったが、年季が明ける頃や年期の中途であっても身請けをする旦那が決まっており、廓を後にすることができた。
位が低く指名もそれほどなかった遊女たちは、借金も残ったし身請けする男も決まらず、仕方なく妓楼に残って「遣り手」、「飯炊き」、「縫い子」、「番頭新造」、「太鼓新造」「三味線新造」、などとなった。
また、廓内の「切見世」で稼ぐ者や、廓を出て水茶屋や出会い茶屋などの岡場所に身を落とす者もいた。
★「遣り手」・・・・・若い遊女たちの教育掛かり。と言えば聞こえは良いが、遊女が「足抜け」(脱走)などで若衆などに捕まったりした時は妓楼の裏手にある大木に吊るしたり、縛り付けたりして竹刀で散々に痛め付け、食事もロクに与えず、他の遊女たちの見せしめとした。時には死亡する遊女も少なくなかった。また、客を怒らせたりした遊女なども竹刀などで折檻を受けた。「遣り手ババア」、「花車」、「香車」、なと呼ばれて恐れられた。
★「飯炊き」「縫い子」・・・・これらは妓楼の裏方として働いた。
★「番頭新造」・・・・・花魁や格子のマネージャー役を務めた。
★「太鼓新造」「三味線新造」・・・・自らの特技を生かして妓楼に残り芸子(芸者)として宴席を盛り上げた。(芸者の項参照)。
★「切見世」・・・・廓内の「西河岸」と「羅生門河岸」で安い銭で遊女としての仕事を続けた。(「切見世の項参照)

遣り手

☆切見世(きりみせ)
吉原の廓は高い遊女ばかりで銭がかかる、と思われがちであるが、そうしたイメージを覆すような場所も実は存在したのだ。
大門を潜ると、まさにそこは別世界であった。華やかに彩られた引手茶屋や妓楼がひしめく一方で、、大門を入ると四方を高い土塀が取り囲み、そのすぐ内側に幅5間(約9m)狭いところでも幅2間(約4m)、深さ3〜4尺(1)の、通称「お歯黒どぶ」と呼ばれる「大溝」(おおどぶ)があり、ここは生活用水の排水路でもあり遊女たちの足抜け(脱走)防止のための堀であった。そして、大門を入った右手のお歯黒どぶに沿った一帯を「西河岸」(にしがし、または、浄念河岸)と呼び、左手の一帯を「羅生門河岸」と呼んだ。
ここに「切見世」(きりみせ、または、局見世・つぼねみせ)と呼ばれる平屋で、幅4.5〜6尺、奥行2.5〜3間の間仕切りの長屋が5〜8軒に区切られていくつも連なっていた。
この一帯は、実は、年季が明けた遊女たちの中でも、妓楼にも残れず、男に身請けもしてもらえなかった遊女たちが身を落とした場所なのであった。彼女たちはこの狭い間仕切りの中で寝起きをし妓楼と同じくように客を取った。
切見世は{一ト切」(ひときり)と言われ、時間にしてわずか10〜15分を指した。いわゆる「ちょんの間」なのだ。そして、揚代は100文(2,000〜3,000円)であった。人気の切り見世には、「すぐ終わるから」と行列ができたと言う。
しかし、ほとんどの男は「ちょんの間」で終われるはずもなく、この長屋の持ち主から派遣された若衆から「時間が長かった」などと、、色々な難癖を付けられて実際には100文の数倍を取られたという。


切り見世(河岸見世)の様子
「西河岸」(浄念河岸)と「羅生門河岸

☆吉原の花見
遊女たちは一切吉原の廓から市井へ出ることができない。
そんな彼女たちにも四季を感じさせる「行事」があった。
毎年3月1日になると、箕輪、駒込、巣鴨、などの植木職人たちが総出で、吉原の中央地にある大通り(仲の町・なかのちょう)に一晩にして約1,000本の開花が楽しめそうな桜の木を飾った。
夜間には、通りに面した引手茶屋が提灯や雪洞(ぼんぼり)を灯してライトアップをして、まさに「不夜城」と呼ばれるにふさわしい光景を演出した。
遊女を買いに来た男だけではなく、桜並木を見るためだけに訪れた人々で、仲の町は昼夜を問わず賑わった。
遊女たちは、営業時間内に抜け出すわけにもいかず、寝る間を惜しんで化粧をし、「花見小袖」(花衣・はなごろも、とも言った)を着て仲の町の桜並木に行き気に入った場所があると、花見小袖を脱いで両袖に紐を通して木に吊るした。これは自分専用の場所を示すと同時に幔幕替わりともした。そして、見世で客がつくと客と共に自分の場所へ案内をして、用意してきた酒や肴を振舞い、芸者なども交えて盛大な宴会を繰り広げたのです。
こうして花見を十分に楽しむと3月28日になると、一夜にして桜の木は植木職人たちの手で取り除かれ花見の行事も終わったのです。
しかし、次の花見は「藤」の季節となり、またまた仲の町に面する引手茶屋に藤棚がしつらえられ、夜にはライトアップもされて遊女や客たちを喜ばせた。

