文化と趣味
☆出版・報道
江戸の出版物はすべて木製版画である。板面の外側に「見当」(けんとう)という目印をつけて、二色以上の場合はこれを頼りに色を重ねていく。「錦絵」と呼ばれた多色摺(す)り版画は、少なくとも6〜7色、多いもので20色以上というようなものもある。しかし、江戸時代では錦絵よりも仏書や漢書、読本(よみもの=小説)などの方が高級品扱いであった。庶民にはやや高値の華だったので、もっぱら貸し本屋に見料(けんりょう)を払って読むのが普通であった。定期的にまわってくる貸し本屋が、お客の好みに応じて本を置いていった。一方、印刷物の中でも報道の自由がなかったので、瓦版(かわらばん)はモグリの出版物であった。時事報道といっても、当時は、もっぱら火事や心中、敵討ちといった無難なものが多かった。売り子を「読売り」と呼んだが、別に、呼んで聞かせたわけではなく、独特な節回しで客を集め、内容の核心を披露して、集まった客に買わせた。
☆狂歌・川柳
江戸の文芸は「遊びの精神」と言っても過言ではない。短歌を諷刺(ふうし)的に詠んだものを「落首(らくしゅ)」と呼び、結構、古くからあったようである。狂歌(きょうか)は短歌の伝統を守りつつも滑稽(こっけい)に詠んだので、そこにはかなり幅広い教養が必要であった。趣味としては程度が高いほうであった。一方川柳(せんりゅう)は、狂歌ほどの素養がなくても簡単に詠めた。明和期(1764〜)以後、撰者の柄井川柳(からいせんりゅう)を中心に庶民に広がっていった。だが、「川柳」という呼び方は明治以後で、江戸時代は「前句(まえく)」、「川柳点」、「柳樽(やなぎだる)」、「狂句」などと呼ばれていた。
☆読本・絵草紙
江戸時代の小説で最も知られているのは、曲亭馬琴(きょくていばきん)の「南総里見八犬伝(なんそうさとみはっけんでん)」であるが、漢字と平仮名で書かれていて、全10巻もの大作。おそらく、10巻全部を読破した人はいないだろうと言われている。和漢混淆文(わかんこんこうぶん)でところどころに挿絵が入っており「読本」(よみほん)と呼ばれた。「南総里見八犬伝」のほかにも、馬琴の「椿説弓張月」(ちんせつゆみはりづき)などや上田秋成(うえだあきなり)の「雨月物語」(うげつものがたり)、「春雨物語」(はるさめものがたり)などが教養人向けで出版され、本の作りも上等で値段も高かった。そこへいくと、絵草紙(えぞうし)は絵を主体として平仮名で書かれてあり、寺子屋教育を受けた程度でも読めたので、庶民向きであった。一冊の本文はわずか10ページくらいで、続きものでも2〜3冊で完結した。現代で言えば短編であった。評判を得たのは柳亭種彦(りゅうていたねひこ)作で歌川国貞(うたがわくにさだ)画の「偐紫田舎源氏」(にせむらさきいなかげんじ)などであった。
☆狂画・戯画
狂歌や川柳と同じく絵画で諷刺したもの。鳥羽僧正(とばそうじょう=1053〜1140)の「鳥獣戯画」(ちょうじゅうぎが)以来の伝統をもって「鳥羽絵」(とばえ)として流行したのは、江戸も享保年間(1716〜)である。中心地は初め大阪であったが、狂歌をものとした北尾政美(きたおまさよし=鍬形寫ヨくわがたけいさい)の「略画式」、「人物略画式鳥獣略画式」、「略画苑」などが有名になった。寫ヨに続いて葛飾北斎(かつしかほくさい)が「北斎漫画」を発表。「漫画」とはあるが、現代の「漫画」とは違い「漫筆画」(まんひつが)の略である。色々な精神統一の仕方等を写実的に描いた。
☆鯰絵(なまずえ)
安政二年(1855)十月二日夜。江戸は直下型の大地震に見舞われた。これが世にいう「安政の大地震」である。町方だけでも倒壊家屋15,000を越えたといわれている。地震は地下にいる「大鯰」が暴れて引き起こすという俗説は、この地震を契機としてからとも言われている。安政の大地震がおさまるとすぐさま、鯰が暴れている絵に江戸の惨状を伝える文章を添えた「鯰絵」が発売された。そして、この地震で儲けた連中を鯰にからませて諷刺画を描き、次々と売れたという。しかし、報道の制限があったため、これらの絵はすべて匿名で出された。
☆書画鑑賞
今日のような展覧会はまったくなかった。ただし、七月の虫干しの時期に寺社が伝来の宝物を公開する「曝涼(ばくりょう)」や、地方の寺社が江戸の寺社へ本尊を出張させて拝ませる「出開帳」(でかいちょう)などがあった。絵画や書は教養人の嗜(たしな)みとされて、当時一流視されていた絵画の「狩野派」(かのうは)や書の「御家流」(おいえりゅう)、「大橋流」。蒔絵(まきえ)の「古満家」(こまけ)、「梶川家」(かじかわけ)」。彫金の「後藤家」(ごとうけ)。これらはいずれも諸大名中心にもてはやされた美術であった。しかし、市井の画家でもその絵画を披露することができたのが寺社への奉納額であった。寺社側でも特に奉納堂などを設けたりしたので、名家の力作が掛けられると江戸中の評判となり、遠くからの観客もあったといわれている。浮世絵は、現代ではその評価が高いが、当時は絵草紙屋に並ぶ消耗品で美術的価値はまったくないとされていた。
☆音曲(おんぎょく)
