忍 者

☆忍者とは
起源は、聖徳太子(574〜622)の側近の大伴息人(おおとものそくじん)が記した書の中に「志能便」(しのび)がはじまりとされている。名実ともに特殊技術と認められるようになったのは、奈良朝中期に遣唐使の吉備真備(きびのまきび・695〜775)が中国からもたらした「孫子」の中にスパイ術が書かれてあり、これを源とする。
★2016年8月、思わぬところから次のような発見があった。
★601年の段・・・702年の成立といわれる「日本書紀」の中に「新羅国(しらぎ=朝鮮半島)からの間諜(かんちょう=スパイ)・・・」。と書かれてており、大伴息人はもしかしたら「間諜」を「志能便」と読み替えたのかもしれない。どちらにしても、「日本書紀」の成立年代頃には、既に、日本には、ある意味では、「国際的スパイ」が暗躍していたのであろう。
★1173年の段・・・「東大寺文書」に「黒田荘の悪党」とあり、黒田荘は伊賀国名張地方(現・三重県名張市)で東大寺の領有する荘園であった。
「悪党」というと、すぐに「悪いことをする集団」と思われがちであるが、昔の「悪党」の解釈は、「自治権を持った誰にも支配されない集団」、あるいは、「自衛権を持ち誰にも支配されたくない集団」、を意味しており、必ずしも「悪いことをする集団」とは結びつかない。まあ、強いて言えば「荘園領主に、そうやすやすと従わない」という意味から「悪党」と呼ばれたと考えた方が良いかもしれない。
そして、伊賀国に発生したことから考えるとこの荘園の者たちが「間諜集団」(志能便)のルーツであったとも考えられる。
その発生の要因の一つには、下記の「伊賀と甲賀」の項目が影響しているのかもしれない。

☆忍者の原形
修験者が体得し広めていった。貴族が信仰するような優雅な仏教文化と違い、修験者は眼に見える現世的な力を見せて、庶民仏教として受け入れられことを目指した。そこで、山中などの厳しい環境に身を置き、気合術、催眠術、医療術などを体得していった。これらの技術は日々進歩し、長く伝わっていった。

☆「陽忍」と「陰忍」
まず、「陰忍(いんにん)」は一般的に知られる、種々の「技」(わざ)を使う忍者で、源平合戦のころの「義経流」(ぎけいりゅう)に端を発している。つまり、鞍馬山中で修行した「体術」を駆使する者である。これに対して、「陽忍」(ようにん)は知能的な諜報、謀略を主としている。南北朝の「楠流」(くすのきりゅう)を受け継いだといわれている。

☆忍者の格
忍者のランクとしては、「上忍」(じょうにん)、「中忍」(ちゅうにん)、「下忍」(げにん)の3階級に分かれる。「上忍」は豪族で、主に、「陽忍」を使った。「下忍」は、もっぱら、体術を使う「陰忍」であった。「中忍」は両方を使い、「下忍」の組頭的存在であった。

☆伊賀と甲賀
どちらも、自然的条件がそなわっていた。まず、伊賀(三重県)であるが、鈴鹿山系と笠置山系に囲まれ、外界からは隔絶していた。山岳修験者が好む山あり谷ありの絶好の修行場であった。また、京にも近く、古来より戦いの進撃路でもあり、敗残兵の潜入場所にもなった。宗家の「服部家」は、その土地の豪族であった。服部家は家康に仕え江戸時代に全盛期を迎えた。「半蔵門」は服部半蔵から名前をとっている。
一方、甲賀(滋賀県)は本来の地名としては「こうか」と言うが、忍法に関してのみ「こうが」と呼ぶのが一般的である。甲賀も鈴鹿山系と信楽(しがらき)盆地とそれらを囲む丘陵地であり、甲賀衆は普段は農業や行商人に身をやつし、「上忍」はおらず、「中忍」と「下忍」だけで構成されていた。甲賀衆は、織田信長を経て豊臣秀吉に仕えて手腕を発揮した。しかし、忍者は戦陣においても他人に「忍者」とわからないよう、また、同じ忍者同士でも悟られないようにしたという。そして、雇ってくれる者があれば敵味方関係なく働いたので、いちがいに、伊賀は○○方甲賀は△△方と所属を分けることはできなかった。
その他、雑賀衆(さいかしゅう、または、さいがしゅう)、根来衆(ねごろしゅう)なども忍法を駆使して戦いで活躍した。また、一説には「柳生」も剣とともに、忍法を用いたとも言われている。