仲の町の桜並木

花見小袖を紐で吊るし自らの宴席を確保すると同時に幔幕替りとした   

仲の町の藤棚

仲の町の花見の賑わい


☆岡場所
(私娼)
幕府の許可を受けていない私娼(ししょう=売女「ばいた」とも呼ばれた)のこと。集団娼(しゅうだんしょう)と散娼(さんしょう)に分けられた。
集団娼・・・水茶屋や出会い茶屋、飯盛女(下記参照)など、茶屋や宿に抱えられて春を売った。
湯女(ゆな)・・・・・湯屋(銭湯)にも私娼がおり、西神田の堀丹後守の屋敷前にあった「丹前風呂では「勝山」という湯女(ゆな)は人気NO1だったと言われている。
散娼・・・・・蹴転(けころ)・・・・・・・上野のお山を中心に出没した。
       提げ重(さげじゅう)・・・明和〜安永年間(1764〜1781)頃流行した、提げた重箱に餅や饅頭を売り歩きながら春も売った。
       船饅頭(ふねまんじゅう)・・・天明(1781〜1789)頃流行。饅頭を売ることを表向きとして「大川(隅田川)」の船の中で春を売った。
       夜鷹(よたか)・・・元禄年間(1688〜)から出没するようになった。下記参照。
       比丘尼(びくに・・・天和〜貞享(1681〜1687)頃から出没し始めた。下記参照。
なぜ「岡場所」と呼ばれたかは、「岡」に登れば四方が見渡せる。つまり、「岡目八目」や「岡惚れ」と同じく横合い(本筋ではなく)から手を出すからきている。

☆比丘尼(びくに)への憧れ?
「比丘尼」とは諸国勧進に回っていた「尼さん」が「娼婦」に落ちた者をさした。天和年間(1681〜)頃から出没し始めた。
尼僧姿で娼婦とは変なものだが、坊主頭に色気を感じる変体男もいて、江戸ではなかなかの人気があったという。狂歌で、
「三ケ日(さんがにち)待たず比丘尼は見世を張り」
というのがある。つまり、正月の三ケ日も休めないほど繁盛した、というものである。
主に、「中宿」にたむろして商売を行ったが、寛保2年(1742)、比丘尼と武士の心中事件が起こり、中宿の一斉摘発が行われたのを機に比丘尼は姿を消した。

☆夜鷹(よたか)
京都では「辻君」(つじぎみ)・・・何となく風情がある。
大阪では「惣嫁」(そうか)・・・・・何でも喰らい付くの意。
江戸では「夜鷹」・・・・・・・・・・・これは、夜になると鷹のように目を凝らして相手を見つけた。
「凡(おしなべ)て鮫ケ橋、本所、浅草堂前、此三ケ所より出て色を売り、此徒凡て四千に及ぶと云ふ」(武野俗談)とあるから、江戸の女五十人に一人の割合であったとか。夜鷹の出没するのはほかにも両国、柳橋、呉服橋、鎌倉河岸など柳のある土手が多かった。彼女たちは柳の陰からす〜っと出てきて、往来の男の袖を引っ張って土手を降り、川端に積んである材木の間などで事をすませた。持参のゴザが唯一の商売道具であった。もちろん、隠れ「売女」(ばいた)であった。
面白いところでは、夜鷹の出没するあたりには「蕎麦屋」も屋台をかまえ、情事が済んだ後に蕎麦を食べる者もいた。また、夜鷹も腹ごしらえをしたり、客が見つかるまで夜鷹と蕎麦屋が世間話をしたりした。あるいは、蕎麦を食べに来た客を夜鷹が強引に客引きをしたりした。

夜鷹  柳の下の蕎麦屋


☆飯盛女(めしもりおんな)
江戸四宿、つまり、品川、千住、板橋、内藤新宿、が四宿(ししゅく)であり、ここには「飯盛女」(めしもりおんな)という宿場女郎がいた。宿場の活性化のために黙認されていて「一軒に付き二人」と決められてはいたが、宿の表に顔を出して客引きをするのは二人であったが、裏に回ればぞろぞろ・・・。

