庶民の生活
☆長屋の暮らし
標準的な造りは、間口9尺(1間半)、奥行き3間、つまり、入り口から土間の台所、そして、座れる空間(座敷)を入れても9畳(4.5坪)でした。
土間兼台所は、3尺位で、非常に合理的に食事道具などを収め、その後ろの半畳位の場所に衣類などを入れた長持ちや家財道具を置き、居間としては6畳位しかありませんでした。食事道具としては、箱膳が重宝がられ、箱の引き出しに、自分専用の茶碗や皿、箸などを入れて、家族はそれを重ねて積み上げ、空間利用しました。
また、所帯持ちですと、江戸時代後期あたりでも、子どもは4〜5人居ましたので、家族としては6〜7人が一般的でした。従って、わずか6畳に押し合い、ひしめき合って暮らしていました。夫婦の夜の「お楽しみ」は、屏風や衝立(ついたて)で子どもたちとは区切りをして行いました。
もっと貧しい、あるいは、独身者用としては、間口6尺(1間)、奥行き2間、土間や家財道具や仕事道具などを置く場所を除くと2畳の座敷のものもありました。
井戸やトイレは一箇所で共同使用しました。
☆大家は家主ではない
大家は長屋の管理人であって、長屋の持ち主ではない。また、「家守」(やもり)、「家主」(やぬし、または、いえぬし)とも呼ばれた。
共同トイレは、大家の権限で、近在の農家などと契約をして、汲み取りをさせ、農家としては、江戸の贅沢な食事で排泄されたものは、良質な「下肥」(しもごえ)となり、年に10樽の「たくわん漬」などと交換をして、大家は店子に分配したりしていた。
長屋の一軒を借りるには、身元保証人が必要だった。また、独身の男が嫁をもらって、一緒に暮らす時にも「大家」の承諾が必要だった。
また、旅に出る場合は、関所手形を発行してもらうにも、必ず、大家の保証が必要だった。
夫婦喧嘩や子どもの喧嘩の仲裁も大家の大事な役目の一つだった。
☆木戸
長屋では、防犯上のこともあり、表通りに面した場所には、必ず、木戸を設置することが義務付けられていた。朝は七ツ(午前5時)に開けて、夜は五ツ(午後9時)には閉められた。
また、木戸の上部には、その長屋に住む「大工」や「たが屋」などの表札が掛けられており、宣伝すると同時に「ここに住んでいる」という証とした。
☆冬支度
建物を広範囲に暖めるには「囲炉裏」があったが、江戸の町中では家々が密集しており、火災の危険があったので、派手に火を炊くことはできなかった。そこで、とにかくいっぱい厚着をして火鉢に手をかざしたり炬燵(こたつ)に足を入れて暖をとるのが精一杯だった。火鉢には金属製、木製、陶製があり、形によって丸火鉢、角火鉢、長火鉢、提(さ)げ火鉢などがあった。下級層の長屋住まいでは、せいぜい丸火鉢ぐらいであったが、家持ちになると木製の長火鉢が主流だった。長方形の箱型をしており、片側に「猫板」と呼ばれる板を渡してあり、湯のみ道具を置いたりし、その下は引き出しになっていた。炬燵は足元から暖まって気持ちがいいが、鉄瓶などを置けないのでやや不便だった。囲炉裏というと農家を思い出すが、江戸市中でも深川の船宿などには囲炉裏があった。薪や炭が高かったので、せいぜいチロチロと燃えるぐらいか、炭を置くくらいであった。
☆夏支度
日本の建物は、昔から、夏向きに風通しが良いように造られている。暖かくするには厚着をしたり火を焚けば良いが、夏の暑さを取り除く方法は全くなかった。とは言うものの、道具類では「扇子」(せんす)、「団扇」(うちわ)などがあったが、耐え難いものであった。心理的効果としては、風鈴や虫の音色で少しでも涼を感じようと努力をした。夏はまた蚊やブヨなどが発生し、こちらの対処方法の方が難儀だった。「蚊遣り」(かやり)と呼ばれる香の強い木片やオガクズをくすぶらせて虫除けとしたが、当然けむたかった。蚊帳(かや)が広く使われ始めたのも江戸時代である。名産地は近江地方が多く「萌黄(もえぎ)の蚊帳」と町々を売り歩いたという。萌黄(黄色に近い緑色)だと汚れも目立たなかったので需要が多かった。麻の蚊帳もあったが高価で庶民には手が出なかった。ほかには、木綿や紙の蚊帳もあったという。しかし、長屋住まいの人々は「蚊遣り」ぐらいがせいぜいであった。「家のつくりようは、夏をむねとすべし。冬はいかなるところにも住まる」は兼好法師(けんこうほうし)の「徒然草(つれづれぐさ)」で有名。
