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商売いろいろ

☆盆暮勘定(ぼんくれかんじょう)
江戸は消費専門の大都市。商店も商人も大小さまざまであった。扱う商品も多種多様であった。そして、商人と顧客が信頼関係で結ばれており、取り引きはおおむね盆と暮れの二回の清算であった。大きな商店としては呉服屋が多く、土蔵を前後左右に配し、屋根を瓦(かわら)で葺き、間口二十間とか三十間というものまであった。また、屋台なども発展し、鮨(すし)、天麩羅(てんぷら)、蕎麦(そば)などが人気だった。

☆呉服屋
江戸は文化面では京都に遅れていたので、「下り物」(くだりもの)と言われて、京や大阪からの生地が上等といわれていた。上方商人は争って江戸に支店を出した。これを「江戸店(えどだな)」といって、伊勢、近江、京都などに本店を置くものが多かった。この呉服屋を代表するのが、延宝(えんぽう)元年(1673)に伊勢から駿河町に支店を出した三井越後屋。その名を略したのが現代の「三越」である。当時としてはめずらしい「現金掛値なし」の商法で大当たりをした。

☆番頭はんと丁稚どん
上方商人が出した「江戸店」(えどだな)では、支配人、番頭、手代、丁稚(でっち)のすべてが男であった。女っ気は「通い」でくる賄(まかない)の女ぐらいのものであった。また、こうした店の男衆も江戸者は一人としていなかった。すべて、本店が身元確かな地元出身者を江戸へ派遣したからである。したがって、言葉もお国訛りでまかりとおった。十代前半で採用されると、住み込みで基本を仕込まれ、江戸へ派遣された奉公人は2〜3年後に、ようやく「在所登り(ざいしょのぼり)」といって親元を訪ねることを許された。番頭になると妻帯が許されるが、相手は郷里の女に限られていた。そして、妻を連れて江戸へ行くことは禁止されていたので、年に一度一ヶ月ほどの休暇をもらって、妻の元へ戻れた。つまりは、単身赴任だったのである。しかし、三十代後半まで勤めると、暖簾分けをしてもらったり、多額の退職金が出た。そして、郷里に戻って妻と余生を安楽に暮らせたので、昼夜を問わず一生懸命働いた。

☆食通
天下泰平の世が続くにつれて、人々の楽しみは「食」へと広がっていった。蕎麦(そば)、鮨(すし)、鰻の蒲焼も流行するようになった。料理茶屋の中でも深川洲崎の「升屋」(ますや)は、食通で知られる蜀山人(しょくさんじん)の書によれば「総門ひらけて別荘のごとく、玄関の体、黄檗(おうばく=黄檗宗という寺院)に似たり、建て続ける金殿玉楼、金張つけに朱塗りの欄干・・・」とあり、隠居した大名や大藩の留守居役、あるいは大店の商人などという上客筋であった。しかし、田沼時代が終わると、「升屋」もその終焉を迎えた。

☆湯屋
江戸で入浴といえば、銭湯(湯屋)へいくこととかぎられていた。町人の家はもちろんのこと商家でも風呂を持っていなかった。江戸一番の呉服屋三井越後屋(現・三越)でさえ自前の風呂はなく、皆、銭湯へ行った。旅籠でも銭湯に行かせたほどだった。それは、江戸の街で掘り抜き井戸を掘るのにも大金がいったし、薪も近在の農家からの仕入れで高かった。そして、何よりも、火災の心配があった。江戸はたびたびの大火災に見舞われたので、銭湯も幕府の許可制であった。寛政の改革までは混浴が当たり前であった。柘榴口(ざくろぐち)という腰を屈めて潜る板で洗い場と湯船が区切られていた。これは、湯がさめにくくする工夫であった。また二階建てが多く、二階は休憩所で社交場であった。