宿場での客の奪い合い


☆私娼のお値段
時代によって金銭価値が違うが、元禄年間(1688〜)頃の相場で、1文=約25円相当。
夜鷹・・・・・・・・・・・24文=約600円。
船饅頭・・・・・・・・・32文=約800円。
比丘尼・・・・・・・・・100文〜200文=約2,,500円〜5,000円。
蹴転・・・・・・・・・・・200文〜500文=約5,000円〜12,500円。
湯女・・・・・・・・・・・500文〜1,000文=約12,500円〜25,000円。
飯盛り女・・・・・・・・400文〜600文=約10,000〜12,500円。
★換算金額は「遊女の揚代」で述べましたが、何を基準にするかで価値が違ってきます。

☆小便組(しょうべんぐみ)
宝暦年間(1751〜)頃から出没し始めた。これは、裕福な旗本などへ「妾奉公(めかけぼうこう)をする」と約束をし、多額の支度金をせしめて、数ヶ月もしないうちに夜の床の中でわざと寝小便をし、暇をもらう「詐欺行為」であった。

☆京都の事情
豊臣秀吉が京都の再興をするにあたり、花街を「二条柳馬場」に「柳町」という一角を造り「遊女屋」などを集めました。やがて、六条坊門(現:東本願寺の北側)へ移され「六条三筋町」として栄えました。さらに、江戸時代に入ってからは、京の街も人口が急増したため、寛永18年(1641)に市街地の西の「朱雀野」へ移転をさせました。そして、廓の一帯を、正式には「西新屋敷」と呼ばせましたが、この移転は突然の「移転命令」でしたので、ちょうど「島原の乱」が終結した時期でもあり、この慌しさをひねって、通称「島原(嶋原)」と呼ぶようになりました。
島原には「揚屋」(あげや)と「置屋」(おきや)があり、「揚屋」は、現代で言うと「高級料亭」で宿泊施設はありませんでした。
そこで、お大尽は、まず、「揚屋」に腰を据え、そこから使いを出して「置屋」の「太夫」を呼び寄せて「高級料亭」での酒食を共にし、太夫に気に入られれば、「置屋」へ案内をされて夜を共にしました。この時行われたのが「太夫道中」でした。しかし、江戸の「花魁道中」のように10人近くを従えるほどではなく、せいぜい5〜6人にお供をさせました。

☆大阪の事情
京に見世を構えていた「扇屋」という「置屋」が寛文年間(1661〜)か延宝年間(1673〜)頃に大阪の新町へ移転したのが始まりとされています。
この時、その見世の看板遊女であった「夕霧太夫」も一緒に大阪へ移り、大阪では大変有名になったと言われています。現在でも、11月第2日曜日に「清涼寺」で「夕霧供養祭」が行われています。
大阪も京と同じように「揚屋」と「置屋む形式でしたので、「太夫道中」が行われました。

☆紀文(きぶん)
紀伊国屋文左衛門(通称・紀文・寛文9年(1669)?〜享保19年(1734)4月24日)は、紀州湯浅(現・和歌山県有田郡湯浅町)の貧農の家に生まれた。やがて18〜19歳頃、そんな貧しさに見切りをつけて江戸へ出て来た。そして、職を転々とするうちに商人の娘「綾野」と知り合い、綾野の紹介で「松木屋」で働くようになった。間もなく二人は恋に落ちたが、使用人と商家の娘。主人が許すはずもなかった。だが、可愛い娘の綾野に説得された主人は、
「1,000両貸してやる。1年後に倍の2,000両にできたら、娘をくれてやる。もし、それができなかった時は、一生涯この店でただ働きをしてもらう」
と、条件を出した。
そこで紀文は、多忙な店の仕事を終えてから、江戸の庶民に何が欠けているかを真剣に情報収集をした。そして、紀州では二束三文の「みかん」が江戸では結構な値段で売られていることに目を付けて、紀州でみかんを買い付けて船で江戸へ運び、みごと、1年後には2,000両を手にした。そして、紀文が困った時、側面からアイディアを出して「賢妻」と呼ばれた綾野とめでたく夫婦になったのであった。
その後は、紀州からはみかんを運ばせ、帰りの船には紀州では中々手に入らない「塩鮭」を積み込んで、江戸でも儲け、紀州でも儲けて「富」を築いた。
やがて、江戸の八丁堀に邸宅を構え、当時権勢を欲しいがままにしていた側用人の柳沢吉保や勘定奉行萩原重秀、老中の阿部正武らに「賄賂」を贈り、みかんで得た富で、今度は材木商にも手をだし、上野寛永寺根本中堂の造営工事を一手に引き受け莫大な巨利を得た。そして、幕府御用達商人の「鑑札」(許可証)も手に入れた。
こうした銭で、船頭や水主(かこ=船の乗組員)たちをねぎらうため、10,000両を持って吉原へ行き、実に20日余りも豪遊し、水主たちから逆に、
「早く紀州へ帰りたい」
と、言い出す者さえいたといわれている。
従って、紀文でさえ「賄賂攻勢」で、さらに「富」を手に入れようとしたが、こうした「悪」の部分だけではなく、吉原の水利の悪さを知ると、自腹を切って「井戸」を掘らせて吉原の人々に喜ばれた。また、永代橋も元禄11年(1698)に私財を投じて架けている。

