大 名


☆大名行列は槍の飾鞘で見分けた
大名行列は家の格によってさまざまに異なりました。特に、道具の一つといわれる槍の飾鞘(かざりさや)は、形や虎皮、ラシャなどの材質で、その家がわかりました。つまり、先頭の槍を見ればひと目で何家の行列かがわかったというわけです。そして、大名行列で「道具」というと「槍」だけのことを指し、弓や鉄砲はそのまま弓、鉄砲といいました。また、「打物」(うちもの)というと長刀(なぎなた)のことを指しました。

☆「したに〜」「したに〜」
この掛け声を「先払い」といいました。これはもちろん先を歩く者が大声を発して「路を空けよ」ということを表しました。街道筋では通行人が道の端によけて頭(こうべ)を垂れて見送りました。しかし、江戸の街でこの「先払い」をしたのは将軍家か御三家、御三卿くらいで、他の大名は遠慮をして江戸に入ると静かに進みました。

☆大名行列はいいかげんだった?
道具、打物、挟箱、先頭警護の武士、お籠、後尻警護の武士の順で行列は進みましたが、この隊列を組み「先払い」をたのは国許の城下と領地境、宿場の発着時、そして江戸へ入る時だけで、道中では隊列をくずし、雑談をしたり、景色の良いところでは立ち止まって見物したりしました。

☆大名行列も道の端へ  
大名行列よりも格が上だったのが「御茶壷道中」。これは、毎年将軍家が飲用する新茶を京都の宇治から運ぶ行列のことで、この御茶壷道中の往復に出くわしたら、さあ大変。大名行列とすれ違ったりした時は、どんなに偉ぶっていた大名も籠から出て腰を深々と折って、敬意を表しました。

☆御三家と御三卿
将軍の相続予備軍でした。一言でいってしまえば分家、庶子家ということになります。水戸、尾張、紀州の三家を「御三家」といい徳川家の親戚であって大大名。家臣では最高の家格でした。将軍家にお世継ぎがいないときは、この御三家から選びました。これに対して、田安家、一橋家、清水家を「御三卿」と呼び、将軍家の準家族でした。したがって、領地はなく、屋敷のみで将軍家から養ってもらっていたというわけです。しかし、血縁関係としては御三卿の方が近く、万が一の時には、この御三卿も将軍職継承権を持っていました。ちなみに、徳川幕府最後の15代将軍慶喜(よしのぶ)は一橋家の出身でした。

☆その他の大名の家格
★御家門(ごかもん)・・・三河時代からの家臣。
★譜代(ふだい)・・・関ゲ原の戦いで見方についた家臣。
★外様(とざま)・・・関ゲ原の戦いで反抗したが許された家臣。しかし、幕府は外様大名でも有力者を特に譜代に取り立て、譜代大名を多くすることで、外様大名の監視役をさせました。
また、福井の越前家は秀康卿(家康の次男・将軍になる前に死亡したため、三男の秀忠が二代将軍となった)の由緒で御一門と称し、親類と家来の中間の扱いを受けました。

☆大名行列も回り道
江戸市中で大名行列同士が行き違うことはしばしばであった。この時は、お互いが籠を開けて双方が目礼をした。しかし、籠を止めることは絶対にしなかった。また、相手が御三家や格式が上位の場合は籠を降りなければならなかったので、ややっこしい、めんどうくさい。そこで、御三家などとわかると下級の大名行列は、あわてて、横道へ逃げ回った。

☆城中での大名
まず、席順から・・・。大廊下詰めが御三家、大広間詰めが国主大名、帝観の間詰めが譜代大名、その他にも雁の間、柳の間、菊の間などがあり、城持ちではなく陣屋の大名たちを振り分けました。
溜の間になると御家門という徳川家の親類筋でその中でも諮問にあずかる顧問待遇の人々であった。しかし、例外もあった。彦根の井伊家は将軍の親戚でも何でもないが、特に三河時代からの古い家臣で由緒ある家柄であったため、代々顧問待遇を受けて溜の間詰めであった。そして、役職に就けば必ず大老であった。
次に、何をしていたか・・・。老中などの役職者は日々これ忙しい毎日でしたが、大方の大名はただ出仕をするだけで何もせずにボケッとして刻を潰しました。そして、八ツ(午後二時)くらいになるとお城下がりをした。
湯茶の接待は・・・。まったくありませんでした。ただし、茶坊主という接待役がいて、御三家と大名の中でも賄賂を贈った者だけには出仕すると、こっそりと一回のみお茶を出してくれました。それ以後は、自分で湯茶場へ行き、自分で注いで飲みました。どんなに偉い大名でも、江戸城内では、ただの家来だったからしかたがありません。また、茶坊主に気に入られない(賄賂などを贈らない)大名などは、出仕しても茶坊主は知らん振りをして通り抜け、今でいうシカトされ、冷遇されていました。また、弁当を食べる時も自分でお茶を入れて飲みました。さらに、夏はともかく冬でも火鉢などは一個もなく、座布団さえありませんでした。
大名同士で世間話でも・・・。とんでもありません。大名同士が結束されては幕府転覆を狙うことも有り得るので、殿中ではいっさいの私語は禁じられていました。しかし、大名同士でも親戚もあれば親友もいました。そうした者を屋敷に呼ぶときは「別に騒動を招くような話ではない」という証に旗本に頼んで立ち会ってもらいました。