☆居酒屋と蕎麦屋
居酒屋は、もともと「煮売屋」(にうりや)の兼業から始まった。つまり、煮魚や芋の煮ころがしなどで飯も食わせれば酒も飲ませた。しかし、酒は江戸では作れず、もっぱら、上方から仕入れたので値段も高かった。一種の贅沢品であったが、やはり、人気があった。酒屋でも簡単な肴で飲ませたという。蕎麦は江戸で名物の一つにあげられるが、庶民は行商のかつぎ屋台で立ったりしゃがんだりして食べるのが普通だった。「二八蕎麦」という言葉があるが、つなぎが二割で蕎麦粉が八割、という意味と、2×8=16文(もん)で食べさせた、という二つの解釈がある。江戸の庶民の食事は行商でおおむね賄われた、と言っても過言ではない。

☆縄のれんの大衆食堂
これができたのは「炊き出し」といって、「見附」と呼ばれた街道の分岐点などに置かれた見張り所に詰めている諸大名の家来たちへ、食事を運んだ店や江戸の藩邸に詰める独身武士に弁当を届けたりした店が、街中で表口に「縄のれん」を下げて、店で酒や食事ができるようにしたのが始まり。空になった醤油樽を土間に並べ、その上に板を渡して、それに腰掛けて飲食をした。寛政年間(1789〜)ころから盛んになったという。ただし、一杯酒を売る店は30年前(宝暦年間)頃にはすでにあったといわれている。

☆行商人あれこれ
「初午(はつうま)の太鼓売り」・・・どこの町内にもあったお稲荷さんのお祭りが初午。子供たちが叩きまわる太鼓を売り歩いた。口上はいわず太鼓を鳴らしながら歩いた。
「菖蒲刀売り」・・・五月五日の男の子の端午(たんご)の節句に、床の間に飾る太くてそりのある木刀を「菖蒲刀」といった。
「金魚売り」・・・中級以上の町人に愛玩された。金魚といっしょにメダカを売る者もいて「メダカ〜、金魚ゥ〜」と売り歩いた。
「虫売り」・・・秋の風物詩であった。虫の鳴き声が看板がわり。蟋蟀(こおろぎ)が一番手ごろで安かった。
「ところてん売り」・・・夏限定商品。と言っても、春先から売り歩いた。水鉄砲式の突き道具も当時からあった。
「鰹(かつお)売り」・・・生きのいいところでは、鎌倉から毎朝仕入れ、1〜2本を天秤棒の前桶に入れ、後ろの桶にはまな板、包丁を入れて担ぎ、注文があると、その場でさばいてくれた。もっとも、鎌倉仕入れの鰹は高く、武士か大店しか買えなかった。
「飴(あめ)細工売り」・・・水飴を丸めてヨシの先につけて、息を吹き込んで丸くしたものを色々な形に仕上げて売った。現代にも受け継がれている。
「水売り」・・・江戸では井戸はほとんどなく、上水道であったが、水を売り歩く商売があった。砂糖入りの水もあったとか。現代のミネラルウオーターの元祖みたいなもの。
「小間物屋」・・・櫛、簪(かんざし)、紅、白粉(おしろい)などを売り歩いたが、女性相手なので、噂話を面白おかしく話しながら客を引き付けた。また、淫具もこっそりと売っていた者もいた。
「古紙回収屋」・・・再生紙は「浅草紙」として、トイレット・ペーパーに。
「らう屋」・・・煙管の修理屋。
「傘の古骨買い」・・・再び、油紙を張り替えて売った。
「焼き接ぎ屋」・・・・・割れた茶碗を「ふのり」と「粘土」を混ぜた「天然の接着剤」を塗り炭火で焼いて、元の形にする。
「たが屋」・・・・・・・・桶のゆるんだ「タガ」を締めなおす。
「下駄の歯入れ屋」・・・磨り減った下駄の歯の入れ替え。
「古鉄買い」・・・・・・火事などで焼けた家から「クギ」を買い集めた。
「灰買い」・・・・・・・・火事などでの焼け跡の灰を買い取った。天然のアルカリ成分で、畑の土の再生に利用された。