☆寝具
現代のような掛け布団は一般的にはなかった。掛け布団は上方(かみがた)では元禄時代から使われ始めたらしいが、江戸では「夜着」(よぎ)が冬用で夏は「掻巻」(かいまき)を掛けて寝た。「夜着」も「掻巻」も着物をやや大きくしたようなもので綿が入っている。「掻巻」は夏用なので綿は薄く入っている。しかし、下級層では昼間着ていた着物に、冬は何枚も重ね着をした。夏はそのまま脱いで寝るのが普通であった。敷布団にはやや綿が入っており、形は現代とあまり変わりはない。枕は「括り枕」(くくりまくら)といって、長方形の袋に蕎麦殻(そばがら)などを入れたものが一般的であったが、髪型が派手になってくると崩れるのを防ぐために、高さを加えた「箱枕」が流行するようになっていった。
☆灯火
夜、部屋を明るくすることは非常に高くついた。もっとも一般的だったのが「行灯」(あんどん)であったが、形や大きさはさまざまであった。小皿に油を入れて灯芯を浸して点火するもので、風を防ぎ照明効果を上げるために障子紙で周りを囲った。使う灯油は、広く使われたのは菜種油であったが、当時はまだまだ高価だったため、貧しい人は、菜種油の半値くらいの「魚油」を使った。外房産の鰯(いわし)が多く出回った。しかし、臭いがきつく、何よりも煤(すす)が激しく出て、明るさもそれほどなかった。行灯よりも明るいのは「蝋燭」(ろうそく)だが、これは贅沢品であった。大型の百目(ひゃくめ)蝋燭になると、1本が200文(もん)くらいした。大工の一日の稼ぎが500文だったから、いかに高いかがわかる。武家はともかくとして、蝋燭をふんだんに使ったのは吉原ぐらいと言われている。
☆油を売る
裏長屋の住人でも明かりなしではいられないので、油売りは町屋の隅々まで入り込み顔馴染みをつくった。背負ってきた桶から粘(ねば)りのある油を油徳利などに移した。世間話をしながら客の持ってきた容器にゆっくりと注ぐ。客も気長に最後の一滴が落ちるまで待った。お互い怠け者のようにみえるので、無駄話で時間をとることを「油を売る」と言ったのはここからきている。蝋燭は高価だったのでもっぱら店で売っていた。また、蝋燭を売り歩くかわりに、「蝋燭の流れ買い」という商売があり、燭台や提灯の中に流れて固まった燃え残りやしずくを量りで買いとって歩いた。いかに、蝋燭が貴重だったかがわかる。
☆男の着物
男の着物は、身分によって決められていたので、人々は「身分相応」ということを幼少のころから叩き込まれた。武士は小袖(こそで)に裃(かみしも)か羽織、袴(はかま)。裃は肩衣(かたぎぬ)に袴を組み合わせたもので、正式には共裂(ともぎれ)で作ったものを着用した。商家の主人は紋付(もんつき)に小袖、絽(ろ)、郡内(ぐんない)、縮緬(ちりめん)などが許された。丁稚は麻か木綿のお仕着(しきせ=現代のツナギのようなもの)。手代や番頭になると、初めて前垂れを許された。大工や左官などの職人は、はじめのころ褌(ふんどし)に腰切り半纏だったが、やがて、紺の木綿半纏に股引(ももひき)、腹掛(はらがけ)が一般的となった。こうした衣類は時として華美になりがちであったが、身分を越えた服装をすれば処罰された。
☆女の着物
女の着物は、小袖の着流しが一般的であった。ただし、年齢や未婚、既婚を表現する方法として、娘は振袖(ふりそで)、結婚すると留袖(とめそで)を着た。しかし、結婚していなくても十九歳の女の元服を迎えると振袖を留袖に直した。帯は結び位置自由で細帯が主流であったが、ファッションはいつの時代も流行をつくり、帯の結び方もいろいろ工夫され、「文庫結び」「一つ結び」「おたか結び」などなど10数種類の結び方で自分を表現した。着物の模様は初期のころは総模様だけであったが、やがて、七分三分の模様配置をした寛文模様とか腰高模様の享保模様などと変遷をしていった。
