娯 楽
☆芝居の語源
観客が芝生に座って見物したのが語源。当時は、相撲も曲芸なども同じく芝に座って見た。火災の際の火除け地を「広小路」といい、ここに簡単な小屋掛けなどをした。なぜならば、将軍が「お鷹狩り」などをして通行する時は、すべて取り除かなければならなかったからである。そして、縄を張って区画を決め、料金を取って芝居などを見せた。後に、この区画のことを「桝」(ます)と呼ぶようになり、大相撲の「桝席」はここからきている。また、終演のことを「芝居がハネる」と言うが、入り口にコモを垂らしてあり、芝居が終わるとこのコモを跳ね上げてお客を送り出しことからきていると言われる。
☆江戸で最初の芝居小屋
公認の常設芝居小屋ができたのは、中村勘三郎座が最初である。勘三郎家は代々踊りを伝え、宮中や江戸城で猿若能を演じたりして好評を得た。よって、寛永元年(1624)日本橋の堺町(さかいちょう)に常設の小屋を建てることを許された。
☆江戸三座
中村座のほかに、公認の常設小屋を許されたのが葺屋町(ふきやちょう)にあった市村座と木挽町(こびきちょう)にあった森田座である。これを「江戸三座」と称し、天保十二年(1841)に猿若町へ同時に移され「猿若三座」とも呼ばれ、明治の初めまで盛況だった。また、山村座もあったが、「絵島・生島(えじま・いくしま)事件」を起こし取り潰しとなった。
☆絵島・生島事件
絵島は大奥で御台様(みだいさま=将軍の正室)に次ぐ600石取りの大年寄で大奥のいわば最高権力者であったが、正徳四年(1714)一月に増上寺での参詣の帰りに、当時評判だった山村座へ入り、ひととおり芝居を観たあと、二枚目役者の生島新五郎に惚れ込んで派手な豪遊をしたのを咎められたもの。絵島は三月に信州高遠に幽閉された。ときに、32歳であった。生島は三宅島に流され、山村座は廃絶となった。
☆屋号の起こり
役者のことを「河原者(かわらもの)」と呼んだ。「河原者」とは元来浮浪者を指していた。浮浪者は雨露をしのぐため橋の下などに粗末な小屋を造って暮らした。役者も京の橋の袂(たもと)などで小屋掛けをして芸を見せたことから「河原者」と呼ばれるようになった。幕府成立間もない頃、「河原者」は「浮浪者」か「一般市民」かでもめた時期があったが、幕府は「芸」をする役者は「一般市民」と位置づけた。一般市民であるということは、町屋に住むことができたからである。しかし、町屋に住んで「役者」だけで食べていけたかというと「江戸三座」ならともかく、とてもとても食べていけるものではなかった。また、町屋に住む条件としては何らかの職を手にしていなければならなかった。そこで、表向きだけ菓子屋とか油屋などをしたが、もっぱら、他人任せだった。しかし、店には屋号があった。「播磨屋!」「成駒屋!」などの威勢のいい掛け声は、この店の屋号を得意げに叫んだものだった。
☆歌舞伎と幽霊
幽霊には足がない。だが、編者(私)自身も見たことがないから本当かどうかはわからない。歌舞伎でも幽霊の出てくる演目はあるが、初めのころは、ちゃんと?二本足で歩いていた。しかし、文化年間(1804〜1817)に尾上松緑が「ひとだまは尾を引いて飛んでいる」と聞き、自分なりに工夫を凝らし、衣装の裾から足を見せないようにして、さらに、着物の裾を引きずって公演してから、「幽霊には足がない」が定着したという。
☆歌舞伎の始まり
慶長8年(1603)が定説になっています。
元亀3年(1572)頃に出雲に生まれた、「阿国」(おくに)が出雲大社の巫女となり、出雲大社の勧進(神社の修繕費などの資金集め)にまわるようになり、
記録としては、
(1)奈良興福寺・多聞院の院主、多聞院英俊の日記「多聞院日記」の天正10年(1582)の項に、「加賀国八歳十一歳の童が『ややこ踊り』を披露した」と、書かれており、この解釈として