☆奈良茂(ならも)
奈良屋茂左衛門(通称・ならも)は姓を神田といった。4代目の勝豊が良く知られている。奈良屋は寛永年間(1624〜1644)以降、代々江戸深川霊岸島に住んだ。
「江戸真砂六十帖」によれば、初代勝儀、2代目勝実、3代目豊勝で裏店住まいの車夫ないしは荷揚人足などをしていたと言われ、4代目の勝豊が大成したため、由緒書に誇張が含まれているともいわれている。
この4代目勝豊は2代目勝実の子で幼名あh茂松、あるいは兵助。号は安休。材木問屋の宇野屋に奉公し、「江戸真砂六十帖」によれば28歳で独立をした。この時から奈良屋茂左衛門を名乗ったと思われるが、諸説がある。天和3年(1683)5月23日〜9月1日に起きた日光大地震により日光東照宮が倒壊したためその修復工事には、途轍もない安値で落札をした。しかし、このような幕府の入札業者にどのようにして加わることができたかは不明な点は多いが、当時は老舗の材木商柏木屋伝右衛門が用材を買占め状態であった。奈良茂は安い値段で用材の檜を売ってくれるよう申し入れたが、柏木屋は当然断った。そこで、奈良茂は幕府に、
「柏木屋が日光東照宮の修復用材を買い占めてしまい、1本も売ってくれない」
と訴えた。
幕府はただちに柏木屋に対して、用材を売るよう指示をした。
しかし、その値段は余りにも高い値段であった。そこで、奈良茂は、再び、柏木屋の材木の数量を内偵し、
「こんなにも持っている」
と、幕府に告発をした。幕府はその数量に驚き、柏木屋は「遠島」の罪となり、奈良茂はまんまと一銭も支払うことなく柏木屋の材木の全てを手に入れて「巨万の富」を得ることに成功した。

☆紀文(きぶん)と奈良茂(ならも)の対決
年代は不明だが、奈良茂が吉原の妓楼の一軒を「総買い」(貸切)して、寒いにもかかわらず2階の障子窓を開けて道路や屋根に降りしきる雪を見ながら、遊女たちをはべらかして「雪見酒」を楽しんでいた。
丁度、真向かいの妓楼に紀文も一軒を「総買い」して2階でドンチャン騒ぎをしていた。
たまたま、紀文が障子窓を開けたところ、奈良茂とバッタリと顔を合わせてしまった。紀文は、一旦窓を閉めると、真向かいの奈良茂に文を書いた。
「えらい騒ぎじゃが、何を楽しんでおる」
と書き、店の者に届けさせた。すると、奈良茂からすぐに返事が届いた。
「おぬしのように、ただ騒ぐだけではない。わしは降りしきる雪を見ながら酒を嗜んでおる。良き風情じゃ。風情のないおぬしとは銭の使い方が違う」
それを読んだ紀文は、ややあってから妓楼の窓を開けて、奈良茂に軽く会釈をすると、突然300両という大金を道路にばらまいた。当然のことながら、見世の者や通行人が小判を拾らおうと殺到し、道路の雪は瞬く間にグチャグチャになってしまった。紀文は真向かいの奈良茂にニコリと笑い障子窓を閉めた。この紀文の行動で奈良茂は、せっかくの「雪見酒」が台無しになった。

酒宴。男の右手側が遊女。左手側は酒をすすめる振袖新造。芸者や
太鼓持ちなどが宴を盛り上げる。
気のいいお大尽にたかる遊女たち


遊 女