☆幕府から茶器、十徳を賜ると・・・
幕府から茶器を賜ると、これは大名に「隠居せよ」という暗黙の命令でした。今で言う「肩たたき」だったわけです。それでも気づかぬ場合は十徳(じゅっとく=茶会の時に羽織る羽織)を下賜された。これらの二点をもらうのは珍しいが、薩摩藩主の島津斎興(なりおき)は、朱衣肩衡(あけごろもかたつき)という名茶器を賜ったが、無視していたため、重ねて十徳を下賜され、やっと隠居をして斎彬(なりあきら)に家督を譲った。二点下賜されたのは斎興が最初で最後であったとか・・・。

☆隠居大名の住まいは?
隠居大名の住まいは江戸に限られていました。諸大名の正室が江戸屋敷に「人質」として、強制的に住まわされたのと同じで、一種の人質でした。歳をとるとやはり国元が恋しいものですが、許されませんでした。ただし、御三家だけは例外で国元居住を許されました。

☆大名家の男子たちは・・・
女子は他家へ嫁いで縁戚関係を深めてくれます。(どんなブスでも・・・ちょっと余計なことかも)。しかし、男子は困った。長男は嫡子として相続が決まっているので、これは大切に養育された。次男は長男にもしものことがあれば、と、こちらもまあまあ大事にされた。しかし、三男以下は他家へ養子に行くか、家来の家に養子に行くかしかなかった。分家はほとんどなかった。幕府も勢力拡大を恐れて分家の許可は出さなかった。「御あてがい」といって、少しばかりの蔵米をもらって生涯部屋住みで暮らした。しかし、大特進もあった。彦根城主で後に大老となった井伊直弼(いいなおすけ)は、実に、十四男に生まれ、三十二歳まで埋木舎(うもれぎのや)にわずか三百表で暮らしていた。しかし、幸か不幸かわからないが、兄たちが次々と死亡してしまい、彦根城主となり、ついには、大老まで上り詰めた。

☆大名の生命保険?
嗣子(しし=跡継ぎ)のいない大名が死亡してしまうと、領地没収が決まりとなっていたので、そうした大名は他家の三男、四男などに目をつけ、もちろん、相手の親の承諾を得ているが、「仮養子願」というものを幕府に提出して、参勤交代にのぞんだ。なぜならば、旅の途中で死なないとも限らないし、国元で死なないとも限らないからである。無事に江戸へ帰った場合は、幕府は「仮養子願」は無用となるので、出した時のままの密封状態で返却してくれた。万一の時は、幕府は封を開き継嗣(けいし)の手続きを取ってくれた。

☆大名家の礼儀作法
たとえ親子といえども、礼儀作法は厳格であった。大名であっても、隠退した親に対面するときは、必ず袴を着用して敷居越しに礼をして部屋に入った。また、話をするときも、せいぜい親の胸元ぐらいまでの目線で、それ以上顔を上げてはならなかった。大名だけではなく、上級武士もみな同じ作法であった。また、正室であっても、寝所ではともかく、夫の部屋へは入れず、敷居の外で言葉を交わした。時代劇「大岡越前」で、奥方が「あなた、そんなことは、おかしいですわよ。ホホホッ」などと、並んで話をするなど、もってのほか。単なるカメラアングルのためだけの所業である。

☆大名屋敷の内に農家?
大名屋敷というと、豪華な庭園などを思い浮かぶ方も多いと思いますが、大名屋敷、特に、下屋敷内には百姓が住んでいて田畑を耕していました。これは、殿様に農業の辛さ、厳しさを見てもらうためでした。こうした百姓は住所があって無いようなものでしたので、「○○守殿百姓」と呼ばれていました。