☆被りもの
どこへ行くにも徒歩しかない時代。江戸の街は土埃がひどかったので、髪に付くと洗うのも一苦労。しかも、整髪用の油は結構高かったので、男も女も被りものが結構重要視された。男では、丸頭巾、角頭巾、船底(ふなぞこ)頭巾など。女は綿帽子(わたぼうし)や揚帽子(あげぼうし)、御高祖頭巾(おこそずきん=鞍馬天狗が被ったような頭巾)などが主流。手拭は一般的で、被り方や結び方で職業を表した。旅をする時は、男は深編笠。虚無僧は天蓋(てんがい)。坊主は網代笠。渡世人は三度笠など、女は市女笠や韮山笠などが有名。現代でも花嫁衣裳を着たときには揚帽子、つまりは、角隠し(つのかくし)などが伝統を受け継いでいる。
☆履物
はじめは、やはり、草履(ぞうり)が主流。と言っても、上物(高級品)は上方(関西地方)からの「下り物」(くだりもの)であった。しかし、江戸の街は雨が降ると下水処理がされていないので道路はぬかるみだらけ。そこで、下駄が流行しはじめた。はじめは雨天時だけの使用であったが、時代が安定してくると常用品になっていった。「ぽっくり下駄」「三枚歯下駄」「草履下駄」「中折下駄」(なかおりげた)などとファッションを取り入れるようになっていった。下駄より履き心地が良いのが「雪駄」(せった)だが、台の部分が薄いから泥には弱い。江戸で下駄が流行したのは、それだけ江戸の道路整備がされていないことを意味していた。旅をする時はやはり草鞋(わらじ)。現代に残る風俗画では、武士が草履を履き、お供の小者は「はだし」で歩いているものもある。また、京や大阪には長方形の下駄はなかった。
☆雨具
やはり一般庶民が愛用したのは茅(かや)や菅(すげ)で編んだ蓑笠(みのかさ)、合羽(かっぱ)。合羽には「丸合羽」「半合羽」「長合羽」「引き回し合羽」などがある。また、合羽には紙製のものや木綿、羅紗(らしゃ)などというのもあった。傘は古くは裂張り(きれはり)で特権階級の者が主に「日除け」として供の者にさしかけさせる大型で柄(え)の長い「差し傘」であったが、やがて、柄も短く紙を張った「番傘」が元禄以降に流行しはじめた。しかし、大阪大黒屋製の「大黒傘」がはじめで、江戸でもやっと大黒傘を真似て作られるようになっていった。とは言っても、やはり、傘は高級品の部類。古傘を買い集めて骨を差し替えたり、紙を張り直したりして再利用した。リサイクルの現代版。
☆提灯
江戸時代は、夜間、無灯火で歩くことが禁じられていた。したがって、どこの家でも提灯の一つぐらいないといけなかった。しかし、竹ひごで紙張りという壊れやすいものであったにもかかわらず値が高かった。だから、庶民は夜はほとんど外出することはなかった。提灯屋のお得意さまはもっぱら武家と妓楼(ぎろう=ゆうかく)関係が多かった。古くは「桃燈」と書かれていて、室町時代に中国の宗に渡った禅僧が伝えたと言われている。はじめは、木枠に紙を張り一箇所に置いたりしていたが、やがて、竹ひごで籠型の枠組みを作り紙を張り取っ手をつけたものへと替わっていった。しかし、提灯には蝋燭を使用したので、蝋燭も高く、なかなかの物入りだった。形や用途によって「盆提灯」「弓張提灯」「小田原提灯」などと呼ばれた。「小田原提灯」は割合小型で、折り畳めば懐にも入ったので、旅行用としてよく使われた。
☆携帯用品
★懐中物(かいちゅうもの)・・・着物の内側や帯の間に入れる物だから、かさばらない必需品。財布、紙入れなど。財布に入れるのは金貨、銀貨、銅銭などで紙幣は存在しなかった。紙入れはそのまま鼻紙入れ。
★提げ物(さげもの)・・・帯に挟んでぶら下げて歩いた。煙草入れ、小銭や薬などを入れる巾着(きんちゃく)など。武士は当然、大小の腰の物と言った。女は腰からは下げずに袂(たもと)に入れた。振袖などの場合は袂に袋物入れる、今で言うポケットを作ってあり、片方に手拭、もう片方には小物類を入れた。