☆長屋の近くに店を出す
「端切れ屋」・・・・・・・・さまざまな布地の端切れを売った。庶民のおかみさん連中が集まりやすいよう、なるべく、長屋の近くに店を出した。
「古着屋」・・・・・・・・・・武家や金持ちの商人から古着を買い取り、やはり、長屋近くに店を出した。

☆着物のリサイクル
旦那の着古し→子どもの着物に仕立て直し→おしめ→雑巾

☆廃材のリサイクル
「ふすま」や「障子」、「戸」などは、すべてが同じ寸法であったので、簡単に取替えができた。また、「柱」の種類も何種類かだけだったので、古い建材ですぐ家が建てられた。

☆職人
「宵越しの銭は持たねえ」と言うのが江戸職人の誇り。そう啖呵(たんか)を切っても十分生活できた。江戸は消費専門。それに、火事も多かったので、火事になるたびに一から出直し。だから、仕事は増える一方だった。職人には自宅で作業する「居職」(いしょく)と仕事先へ出向く「出職」(でしょく)とがあった。仕事も多かったが職人の数も多く、仕事はきつくて生活は貧しかった。「大工殺すにゃ刃物は要らぬ。雨の十日も降ればよい」。

☆百姓
「士農工商」の身分制度の中では、武士に次いで高い身分とされたが、実際とは大きくかけ離れていた。市街地は日本橋を中心として半径一里余り(4〜5q)程度。その近郊はすべて農村地帯。野菜は鮮度が重要視されたので、農家はこぞって野菜作りをした。米よりも早く成長し、早く出荷できて、回転が速かった。また、武家や大店などの庭を飾る植木なども発展した。

☆漁師
江戸はもともと海を埋め立てた場所。江戸湾で獲れる魚介類は豊富だった。隅田川河口の佃島(つくだじま)は、家康が漁業育成のため摂津から呼び寄せた漁師たちがつくった町である。佃煮はここが名産となった。また、海苔の養殖も盛んになり「浅草海苔」が生まれた。

☆僧侶・神官
何かにつけて神仏頼みの世の中。「坊主」(ぼうず)とは一坊の主(あるじ)を指す「坊主」(ぼうしゅ)からきている。坊主は殺生をしない、だから魚介類は食べない、と言われたが、浅草報恩寺の正月十六日の開山式典には「鯉」が供えられた。神社は古来からの日本伝統の宗教文化。寺を建てる時も「地鎮祭」を行った。神仏合体であった。坊主と同じく「神主」(かんぬし)と呼ばれた。

☆医者・座頭
医者は現代のように「試験」とか「免許」はなく、誰でもが自由になれた。もちろん西洋医学ではなく薬草をもちいた漢方医。中にはいかがわしい医者も多かった。大名などにお抱えの「御典医」(ごてんい)と「町医者」に分かれていた。「御典医」には「法印」(ほういん)、「法眼」(ほうげん)、「法橋」(ほうきょう)などという位があった。また、町医者でも駕籠に乗って診察に来る「乗物医者」は診察代も漢方薬も高かった。しかし、それなりの経験と人望がなければ高給取りにはなれなかった。そこへいくと、歩いて来る「徒医者」(かちいしゃ)は庶民にもほどほどのお代だった。また、医者にかかるほどでもないと思えば、自ら灸(きゅう)などで直した。「つぼ」さえ心得れば自宅でできた。それでもと言う時は鍼(はり)に頼った。鍼はやや高等技術であったので「座頭」(ざとう)」頼むこととなった。座頭は剃髪した盲人で按摩(あんま)や鍼治療を専門とした。しかし、江戸時代は障害者を優遇したので、座頭はのちに「座頭金」(ざとうがね)といって高利貸しを公認された。座頭にも位があり「検校」(けんこう)、「別当」、「勾当」(こうとう)、「座当」などがあったが、のちには、銭次第で官位は買えた。

