食べ物編  

食べ物

☆食通
江戸で「料理茶屋」、つまりは「料亭」と呼ぶにふさわしい茶屋が出現したのは明和年間(1764〜)で、深川洲崎の「枡屋望汰欄」(ますやぼうだらん)という料理茶屋であった。それまでは宴会場といえば、吉原に限られていた。続いて、安永年間(1772〜)から天明年間(1781〜)にかけて隆盛を極めたのが、浮世小路の「百川」(ももかわ)、佐柄木町(さえきちょう)の「山藤」(さんとう)、向島の「葛西太郎」(かさいたろう)、中州(なかす)の「四季庵」(しきあん)などが通人の間の評判となった。しかし、老中田沼意次の失脚とともに贅沢禁止令が出たため衰退をした。それでも、「食」に対する人間の欲はいかんともしがたく、文化年間(1804〜)から文政年間(1818〜)にかけて、再び流行となった。この時江戸を二分したのが日本堤山谷(さんや)の「八百善」(やおぜん)と深川八幡前の「平清」(ひらせい)。

☆八百善
開業は享保2年(1717)というから、今から290年も前のこと。一時築地に移転したというが、現在は南青山で営業中である。また、両国にある江戸東京博物館の最上階に支店があったが、2004年3月に撤退したという。10数年前、私も江戸東京博物館を見学した時に立ち寄ってみた。落ち着いた雰囲気といい、出てくる品々といい、なかなかのものであった。「ただ、味がいい」と言うだけではなく、思い入れがあったかもしれないが「コク」がある。だが、この味を守ることで300年近く続いているのであろう。しかし、少々値が張るのが庶民には届かない。

☆江戸の食い倒れ
今は「食い倒れ」と言うと大阪を指すが、文化年間(1804〜)、文政年間(1818〜)には「京の着倒れ」、「江戸の食い倒れ」と言われ、江戸は食文化の中心であった。代表的なものに「握り寿司」、「鰻の蒲焼」、「天麩羅」、「おでん」などがある。「江戸前」と言うと今は寿司を指すが、江戸時代は「鰻」を指した。隅田川や神田川、深川などで上物が獲れた。

☆すし
「すし」には「寿司」、「鮨」、「鮓」などの字をあてるが、本来は「酸し」(すし)であった。保存食であり、旨みを出すために自然発酵させたものであった。江戸の鮨も初期の頃は「熟(な)れずし」であった。現在、琵琶湖周辺で名物の「鮒(ふな)ずし」同様に、塩漬けにした魚介類を飯の上に乗せて、重しをして長時間かけて発酵させたものであった。しかし、江戸っ子の「せっかち」な性格と共に、文化年間頃からは、酢飯(すめし)の上にアナゴ、イカ、エビなどの煮付けを乗せて食べるようになった。ちなみに、コハダ、アジなどの生魚を乗せるようになったのは幕末の頃、さらにマグロを食べるようになったのは明治に入ってからである。

☆隅田川
四季を通じて風光明媚であるとともに、隅田川は江戸名物が獲れた場所でもあった。「鯉」(こい)、「鮒」(ふな)、「白魚」(しらうお)、「鰻」(うなぎ)、「鯰」(なまず)、そして「蜆」(しじみ)などである。鯉は神田上水の「紫鯉」が最上とされたが、これは将軍家専用で「お留川」(おとめがわ=禁漁川であったので庶民の口には入らなかった。それに替わって、向島や深川などの料理茶屋では隅田川の鯉を使った。また、隅田川名物の「白魚」は、佃島漁師の独占営業が許されており、漁の期間は毎日、将軍さまの食膳に出された、という誇りを持っていた。「佃煮」はここから発祥した。味噌汁にして飲めば「黄疸」(おうだん)が治るといわれた「蜆」は、業平橋(なりひらばし)付近が最上と言われた。