☆大名の通信手段
当時の特急便についてであるが、「早打(=特急便)」「早馬(=人が乗って走る)」が使えたのは、大名だけであった。一般の武士はどんなに上級武士であっても、飛脚便に頼るほかはなかった。有名な、浅野内匠頭の殿中傷害事件は、この「早打」「早馬」で国元の播州赤穂へ伝えられた。江戸から赤穂まで百五十五里(約620q)を五昼夜で駆けた。現代は、宅急便など、どんなに遠くても国内であれば、明日か明後日には着く。便利になったものですね。

☆大名は丸顔健康美人がお好き?
大名は、江戸幕府が開かれた当時は、京美人にあこがれ、公家の息女を正室とか側室に迎える者が多かった。しかし、公家の息女は身体が弱く、子供を産めない女性が多かった。そして、御世継ぎがいないことで改易させられた大名も数多くいた。やがて、元禄年間(1688〜)に入ると、正室はある程度格式ある家からもらい、側室としては、町娘をもらう者が多くなった。丸顔で腰がしっかりしていて、立派な子供を産んでくれそうな子女を選ぶようになった。こうして選ばれた子女が子を妊んで、女の子を産めば「御腹様」、男子なら「御部屋様」と呼ばれ、奥向きでの権勢も欲しいがままになった。親も御扶持が出て、武士にとりたてられることもあった。

☆老中、若年寄には大大名はなれなかった
老中は幕政の全般を掌握し、あわせて、諸大名に対する政策を立案した。若年寄は主に幕府直轄の政務を担当し、旗本や御家人に関する取り締まりを主務とした。大老は非常のときにのみ設置されたので、普段は、老中が最高の役職であった。それだけに、この職を任命するにあたっては、譜代大名で15万石以下に限られていた。そこには、大大名は経済力があるうえに権力まで握られては謀反が起きないとも限らないという理由があったからだ。これは、家康以来かたく守られ、多年の功績があっても、大身の者を任命することは絶対になかった。

☆大名が怖がった大目付と目付
大目付は老中支配下で、目付は若年寄支配下。それぞれ大名や旗本を監視する役目であった。大目付は常時4〜5人。目付は24人が定員であった。武士の「非道」を見つけるのが役目なので、常に、情報網を張っていた。何かあると、それぞれの上司に報告すると、ただちに処分が言い渡されたので、大名も旗本も怖がった。ときには、自分たちの同僚や親でさえ訴えて、切腹に追いやった例があるという。

☆播磨守を名乗る大名がが7人もいた?
武士の官名については、家康が「公武諸法度」の中で「武家の補佐は当官の外たるべし」と定めた。つまり、「武家の官位は名義だけのもの」といっている。したがって、美濃守が伊勢の大名であったり、伊勢守が豊前の大名であったりした。播磨守などは7人もいたという。これは、上等な国なので栄誉のために与えたものである。江戸時代中期になると、3000石以上の大名が「守」名乗りができ、希望の国名を上申しておけばたいがいの場合許された。ただ、朝廷の官位とは何の関係もなかった。

☆テレビの中の大嘘
「したに〜」「したに〜」とやってきた大名に宿の玄関に「○○守△△様御宿」などと書かれているのは「もってのほか」である。現代の旅館で「××会社御一行様」という景気づけを真似たもので、江戸時代の大名行列はあくまで行軍だったので、看板を立てるとすれば戦場になぞらえて「本陣」「脇本陣」であった。さらに、テレビなどでは、好色大名が宿に着くと芸者を揚げて・・・なんてえのは、目も当てられない。芸者が許されたのは江戸、京都、大阪の三大都市だけで、街道筋の田舎に芸者はいない。いるとすれば「飯盛り女」であるが、こんな安物は大名は銭を出して買わなかった。また、戦時の行軍ととらえられていたので、女は禁物であった。現代ではよく「大名旅行だ」とか「殿様気分」などというが、それは、大名行列では飲料水から料理材料、料理道具一式、風呂桶、殿様専用の便器まで持ち歩いた。つまりは、すべてに行き届いていることを指すものをなぞらえていることである。大名行列は不意な出来事があるときは、野宿もしたので、常に、戦場の心構えで行軍にのぞんだ。そして、宿に宿泊しても、宿の料理人ではなく、供をしてきた料理人が食事を作って差し上げた。

