江戸の街

☆交通事情
家康は城下町建設にあたって、京都にならい幅四丈(12m)の縦横の道路によって、碁盤の目状の町づくりをした。しかし、現代のように舗装はされておらず、下水もなかったので、雨の日には泥んこ、晴れが続けば埃でひどいものだった。下町は大半が埋立地であったから川や堀が多く、物資の輸送にはもっぱら水路にたよっていた。各地からの品々は、いったんは河岸(かし)へ陸揚げされてから、倉庫などに移された。また、人も駕籠よりも猪牙船(ちょきぶね=船の先が尖っていて、やや狭いが速度が出た)の方が安くて早かったので人気があった。吉原や深川へ遊びに行くときは猪牙船で行くのが通(つう)だった。

☆駕籠と荷車さまざま
江戸市中では、町人は馬に乗ることは禁じられていたので、歩かずに移動するには「駕籠」しかなかった。駕籠にも二種類あって、「辻駕籠」は、商家の軒下や宿場の木戸などにたむろしている、いわゆる「流し」。「宿駕籠」は、店を構えていて格が上だった。荷物の運搬には、牛車(うしぐるま)や大八車(だいはちぐるま)、天秤棒などにたよった。しかし、幕府は道路の幅をとるという軍事上の理由から、牛車と大八車は登録制であった。天秤棒を担いで手と腰で調子をとって荷を運ぶ者を「棒手振(ぼてふり)」と呼んだ。

☆水道とゴミ処理
江戸でも井戸水はあったが、非常に水質が悪く、また、なかなか井戸を掘り当てることができなかったため、家康は入国と同時に「水問題」に着手した。神田川の水を小石川で分流させてできたのが「神田上水」。しかし、まだまだ西南地域の住民にはいきわたらず、赤坂溜池の水を飲んでいた。やがて、玉川上水ができて、これを何ヶ所かに分流することで、やっと、江戸の「水道網」が完成した。当時の水道は土中に埋めた木の樋(とい)に水を流し、ところどころに溜(ため)があって、そこから汲み上げる方法だった。ゴミ処理は、意外と簡単だった。それは、本所、深川あたりの湿地帯を埋め立てるために、そこへ集積した。現代の「夢の島」である。

☆糞尿の売買
野菜づくりでは、肥料のよしあしが作物の出来を左右した。江戸時代は当然人間の排泄物が「下肥」(しもごえ)として使われた。江戸っ子の排泄物は、食べ物に贅沢だったため、品質が良く。高値で取り引きされた。近郷の農家は大名屋敷や長屋の管理者と契約して、年間にたくわん漬何樽とかで取り引きした。汲み取り業者が氾濫すれば、糞尿の値段も上がり、ひいては、野菜の値段も高くなったため、ついには、町奉行所で下肥の値段を決めたりした。

☆市街のようす
道路標識や町名標識などは一切なかった。また、武家も町屋も表札などは出していなかったので、切絵図(=地図)が売れた。ただし、武家と町人の家は一目でわかった。武家はそれぞれ垣根や塀をめぐらしていたし、町屋は建物がひしめきあっていた。町屋は道路に面して隙間なく建物が細長く奥へつながっていた。隙間なく長方形の長屋が連なっていたので、火事になれば町ごと焼けた。町内には必ず木戸があり、夜四ツ(午後10時)には閉められた。夜の市街は、町屋では「木戸番」または「自身番」が警護にあたり、武家地は「辻番」が警戒にあたった。街灯などは、もちろんなく。江戸の夜は、ひっそりと眠っていた。

☆迷子
これには江戸の町民も困った。人出の多い江戸町内では、いったん迷子になると両親と再会するのは難しかった。現代のように警察(町奉行所)が探してくれるわけでもなく、そこで、子供には住所、氏名を書いた「迷子札」を身につけさせていた。八代将軍吉宗のとき、芝口(しばぐち=新橋)に「掛札場」ができて、迷子や行き倒れなどの身元不明者についての掲示が七日間張り出され、それなりの効果をあげた。その後、民間の篤志家(とくしか)によって「迷子石」が二本建てられ、一本は「たずねる方」、もう一本は「おしゆる方」で、必要な側に張り紙をして吉報を待った。

☆日本橋
家康が江戸城を築いたときに最初にできた町人の街が日本橋である。東海道や中山道、奥州街道等のすべての道路元標(どうろげんぴょう)はここに始まる。西国方面から船できた荷は日本橋周辺で陸揚げされて市内に出回った。また、橋の北側には魚河岸があり、一日中やかましかった。吉原(元吉原)も近かったので、この周辺で一日に千両が動いたという。経済が盛んな地域でもあった。
   日本橋界隈絵図

☆神田
生粋(きっすい)の江戸っ子にいわせれば、江戸の下町は京橋、日本橋界隈と神田だけだという。平将門(たいらのまさかど)を祀った神田明神の氏子の街だから、勇み肌で威勢がよい。「べらんめえ」調のせっかちな江戸っ子弁は神田から始まったといわれている。家康は商業の街日本橋に次いで職人の街「神田」を造った。鍛冶屋、紺屋、材木屋、旅籠(はたご)などをまとめたので、仲間意識の強い地域社会が生まれた。
   神田界隈絵図

☆上野
外神田の北に続く市街地が下谷(したや)。当初は寛永寺の門前町として上野の山の下の広い地域だった。寛永寺門前の広小路も当時は下谷広小路と称していた。しかし、下谷はやがて上野の一区画として整備され、幕末近くになって、上野広小路の方が通り名となった。寛永寺黒門の西には不忍池(しのばずのいけ)があり、四季を通じての行楽地であった。
   上野界隈絵図

☆浅草
浅草の代表といえば、もちろん「浅草寺」(せんそうじ)。奈良時代からの古刹(こさつ)である。浅草寺境内は見世物小屋や水茶屋が建ち並び「奥山」(おくやま)と呼ばれ賑わった。曲独楽(きょくごま)の松井源水や講談の志道軒(しどうけん)などが有名になった。浅草寺の裏手は「新吉原」があり、こちらも盛況だった。
   浅草・新吉原界隈絵図

☆深川
家康が入府したころは、遠浅の海で小島が点在していた地域。その後、市中のゴミや火災のあとの焼土などで埋め立てた。この新興地を一躍有名にしたのが「深川芸者」またの呼び方を、江戸の東南に位置していたことから、辰巳(たつみ)の方角から「辰巳芸者」とも呼ばれた。女は普段着ることのない羽織を着ていて、男装の麗人だった。だから、名前も「亀吉」とか「ぽん太」などと名乗った。羽織芸者は人気を呼び一時は吉原をおびやかすほどの盛況振りだったが、天保の改革で幕切れとなった。
   深川界隈絵図

☆山の手
下町に対する言葉であるが、麹町、四谷、牛込、赤坂、小石川、本郷など江戸の高台にある地域を指した。ほとんどが、大名屋敷、旗本屋敷、寺社地で占められていた。ちなみに、現在の東京大学の赤門は、加賀百万石前田家の屋敷に建っていたものである。
   本郷界隈絵図 

☆品川
東海道第一の規模を誇る宿場品川は、江戸の南の遊び場所であった。遊郭もあれば潮干狩りなどの行楽地でもあった。遊郭では「遊女」とは言わず「飯盛女」として、旅籠(はたご=宿)に公の許可を得た女たちを置いていた。盛時では定数500人いたという。東海道を旅して来て江戸へ入る前に、ここに一泊して旅の「垢」(あか)」を落とす者も多かった。「飯盛にゃあよすぎ傾城(けいせい=吉原の遊女)には不足」とも言われた。


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