江戸庶民の音曲は三味線を伴奏楽器として使った音楽が一般的で、雅楽や能楽などとは趣(おもむき)を異にしている。三味線は古くは琉球(=沖縄)の三線(さんせん)から伝わったもので、出雲の阿国が歌舞伎興行に使って、歌舞伎が流行するにつけて、三味線もまた流行していった。江戸では町内に一軒は三味線の師匠がいたとさえいわれている。また、歌舞伎が本格化しはじめると男の踊りとして女は舞台に立てなくなっていった。そこで、歌のうまい女性は寄席に出て「新内」(しんない)や「義太夫」(ぎだゆう)を語るようになっていった。
☆お座敷遊び
「酒は一人で静かに呑むべし」という考え方は現代風であって、江戸時代はとにかく陽気に、賑やかに楽しむものと決まっていた。特に、職業なども世襲制で呑み仲間といえば、いつも決まった顔ぶれでしかなかったので、いろいろな遊びをしながらでなくては時間が潰せない。三味線が広まったとはいえ、人前で披露するほどの腕もなかったので、無芸の人でも楽しめたのが「拳」(けん)である。正式には「拳相撲」(けんずもう)というが、これは、何も用意しなくてもすぐにできたので人気があった。現代の「じゃんけん(=石拳)」も流れを汲む。当時は、藤八拳(とうはちけん)を中心に「虫拳」、「虎拳」、「長崎拳(本拳)」など十数種類に及んだという。「藤八拳」は「狐拳」または「庄屋拳」ともいわれ、狐、庄屋、鉄砲の三すくみで勝負をし、三回続けて勝ったほうが勝ちというもの。ほかには、「首引」(くびひき)という輪にした帯をあい向かいになった二人が首にかけて、体を反って引っ張り合いをした。現代の綱引きを首で行ったようなもの。
☆女の遊び
儒教の精神で「男女七歳にして席を同じゅうせず」が徹底しており、酒席以外で男女が遊ぶのは七歳までであった。さらに、七歳を過ぎたからといって、女同士が遊ぶことも、正月や雛祭りくらいの祭日でしかなかった。もっとも盛んだったのが「歌かるた」。現代は「かるた」というと「百人一首」だが、元来は競技であるとともに、女性の歌道鍛錬のためのものであった。「百人一首」のほかにも「伊勢物語」や「源氏物語」を題材とした「かるた」もあったという。また、上流階級の嫁入り道具の一つとしては「貝合わせ」が入った貝桶などがあった。「貝合わせ」は正式には「貝覆(おお)い」というらしいが、三百六十個の蛤(はまぐり)の貝殻を「出貝」と「地貝」に分けて、ぴったり合ったものを取っていく。なんとも時間のかかる遊びであった。
☆ペット
金魚売りは江戸の夏。虫売りは秋の風物詩。虫売りが売ったのは「蛍」(ほたる)、「きりぎりす」、「松虫」、「鈴虫」、「くつわ虫」など蛍を除けば泣き声を楽しむ虫たち。愛玩用動物としては「犬」、「猫」、「鳥」など。「犬」ではとりわけ「狆」(ちん)が人気があり珍重された。「鳥」では「鶯」(うぐいす)、「鶉」(うずら)などで、やはり泣き声を楽しんだ。
☆生類憐れみの令(しょうるいあわれみのれい)
五代将軍綱吉は、38歳の時に世継ぎの男子を失い、その後も男子が授からなかった。戌年(いぬどし)生まれの綱吉は僧隆光(りゅうこう)から「過去の殺生(せっしょう)の報い」と言われ、犬の愛護を勧められた。以来、犬を殺した者はもちろん犬を傷つけたりした者も「死刑」、「流刑」、「入牢」などの厳罰に処せられた。また、犬にかぎらず鶏をとった猫を殺した者やうるさいからとかで鼠(ねずみ)を殺した者でさえ処罰を受けた。元禄八年(1695)には江戸郊外の中野に十六万坪の野犬収容施設が作られ、犬の数は最高で42,000頭、費用も年間三万六千両を費やしたといわれている。現代でいえば「動物愛護協会」から表彰状ものである。綱吉は死に際して「この法令だけは死後も遵守(じゅんしゅ)せよ」と遺言をしたが、六代将軍家宣(いえのぶ)は、あっさりと廃止してしまった。庶民はやっと安堵できる日々がきたと喜んだという。
☆園芸
日本人はけっこう古くから植物を鑑賞用としていた。平安時代中期には宮廷内で長櫃(ながびつ)に「薄」(すすき)や「萩」(はぎ)を植えて鑑賞し、贈答品としても用いられていた。江戸時代も二代将軍秀忠や三代将軍家光などが花好きであったことから、大名や旗本連中もこぞって珍花や奇木を求める風潮が広がっていった。庶民も「菊」、「朝顔」などの鉢植えを路地に置いて楽しんだ。また、行楽地としては巣鴨の菊や堀切の菖蒲、大久保のつつじなどが有名であった。また、生け花も茶の湯とともに発展をし、町家から遊里まで女性の「たしなみ」としてもてはやされた。
☆魚釣り
忠臣蔵で悪者扱いされた吉良上野介(きらこうずけのすけ)の娘婿の津軽采女正(つがるうねめのしょう)は、趣味が高じて「釣魚秘伝・河羨録」(ちょうぎょひでん・かせんろく)なる釣りの入門書を出版している。釣り場や釣り道具、天候の判断、潮時までを説いている。釣りには「磯釣り」(いそづりと「陸釣り」(おかづり)とあり、「磯釣り」は「海釣り」を指し、「陸釣り」は「川釣り」を指している。(現代では「陸釣り」を女性ハントに使われるが、意味が違う)。江戸は海も川もあり両方が楽しめた。獲物としては「鯉」(こい)、「鮒」(ふな)、「たなご」、「きす」、「鯊」(はぜ)、「かれい」などであった。
文化と趣味