☆参勤交代
慶長7年(1602)、加賀の前田利長が人質として江戸で暮らしていた母芳春院を訪ねて江戸へ出てきて、将軍家へ「挨拶」をしたのが始まりでした。しかし、当時は「統制」がきかず、大名も「我先に」と競ったため、3代将軍家光が寛永12年(1635)に「武家諸法度」19ケ条を定め、その第2条に「参勤交代」の制度を明確にしました。

☆参勤交代の時期
「夏四月中」と書かれてあり、現代の「太陽暦」に直すと、おおよそ5月で、入梅以前に参勤するように定めてあります。その後、西国の譜代大名は2月、関東と東海の譜代大名は9月、外様大名は4月、というように時期をずらせました。これに、譜代大名をして外様大名を監視させていたからです。

☆参勤交代は一斉におこなわれたの?
いえいえ、隣接する藩が相談して、隔年に行われました。例えば、「豊前」と「豊後」の藩主たちを見ると、
中津、杵築、府内・・・の3藩が譜代大名。
日出(ひじ)、臼杵、佐伯、岡、森・・・の5藩が外様大名。
子、寅、辰、午、申、戌年には中津奥平氏、杵築松平氏、臼杵稲葉氏、佐伯毛利氏が江戸へ。
丑、卯、巳、未、酉、亥年には府内松平氏、日出木下氏、岡中川氏、森久留島氏が江戸へ。
このように、交代で参勤しています。これを「御在所交代(ございしょこうたい)」と呼び、全ての大名が江戸へ集結することはありませんでした。

☆他家の領地を通る
江戸に隣接した大名はともかくとして、ほとんどの大名は他家(他藩)の領内を通るわけですが、「前触れ」と称して、使いをたてて「何日ころ通過します」と「礼」をつくし、通行される藩でも、橋の修繕や道路の整備をして、お互いが気を遣いました。しかし、友人だからとか親戚だからと言って、藩主同士が会うことは許されませんでした。これには、藩主同士が結託して幕府転覆などを話し合われては困る、という意味がありました。

☆大名行列は行軍
参勤交代のための「大名行列」は、事前に「道中奉行」が任命されて、行列よりも先回りして、宿の手配などをしました。そして、大名が泊まる宿を「本陣」と呼び、家来たちの泊まる宿を「脇本陣」とよびました。また、宿に入るにも規則があり、夜五ツ(午後8時)までに到着できなければ宿側も断ることができ、そういう時には「野宿」をしました。もっとも、大名行列は行軍とみなされていましたので、陣幕はもちろん、料理の材料、鍋、釜、風呂桶、そして、殿様用の便器などなどを全て持って行きました。さらに、宿に宿泊しても、宿の料理人が食事を作るのではなく、宿の台所を借りて、家来の「御膳掛り」が食事を作りました。

☆大名行列の出発時刻は早朝だった
♪お江戸日本橋七ツ立ち・・・という歌がありますが、実は、大名行列の出発時刻を指したものでした。朝七ツ(午前四時)に出立をし、陽のあるうちに行程の距離をのばしました。そして、日没とともに予約してあった宿に入りました。江戸から遠い大名などは、さらに、八ツ(午前二時)〜八ツ半(午前三時)ころ出立をしました。しかし、この夜立ちには幕府の許可を必要としました。なお、泊まりも夜五ツ(午後八時)までに宿へ入ることが定められていました。この刻限を過ぎると、宿も断ることができ、一行は野宿というハメになったのです。

☆通行中のトラブル
11代将軍家斉の頃、明石藩松平斉宣(なりのぶ=家斉の第53子!!)が、御三家筆頭の尾張藩を通行中に猟師の源内という者の子ども(3歳)が行列を横切ってしまった。家臣がその子を捕まえて本陣まで連れて行った。ただちに、名主や坊主、神主までもが本陣へ行き「許し」を乞うたが、斉宣は聞き入れず、その子を切り捨てにしてしまいました。尾張藩はこれをおおいに怒り、使者を遣わし「このような非道をするようであるなら、今より当家の領内を通らないでもらいたい」と伝えました。斉宣は、行軍を取りやめるわけにもいかず、まるで、町人か農民のようにコソコソと尾張領内をぬけました。さらに、数年後、猟師の源内は、斉宣が20歳になったのを期に、木曽路で得意の鉄砲で斉宣を射殺してしまいました。もちろん、源内は死罪となりましたが、子どもの恨みを晴らした、というわけです。