☆家康に協力した伊賀衆と甲賀衆
本来、甲賀衆も家康に尽くした。伊賀衆は、天正九年(1581)に織田信長が戦のたびに神出鬼没のゲリラ戦に業を煮やして伊賀を攻めた。女、子供にいたるまで容赦なく殺戮したという。通称、「天正伊賀の乱」である。この時、甲賀は家康の「とりなし」で信長に攻められることなく無事であった。したがって、家康には恩義を感じていた。
また、伊賀衆は天正十年(1582)の本能寺の変で信長が討たれた時、家康は信長の招きで堺遊覧の最中であったが、堺の豪商茶屋四朗次郎を同伴しており、信長の死の報せは彼の情報網ですぐさま家康の知ることとなった。そして、茶屋四朗次郎の知己であった伊賀の服部家を取り込み、さらには、彼の惜しみない伊賀衆、甲賀衆への買収工作により、家康は伊賀衆、甲賀衆の助けを受けて必死の形相で鈴鹿山中を逃げ回り、伊賀衆の手配した船で伊賀の白子浜から海路三河に逃げ帰った。
その後、慶長五年(1600)の関が原の戦いでは、甲賀衆は伏見城籠城に参戦し100人もの戦死者をだした。家康は幕府を開いてから、この甲賀衆の戦死者の子弟100人を召抱え「甲賀百人組」を結成させている。さらに、「伊賀同心」より1階級上の「与力」に任じている。伊賀も甲賀も家康を陰で支えた功績は多大なものであった。忍法的には、さほど違いはなかった。

☆陽忍の七変化
陽忍は、いわゆる、大物スパイであるので、あらゆる人物に化けた。虚無僧、山伏、出家、商人、放下師(手品師)、猿楽師(猿まわし)、常の形(普通の人)、これらの七種類の変装用具を用意していた。これを「七方出の術」(しちほうでのじゅつ)と呼んだ。もちろん、扮装だけではすぐにバレてしまうので、ふだんから物腰や教養、技術などを身につけていなければならなかった。高級忍者たるゆえんである。

☆陰忍のユニフォーム
忍び頭巾、上着、たっつけ(伊賀ばかま)、帯、忍び刀がユニフォーム。そして、携行品としては、手拭、鉤縄(かぎなわ)、石筆、薬、附竹(発火用具)を必ず身につけていた。よく、黒装束というが、黒よりも柿色が多かった。暗闇でも黒色は割合目につきやすいが、柿色は意外と見えない。さらに、血がついても目立たない。実際に柿の渋で染めたという。

☆くノ一
忍法「くノ一」は、もちろん「女」である。これは、女を敵方の奥向きへ仕えさせて情報を収集するもの。「陽忍」の高等術の一つであった。

☆特訓
忍者の家に子供が生まれると、畳の上に濡れた唐紙二枚を重ね貼りした襖を置く。親の忍者がその子の手を引きその上を歩かせる。子供は襖の端に置かれたお菓子が欲しくて「よちよち歩き」をする。当然、唐紙は破ける。それを叱りつけて唐紙を破らぬようになるまで毎日歩かせる。何千回、何万回と繰り返すうちに「足形」も残さないように歩けるようになるという。忍者が敵方へ潜入したとき、足音を殺し、足跡を残さないための特訓である。真綿からつむいだ細い糸を鼻の穴のすぐ上に貼り付ける。そよとも動かさずに呼吸をする。敵がまじかに潜むとき、息を殺すための修行である。大きな桶に水を満たし、その中に首を突っ込んで長時間耐える。これは潜水のための訓練。こうした幼少からの反復練習が驚異的な体術を生み出すのだ。伊藤銀月著「忍術極意秘伝書」の中に書かれてある。

☆忍法のその後
徳川幕府が安定してくると、戦いもなくなり、当然のことながら、戦場での「忍法」も必要なくなっていった。したがって、「陰忍」はしだいに姿を消し、「陽忍」だけが残るようになった。一説には、寛永十四年(1637)の島原の乱で「陰忍」はすべて消滅したと言われている。それ以後は、「隠密」と呼んだ。


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