☆旬
せっかちな江戸っ子は「初物」(はつもの)好き。筆頭は何と言っても「初鰹」(はつがつお)。四月初旬に鎌倉から馬や船で運ばれた。しかし、目玉が飛び出るくらい高かった。文献に残るものとしては、文化9年(1812)3月25日江戸の魚河岸に着いた鰹船に乗せられていたのはわずか17本。6本は将軍家御買い上げ。3本は料理茶屋「八百善」が1本二両一分、計六両三分で入手。残り8本が魚屋が買い取ったが、その1本を歌舞伎役者の中村歌右衛門が三両で買って大部屋(下ずみ)の役者に振舞ったとか。また、鰹にかぎらず「初茄子」(はつなす)、「初胡瓜」(はつきゅうり)」、「初茸」(はつぎのこ)」などと、何でも「初物」を自慢した。だが、これが災(わざわ)いして、江戸市中の物価は高値を極め、たびたび、幕府から売り出しの期間等の通達を出したが、それがかえって、逆効果となった。

☆お菓子と果物
「おやつ」は「八ツ刻」(やつどき=午後2時)ころ食べる昼食(九ツ刻)と夕食(七ツ刻)の中間食。江戸時代から始まった。それまでは、農家などの早朝からの仕事では、朝食と昼食の間に「小昼」(こびる)というものがあった。お菓子類も京などからの「下り物」(くだりもの)が上等であったが、餅菓子、饅頭(まんじゅう)、羊羹(ようかん)、おこし、煎餅(せんべい)なども出回った。「水菓子」(みずがし)と呼ばれた果物は、マクワウリ、西瓜(すいか)、梨、林檎(りんご)、枇杷(びわ)などが売れたようだが、現代のような品種改良がなされていなかったので、それ相応の味だったようだ。

☆酒
食べ物に関しては、時代が進むにつれて江戸が中心となってきたが、「酒」だけは「下(くだ)り酒」といって、大部分が上方から船で運ばれた。特に銘酒とされたのが「伊丹」、「灘」、「池田」などであった。とりわけ「伊丹」の酒が上等とされた。当時、清酒を「諸白(もろはく)」と呼んだが、これは精米した白米を使って麹(こうじ)と蒸し米で醸造した酒。一方、「片白」(かたはく)といって白米と黒麹とで醸造された濁(にご)り酒で、ドブロクに近いものであったが、裏長屋の庶民にはこちらが安くて手ごろだった。

☆富士見酒
伊丹、灘、池田などからの酒は樽廻船(たるかいせん)に積まれて江戸へと向かう。熊野灘の荒波を乗り切って、いったん鳥羽に入り、そしていよいよ江戸へと運ばれた。航海は順風ならば五日間ぐらいであったが、酒の出荷は秋から冬であったので、海が荒れて平均二十日はかかった。ところが、この時間と荒波が思わぬ結果を生んだ。つまり、杉の樽に入れられて揉まれた酒は、江戸に着くころには吉野杉の香が酒に移り、一段と美味となったのである。そして、富士山を横に眺めつつはるばる運ばれて来たので「富士見酒」ともてはやされた。ところが、面白くないのが地元の酒の産地である。上等に作った酒が江戸に行くとさらに美味しくなってしまう。そこで考え出されたのが、酒を積んだ船をわざわざ富士山の見える辺りまで行かせて引き返させて対抗したという。

☆食い合わせ
何かと何かを一緒に食べると腹痛などを起こすというもの。この「食い合わせ」歴史をひもとくと、けっこう古く、奈良時代にあったと言われている。天皇の食膳に食禁を出した場合は三年の懲役を科すと書かれている。江戸時代も貝原益軒(かいばらえっけん)の「養生訓」(ようじょうくん)などに「同食(どうしょく)の禁忌(きんき)」として記されている。鰻(うなぎ)と梅干、天麩羅(てんぷら)と西瓜(すいか)、蕎麦(そば)と田螺(たにし)、泥鰌(どじょう)とところてん・・・などなどである。ところが、何と「昭和」に入って間もない頃、ある学者が、これらの「食い合わせ」を片っ端から試食して、中毒の恐れがないことを身をもって示したという。理論が覆(くつがえ)されたのは以外と新しいのである。


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