☆大名たちの御城での席
大廊下「上之部屋」・・・御三家
大廊下「下之部屋」・・・松平加賀守、松平越前守
「黒書院溜之間」・・・・・井伊掃部守、松平肥後守、松平讃岐守、(以上3人は「常溜(じょうたまり)」と称されました。)
               松平隠岐守、松平下総守、酒井雅楽頭、松平越中守(この人たちは一代限りでした。また、老中などになるとこの部屋詰となった。)
「大広間」・・・・・・・・・・・四品〜権中将
「帝鑑間」・・・・・・・・・・・五位〜侍従
「柳間」・・・・・・・・・・・・・五位の外様大名
「雁間」・・・・・・・・・・・・・城主格以上の譜代(詰衆と呼ばれた。)
「菊間縁側」・・・・・・・・・三万石以下の無城譜代
なお、彦根の井伊家は将軍家の親戚でも何でもなかったが、特に、三河時代以来の古い家臣で由緒ある家柄であったため、代々「顧問待遇」を受けて「黒書院溜之間詰」であった。そして、役職に就けば必ず「掃部頭(かもんのかみ)」を名乗り「大老」であった。
詳しくは、大名の詰め所をご覧ください。

☆大名たちの役割
「大廊下詰」は別格として、最高の格式をもっていたのは「黒書院溜之間詰」でした。職務としては、5〜7日に一度登城して「白書院」で公方さまのご機嫌伺いをし、同じく「黒書院溜之間詰」の老中たちに挨拶をしました。
老中が政治上の諸問題を公方さまに上申する時は「白書院」で拝謁しました。また、逆に、公方さまが老中や黒書院溜之間詰大名を呼んで、問題を提議するのも「白書院」でした。このようなことから、黒書院溜之間詰の大名は老中格としての権威を持っていました。
また、毎月朔日(さくじつ=1日)の月次御礼(つきなみおんれい=公方さまのご機嫌伺い)は、「大廊下詰」と「黒書院溜之間詰」大名は「黒書院」で、その他は「白書院」で行われました。

☆大広間の広さ
上段之間・・・34畳
中段之間・・・34畳
下段之間・・・44畳
二之間・・・・・52.5畳
三之間・・・・・70畳
四之間・・・・・70〜80畳
「大広間詰」の大名はどこに座ったのか・・・
格式が良くて、二之間・・・およそ3〜4人
三之間・・・5〜10人
四之間・・・15〜20人
そして、座る場所は「厳格」に決められていました。
これほど広い場所でしたので、上段之間で公方さまが朝廷の使者などと話をしていても、ほとんど聞こえませんでした。ただの「立会人」のようなものでした。

☆裃(かみしも)と袴(はかま)
裃がピンと張っているのは、糊付けだけでは限界がありましたので、「鯨の髭」(ひげ)を芯にして縫い上げてありました。
元禄年間(1688〜)頃からは、片側の張り出しが1尺(約30p)が通例となりました。これを「一文字型」と言いましたが、江戸時代後期には、肩の線を丸くすることが流行し「蛤型」(はまぐりがた)または「鴎型」(かもめがた)と呼ばれました。
忠臣蔵などでお馴染みの引きずるバージョンは「長袴」(ながばかま)と呼びました。
当時の殿中での大名たちの「正装」(礼装)でした。殿中では、決して走ってはならず、刀を抜くことは切腹に値する「重罪」。謀反や刃傷沙汰を防ぐために「殿中差し」と呼ばれる短い刀を差し、長袴を着用しました。これには、「戦意」のないことを表す意味もあった。
しかし、この長袴のおかげで、殿中では、自分の袴につまずいたり、他人の袴を踏んでしまったり、と苦労が絶えなかった。
生地は「結城法度」によると、肩衣は「麻」を用いよとする規定が見られることから、戦国時代には、すでに「木綿」による贅沢な仕立てもあったようだ。江戸時代に入ると、生地の高級化はさらに進み、上士は「龍紋(りゅうもん=絹織物の一種)」を用いることが一般的となった。また、宝暦年間((1751〜)には「小紋」の裃が流行し、千代田城内へ登城した大名が自国の小紋の精巧さを競う風潮も生まれた。