★手提げ物(てさげもの)・・・TVでお馴染みの大店のご隠居が妾(めかけ)の家に行く時に、巾着袋(きんちゃくぶくろ)を持ってイソイソと・・・。これは、明治以降のこと。確かに、江戸時代も巾着はあったがもっと小さくて帯からぶら下げる程度の物だった。なぜなら、刃物を腰に差した男がいたるところにいたので、とっさに身を交わすには手首などに邪魔な物がないほうがよかったから。
☆髪の手入れ
男の髪型、つまりは「チョンマゲ」では、月代(さかやき)を剃ったり、髷(まげ)を結ったりすることは自分一人ではできず、江戸時代初期には自然と、それを職業とする者が現れた。初めは、橋のたもとや四辻(十字路)などの人通りが多い場所での「露天」であった。やがて、時代が安定してくると、店を構えて、何人もの職人を雇っている「髪結床」(かみゆいどこ)が現れ始めた。また、出張専門の職人もいて、得意先との契約で月給制。何軒もの得意先を持っていた。また、毎日来させた大商人の主人などもいたとか。
女の髪は、遊女以外は、自分で結うのが原則。女は髪を結えるようになって「一人前」と言われた。髪はおよそ1ケ月に1回位の洗髪でしたので、1週間や10日くらい経つと匂いが・・・。そこで、髪に付ける油で匂いを紛らわせた。無臭の胡桃(くるみ)油が上等品。胡麻(ごま)油は下。伽羅(きゃら)油は最高級品であった。しかし、庶民の間で一般的に使われたのは「五味子」(ごみし)という匂いの強い整髪料をつけていました。
五味子とは、マツブサ科の植物で、赤い実をブドウのようにつけます。酸味が非常に強く苦い。実や葉、茎を搾ると、やや「ネバネバ」した汁がでる。この汁を整髪料としてつけていた。一方、実は乾燥させて「肝臓」や「肺臓」の薬としても用いられた。
また、女が髪を洗うのは江戸の風習で上方ではあまり洗髪しなかったと言われている。洗髪に使われる、いわゆるシャンプーは、「ふのり」や「うどん粉」、「卵の白味」、「椿油の搾りかす」、「椋(むく)の木の皮を煎じた汁」などを使用したという。
女性専用として「女髪結」もいましたが、幕府は「贅沢」とみなして、度々、「禁止令」を出しています。しかし、そこは人間の考えること、「潜り」の女「髪結」もいて、もっぱら、出張専門でした。ただし、「女髪結」が唯一認められたのは、「吉原芸者」や「深川芸者」などの芸者にだけは許可をしていました。
☆女性の髪形の変遷
女性のヘアスタイルを大きくかえるきっかけとなったのは、江戸時代初期に有名になった「出雲の阿国」(いずものおくに)だと言われてています。歌舞伎の前進といわれる「お国歌舞伎」を踊り、阿国が男役を演じ、夫の名古屋山三郎が女役を演じました。この時の阿国が結った髷(まげ)を「若衆髷(わかしゅまげ)」と呼び、女性の間で大流行しました。やがて、「島田髷」などが出現し、寛永年間(1624〜1643)ころには「兵庫髷」という、頭の上で「輪」を一つ作ったような髷が流行。元禄時代(1688〜1703)ころには「元禄島田髷」。明和年間(1764〜1771)ころには、浮世絵に出てくるような「春信風島田髷」(はるのぶふうしまだまげ)。江戸後期〜明治初期には、芝居の「お染久松」でお染が結っていた「おそめ髷」などと変遷していきました。
☆風呂
江戸で火災が発生すると、一気に広範囲に焼失してしまうことから、風呂を造るには幕府への「届出」をし「許可」が必要でした。また、神田上水ができてからは水は割合自由に使えましたが、「薪」(まき)は近在の農家から購入しなれければならず、非常に高かった。従って、各家庭には風呂は造れず銭湯へ行きました。銭湯は、およそ、各町内に1軒はありました。相場は8文でしたので、蕎麦の16文の半分でした。豪商と言われ雇い人を多く使っていた「三井越後屋(現・三越)」の使用人たちでさえ、銭湯に行きました。また、商家のご隠居風情になると、朝晩の2回通う者もいたとか。
なお、女性も男性も髪を洗うのは「ご法度」で、頭を洗えたのは「座当」(ざとう=あんま)の丸坊主ぐらいのものでした。
庶民の生活