☆女の職業
「男が外で働き、女は家を守る」ことが不文律。しかし、「性」を売る商売は女ならではの仕事。江戸は極端に男が多くて女が少ない街。八代将軍吉宗の頃から「人口調査」なるものが行われ始めたが、町方だけで50〜60万人といわれている。武士は軍事上の機密から公表はされていない。そして、町方の男女の比率は男2に対して女1という、極端に女の少ない都市だった。だから、一生「独り身」で過ごした男も多かった。そこで、吉原などは大盛況であった。その他には、音曲、生け花などは自宅で開業できた女の仕事の一つ。また、商家への住み込みの女中や料理屋の仲居、お城や大名屋敷に勤める奥女中などもいた。

☆囲われ者
江戸時代は、妾(めかけ)を囲っても、誰も非難する者はいなかった。むしろ、羨ましがられた。将軍や大名に側室がいたから、当然といえば当然のこと。悋気(りんき=やきもち)をやいたのは本妻くらいなもの。妻帯を許されない僧侶も浄財を使い込みして女を囲ったほどだった。いつの世にも悪女もいて、「小便組」という女がいた。大名屋敷などに妾奉公にあがると言って、多額の支度金を取り、何としてでも「殿」の「お手付き」になる。しかし、しばらくして、枕を一緒にしながら床で小便をする。と、もちろん解雇される。だが、この時またしても「手切金」なるものをせしめる。そして、また他の大名などに目をつけて同じことをして優雅に暮らした女もいたという。

☆口入れ屋
口入れ屋は俗に「けいあん」とも呼ばれた。これは、寛文年間に「大和慶安」と名乗る者が金品をもらって婚姻の仲人をつとめたのが始まりといわれているからである。のちに、仕事の斡旋に替わっていった。幕府お抱えの小普請組はお城の修理役。しかし、自分では出ないで中間(ちゅうげん)、小者といった使用人を出した。だが、このお城の修理はいつくるかわからない。まったくないことも多かった。そんなために常時、中間、小者を雇っているのでは、貧乏もいいところ。そこで、口入れ屋では「寄子(よりこ)」といって若い者を抱えていて、小普請組の武家から依頼があったときに用立てたりした。また、結婚の斡旋もしたという。現代の「ハローワーク」と「出会い系サイト」を兼ねそなえたようなもの。

☆紀文(きぶん)
紀伊国屋文左衛門(通称・紀文)(寛文9年1669?〜享保19年1734、4月24日)は紀州湯浅(現:和歌山県有田郡湯浅町)の貧農の家に生まれました。やがて、18〜19歳頃、そんな貧しさに見切りをつけて江戸へ出てきた紀文は、職を転々とするうちに、商人の娘「綾野」と知り合い、綾野の紹介で「松木屋」で働くようになりました。やがて、二人は恋に落ちましたが、使用人と商家の娘。主人が許すはずもなかったのですが、可愛い綾野の説得で、主人は紀文に、「1,000両貸してやる。1年間で倍の2,000両にできたら、娘をくれてやる。もし、それができないなら、一生涯この店でただ働きをしてもらう」と、条件を出しました。そこで、紀文は、江戸の庶民に何が欠けているかを真剣に情報収集をし、紀州では「二束三文」の「密柑(=みかん)」が江戸では結構な値段で売られていることに目をつけ、紀州で密柑を買い付け船で江戸へ運び、みごと、1年後には2,000両にを手にしました。そして、紀文が困った時、側面からアイディアを出して「賢妻」と呼ばれた綾野とめでたく夫婦になりました。
その後は、紀州からは密柑を運ばせ、帰りの船には、紀州では中々手に入らない「塩鮭」を積み込んで、江戸でも儲け、紀州でも儲けるようになり、「富」を築きました。やがて、江戸の八丁堀に邸宅を構え、当時権勢を欲しいがままにしていた側用人の柳沢吉保や勘定奉行萩原重秀、老中の阿部正武らに「賄賂」を贈り、密柑で得た富で、今度は、材木商にも手を出し、上野寛永寺根本中堂の造営工事を一手に引き受け莫大な巨利を得て、幕府御用達商人の「鑑札(許可書)」も手にいれました。こうして得た「銭」で、船頭や水主(かこ=船の乗組員)たちをねぎらうため、10,000両を持って吉原へ行き、実に20日余りも「豪遊」し、船頭や水主から逆に、「早く紀州へ帰りたい」と、言い出す者さえいた、と、言われています。従って、紀文でさえ「賄賂攻勢」で、さらに「富」を手に入れようとしています。しかし、「悪」の部分だけではなく、紀文は、吉原の水利の悪さを知ると、自らの銭で「井戸」を掘らせて吉原の人々に喜ばれました。また、永代橋も元禄11年(1698)に私財を投じて架けています。