☆裃と長袴の紋
「紋」の位置は、直垂(ひたたれ)と同じく「背中」「両乳」「腰板(腰の部分)」「合引」(あいびき=袖の部分)が本来の姿であったが、江戸時代も中期になると、「合引」は略されるようになっていった。また、「色」についても身分差が設けられた。大紋・長袴の写真と解説
「大紋、長袴」は「礼服」でしたので、通常の登城では短い「袴」でも良かった。さらに、着用できるのも「国持ち大名で1万石以上」などに限られていました。
そして、「礼式日」や「勅旨(ちょくし=朝廷からの使い)」などをお迎えした「特別な日」だけ着用しました。
しかし、老中や側用人、若年寄などの御用繁多の人たちは、長袴で「ゆったり」と歩いていては仕事になりませんので、特別に、普通の袴で登城しました。

☆礼式日
「元旦」
元旦・・・・これは、もちろん正月1日
「五節句」
人日(じんじつ)・・・正月7日(七草粥の日)
上巳(じょうし)・・・・3月3日(雛祭り)
端午(たんご)・・・・5月5日(端午の節句)
七夕(たなばた)・・7月7日(七夕)
重陽(ちょうよう)・・9月9日(菊の節句)
「八朔」
八朔(はっさく)・・・8月1日(この日は、家康が初めて江戸へ入府した日で、元旦にならぶ重要な日)
以上の「礼式日」には、江戸在中の大名のすべてが登城しました。

☆大名の登城は、どこまで馬や駕籠で行けたか
格式により、「大手門」と「内桜田門」(桔梗門)の2箇所に分かれていました。それぞれの門の手前の橋には「下馬所」の立て札があり、基本的には、ここで下馬または駕籠から降りました。ただし、格式の高い大名や老齢で幕府の許可を受けた大名は、その先の「下乗橋」の手前にある「下乗所」まで駕籠に乗ったまま入ることができました。加賀の前田家だけは、「下乗所」でも、一番「下乗橋」の近くが確保されていました。御三家はさらに進んで「中雀門」(ちゅうじゃくもん)まで駕籠を乗り入れました。千代田城「下馬所」絵図

☆お供の人数
格式により、ある程度の決まりがありました。ただし、正確に記した史料は乏しいのですが、一例として、伊予(現・四国の愛媛県)吉田三万石の伊達家(宇和島伊達家の分家)の記録によると、文化13年(1816)閏(うるう)8月15日に当主の宗翰(むねとも)の登城では、当時は伊達家も経費節減を強いられ「倹約中」でしたが、士分8人、徒(かち=徒目付を含む)6人、道具持ちおよび小者53人、計67人、とあります。ここから推測すると、十万石前後では50〜100人位だったと考えられます。
おもしろいところでは、広島藩主浅野長勲(ながこと、または、茂勲もちこと、とも呼ばれた。かの有名な赤穂浅野家の本家)の逸話では、浅野家の上屋敷(現・霞ケ関付近)を出た先頭が「下乗所」に到着したが、最後尾はやつと上屋敷を出たくらいだった、そして、行列を「切り」と称して1〜2箇所隙間を開けてやり、町人たちが通れるよう配慮した、と言われています。

☆お供の人々
「下馬所」または「下乗所」までお供として来た人々は、領主が下城する刻限(およそ八ツ=午後2時頃)までは、どんなに雨や雪が降ろうと、その場で待機させられました。ただし、ござを引くことは許されましたので、横になって昼寝をする者、唄を歌って時間稼ぎをする者、チンチロリンなどをする者、また、蕎麦屋などの屋台も出ていましたので、そうしたところで、時間潰しをしました。

☆大名は毎日登城していた?
上記に記した「礼式日」には、江戸在中の大名が全て登城しました。しかし、「大広間詰」や「帝鑑之間詰」「柳之間詰」の大名は「表大名」と呼ばれ「礼式日」だけしか登城しませんでした。御三家は「礼式日」と自分が用のある時だけ。それ以外の大名は2〜3日おきに登城しました。

☆大名の玄関
格式により決まりがありました。
御玄関・・・・正式な玄関で、「表大名」と「溜之間詰大名」。
中之口・・・・奏者番、寺社奉行などの役職者。また、役職ではないが「半役人」とされる「雁之間詰大名」「菊之間縁側詰大名」。
御納戸口(別名・老中口)・・・老中、所司代、大阪城代、若年寄りなど。
御風呂屋口・・・御三家とその家老、中奥役職者。
大名が玄関を入ると300人ともいわれる「表坊主衆」がお出迎えをし、坊主たちと懇意にしている大名を、それぞれの部屋まで案内をした。
殿中は、複雑な間取りとなっており、一人では自分の詰め所まで行けなかった。