☆奈良茂(ならも)
奈良屋茂左衛門(通称・奈良茂)は、姓は神田。4代目勝豊が知られ、勝豊を初代とする数え方もある。奈良屋は寛永年間(1624〜1644)以降、代々江戸深川霊岸島(れいがんじま)に住んだ。『江戸真砂六十帖』に拠れば、初代勝儀、2代目勝実、3代目豊勝までの茂左衛門は、裏店住いの車夫ないしは小揚人足などをして言われるが、4代目が大成した後の由緒書きで誇張が含まれるとも指摘される。
4代目勝豊(寛文2年1662?〜正徳4年(1714)6月13日は2代目茂左衛門の子。幼名は茂松、あるいは兵助。号は安休。材木問屋の宇野屋に奉公し、『江戸真砂六十帖』に拠れば28歳で独立。材木商として明暦の大火(明暦3年1657、1月18日〜20日)や日光東照宮の改築、将軍綱吉の寺社造営などを契機に御用商人となり、一代で急成長したという。
この4代目が、日光東照宮の修繕の入札でとてつもない「安値」で落札。しかし、当時は、材木商の老舗・柏木屋伝右衛門が用材を買占め状態であった。奈良茂は、安い値段で用材の檜を売ってくれるよう申し入れたが、柏木屋は、当然、断った。そこで、奈良茂は幕府に「柏木屋が日光東照宮の修復用材を買い占めてしまい、一本も売ってくれない」と訴えでた。幕府はただちに、柏木屋に対して、用材を売るよう指示をしたが、その値段は、あまりにも高い値段であった。そこで、奈良茂は、再び、柏木屋の材木の数量を内偵し、「こんなに隠し持っている」と幕府に告発をした。幕府はその数量に驚き、柏木屋は「遠島」の罪となり、奈良茂は、まんまと一銭も払うことなく柏木屋の用材すべてを貰い受けることができ財をなした。

☆紀文と奈良茂の対決
年代は不明だが、奈良茂が吉原の妓楼の一軒を「総買い」(貸切)で雪見酒を楽しんでいた。寒いにもかかわらず、2階の障子窓を開けて道路や屋根に降りしきる雪を見ながら、妓楼の遊女たちをはべらかして酒宴を開いていた。
ちょうど、真向かいの妓楼に紀文も一軒を「総買い」して2階でドンチャン騒ぎをしていた。たまたま、障子窓を開けたところ、奈良茂と、バッタリ目が合った。
紀文は、一旦、窓を閉めると、真向かいの奈良茂に文を書いた。「えらい騒ぎじゃが、何を楽しんでいる」と、使いの者に届けさせた。奈良茂からは「おぬしのように、ただ騒ぐだけではない。わしは降りしきる雪を見ながら酒を呑んでいる。良き風情じゃ。風流のないおぬしとは銭の遣い方が違う」と返事が返ってきた。
しばらくすると、紀文の妓楼の窓が開き、紀文は奈良茂に軽く会釈をし、突然、300両という大金を道路にばら撒いた。当然のことながら、見世の者や通行人が小判を拾らおうと殺到し、道路の雪は、またたくまにグチャグチヤになった。紀文は真向かいの奈良茂にニコリと笑い、障子窓を閉めた。
この紀文の行動で、奈良茂は、折角の「雪見酒」が台無しになったとか。


商売いろいろ