☆部屋を間違えてしまいました
明暦3年(1657)、旗本であった八王子千人頭の石坂勘兵衛正俊が殿中を迷い、違う部屋へ足を踏み入れてしまった。「まいるまじき席に入り越度(おちど)」と処罰され、千人頭の職は一代限りとされ、さらに、「躑躅之間」(つつじのま)から「御納戸前廊下詰」に降格させられた。

☆忠臣蔵
赤穂城主浅野内匠頭長矩(ながのり)は、元禄14年(1701)に「勅旨饗応役」を仰せつかりました。しかし、高家肝煎(公家の儀式に精通している)吉良上野介義央(よしひさ)から、公家の仕来りを十分に教えてもらえなかつた遺恨から、殿中「松之廊下」で刃傷沙汰を起こしてしまいました。
午(うま)の下刻(午後1時頃)、奏者番の田村右京太夫(陸奥一関藩主)の芝愛宕下にあった屋敷にお預けが決まり、田村は急いで自分の屋敷に戻ると、桧川源五・牟岐平右衛門・原田源四郎・菅治左衛門ら一関藩藩士75名を長矩身柄受け取りのために江戸城へ派遣した。未の下刻(午後3時頃)、一関藩士らによって網駕籠に乗せられた長矩は、不浄門とされた平川口門より江戸城を出ると芝愛宕下(現・東京都港区新橋4丁目)にある田村邸へと送られ、即日、「切腹」を申し渡された。
その仇討ちとして、元禄15年(1702)12月14日夜(正確には、15日午前4時頃)に、赤穂藩で筆頭家老であった大石内蔵助ら47名が本所松坂町の吉良邸へ討ち入りをした。
表門に内蔵助以下23名、裏門には大石主税(ちから)以下24名が配置され、内蔵助は玄関脇に竹竿に結びつけた「浅野内匠頭家来口上」(一般的に「討ち入り口上書」と呼ばれるもの)を打ち立てて討ち入りが開始された。
吉良邸の騒動を聞きつけた隣家の土屋主税は、すぐさまその騒ぎが「赤穂浪士の吉良邸への討ち入り」と判断をし、塀越しに高張提灯を何本も立てて明りの援護をしたとも言われている。
事実、騒動が全て終了した時には、原惣右衛門と小野寺十内を土屋邸に挨拶に行かせている。
大石らは、見事、吉良の首を取り、その後は、一旦は吉良邸のすぐ近くにあった回向院へ休息と保護を求めたが、回向院側では幕府からのお咎めを恐れて拒否をした。
なぜ、寺へ保護を求めたのか?それは、幕府の組織体制の盲点にある。
通常、人殺しなどの罪を犯すと「町奉行所」の管轄となり犯人を捕捉し裁判となる。しかし、寺院内などに犯人が逃げ込んだ場合では「寺社奉行」の管轄となり、「寺社奉行」は僧侶や神官などの犯罪を取り締まることはできても僧侶や神官以外を捕捉する権限はなかったのである。では、そのような時の対処法は、と言うと、町奉行所が寺社奉行所を通じて犯人の捕捉、あるいは、引き渡しを要求し、寺社奉行所の判断で捕捉をし、町奉行所へ引き渡しを行ったのです。
大石らは元は武士であっても浪人は町民などと同じ「一般人」。従って、大石らは町奉行所が出動しない前に寺社で保護をしてもらい時間稼ぎを行ったとも考えられます。
回向院の保護を拒否された大石らは、止む無くただちに、亡主君内匠頭の眠る泉岳寺へ向かうことと決断を下しました。
しかし、吉良邸〜泉岳寺までの距離はおよそ10q。所要時間は約3時間。
まあ、この間になぜ「町奉行所」は出動しなかったのか。・・・これには、諸説があるようですので、その解説等については機会があったら述べることとしたいと思います。
大石は、すぐさま47名の中から寺坂吉右衛門に「密命」を託し離脱させました。寺坂は内匠頭の妻・瑤泉院と弟・大学(長広)、そして、広島の本家への報告に向かった、と言われています。
また、寺坂吉右衛門はただ一人赤穂藩士ではなく、藩士の吉田忠左衛門の家来でした。
(なお、寺坂は赤穂藩の足軽であった。と力説される方々も多いようですが、「足軽」であればれっきとした「武士」に当たります。しかし、この文中の後半にも書きましたが、寺坂は後に山内豊清に召し抱えられてから、はじっめて「士籍」を得ましたので、赤穂藩じきじきの「足軽」ではなかった。従って「武士」ではなかった。と言うのが、私の持論です。)
さらに、泉岳寺への途中、吉田忠左衛門兼亮(かねすけ)と富森助右衛門正因(まさより)に、吉良邸の玄関脇に打ち立てた「浅野内匠頭家来口上」を持たせて、大目付仙石伯耆守久尚(せんごく ほうきのかみ ひさなお)へ「自首」の届け出をさせました。
なお、大目付は大名の取り締まり役、目付は旗本、御家人などの取り締まり役でした。
この大目付への届け出により町奉行所は一切手が出せなくなったのです。
つまりは、大石は亡主君浅野内匠頭に代わっての仇討であると、あくまでも大名であった内匠頭を立てると同時に吉良上野介という大名を殺したということを理由としたのです。
大石らは無事泉岳寺に到着をし、亡主君の墓前に吉良の首を捧げて、皆涙したといわれている。
その後、44人は泉岳寺で茶を振る舞われて休息する中、仙石伯耆守はただちに「浅野内匠頭家来口上」を持って登城をし老中へ届け出た。
(浅野内匠頭家来口上)
「去年三月内匠儀、伝奏御馳走の儀に付、吉良上野介殿へ意趣を含み罷在り候処御殿中に於て当座遁れ難き儀御座候か刃傷に及び候。時節場所を弁えざる働き無調法至極に付切腹仰せ付けられ、領地赤穂城召上げられ候儀、家来共迄畏入存じ奉り上使の御下知を請け城地差上げ家中早速離散仕り候。右喧嘩の節御同席御抑留の御方これ有り上野殿打留め申さず内匠末期残念の心底家来共忍び難き仕合に御座候。高家歴々へ対し家来共鬱憤を挟み候段、憚り存じ奉り候へども君父の讎(あだ)は共に天を戴ざるの儀黙視難く今日上野介殿御宅へ推参仕り候。偏に亡主の意趣を継ぎ候志迄に御座候。私共死後もし御見分の御方で御座候はば御披見願い奉り度く斯くの如くに御座候。以上 元禄十五年十二月十四日 浅野内匠頭家来」
と書かれ、47士の名が連なっていた。
時の5代将軍綱吉は、内蔵助らがしたためた「浅野内匠頭家来口上」を読み、「忠義である」と褒め讃えました。しかし、側用人であった柳沢吉保は「忠義だけで政(まつりごと)をしたのでは、世情の統制がきかなくなる」と反対をした。
そこで、綱吉は、急遽、幕府学問所である湯島聖堂の大学頭(だいがくのかみ)林信篤と柳沢お抱え学者の荻生徂徠(おぎゅうそらい)を呼び、それぞれが「賛成」「反対」の意見を述べた。
綱吉は、結果的に、二人の折衷案として、内蔵助らを大名と同じように「細川家」「松平家」「毛利家」「水野家」へお預けとし、翌年2月3日、幕府より「切腹」の命。4日夕刻より各家において全員が切腹をした。
ここで、重要なのは、内蔵助ら46名を浪人でありながら「武士」と認め、武士の死に方として、最も名誉ある「切腹」という道を歩ませたことである。
なお、密命を受けて本隊を離脱した寺坂吉右衛門は、全ての事後処理を終えてから、大目付仙石伯耆守に自首したが、身分が軽かったため、「お咎め」はなく、逆に、金子10両を与えられ解放された。
さらに、寺坂については、仙石伯耆守から「勝手次第」との言葉が町奉行所に伝えられたため、その後も捕捉をされることはなかった。
その後、寺坂は吉田忠左衛門兼亮の娘婿の伊藤治興に奉公し、伊豆大島に遠島に処された兼亮の遺児吉田兼直にも忠義を尽くしている。遠島の際の見送り、赦免後の出迎え、伊藤家までの護送、すべて寺坂が行っている。
やがて、江戸に出てきて曹渓寺の寺男となったが、間もなく曹渓寺の口利きで土佐藩山内家の分家麻布山内家・山内豊清に仕え「士籍」を得、83歳の天寿をまっとうした。
また、綱吉が死去すると、浅野大学長広は「旗本寄合」に復活し、500石+浅野本家より300石を受けることとなった。
そして、46名の子息で15歳未満の者は15歳になると、八丈島や三宅島への「遠島」であったが、すべて「恩赦」。島流しにあっていた者も「恩赦」ですべてが江戸に帰っている。


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