@加賀という八歳の娘とクニ(阿国?)という十一歳の子どもが踊った。と言う解釈と、
Aただ単に、加賀国の八歳と十一歳の子ども二人が踊った。と言う二つの解釈があります。
(2)その後、慶長5年(1600)に、京都近衛殿の屋敷や御所で雲州(うんしゅう=出雲)の「クニ」と「菊」という二人の女性が、やはり、「ややこ踊り」を披露した。と、近衛時慶(ときよし)の日記「時慶卿記」に出てきています。
(3)しかし、これらの史料では、いずれも「ややこ踊り」をした。と、記載されており、「ややこ踊り」とは、幼い子どもが、ただ単に笛と太鼓に合わせて「舞」を披露するだけのものでした。
(4)慶長8年(1603)5月初旬に、京都の四条河原に小屋掛け(数本のクイを地面に打ちつけ、筵(むしろ)を掛けただけの粗末な小屋)をして、茶屋へ通う伊達男を「阿国」が男装をし、夫(夫ではない、と言う説もある)の名古屋山三郎(なごや
さんざぶろう)が茶屋の女将に女装をして、踊りを交えた寸劇を演じ、この男女の入れ替わった「性倒錯」が評判となり、連日、「大入り満員」だったといわれ、これを当時の京都の人は「傾く」(かぶく=常識から外れている、突拍子もないこと)と呼び、これが「かぶく」、「かぶき」と変化をし、後に「歌舞伎」の漢字が当てはめられました。
(5)阿国は、慶長12年(1607)に千代田城(江戸城)で勧進歌舞伎を披露しましたが、その後の消息は途絶えてしまいました。ただ、慶長17年(1612)に京都の御所でも歌舞伎を踊ったとも言われていますが、阿国だったのかどうか・・・。従って、没年は不明です。
(6)阿国が京都四条河原で披露した踊りの時に結ったと言われる髪型を「若衆髷」(わかしゅまげ)と呼ばれ、京都や大阪、そして、江戸までにも流行したといわれています。
☆相撲のはじまり
相撲そのものは古代からあったが、見物料を取って見せるようになったのは、神社仏閣の修理や再建などをするための勧進相撲が初めである。やがて、相撲は本来の寺社の勧進とは関係なく、それでいて、寺社の境内で行われるようになった。だから、相撲は町奉行所の管轄ではなく寺社奉行所の管轄であった。また、現代は「仕切り」を繰り返すことにより、力士の闘志を燃やすよう工夫されたが、初めの頃は「仕切り」などはなく、立ったまま睨み合った末、呼吸が合えば相手にぶつかっていった。興行の場所としては、初め深川八幡神社をはじめ各所で開催されていたが、寛政年間(1789〜)からは両国の回向院(えこういん)の境内で行われた。当時は、勧進相撲で神聖なものと考えられていたので、見物できるのは男に限られていた。現代でも相撲といえば両国である。
☆力士は両刀を差した
大名が武勇を誇るため「御前試合(ごぜんしあい=殿様の前で披露する剣術試合)」なども行ったが、強い者への憧れがやがて「抱力士」へと発展していった。そうなると力士は武士になった気分で紋付袴姿で大小の刀を腰に差し、中間や小者までを従えて出歩く者も多くなった。そのかわり、土俵の上ではスポンサーの大名の威信を掛けていたので、命がけで取り組みをした。ときには、土俵以外でもトラブルを起こした者もいた。
☆盲人対女の相撲
相撲は神聖でもっぱら男がやるもの、と決め込んでいたが、明和六年(1769)の春、浅草寺の御開帳(ごかいちょう=仏像の一般公開)で盲人対女の相撲を披露して好評を博した。これまでにも、女だけの女相撲や盲人同士の盲相撲などはあったが、女と盲人の取り組みは初めてであった。だが、天明年間(1781〜)に入って、「風俗良ろしからず」として禁止されることとなった。
☆田沼邸の女相撲
田沼意次(たぬまおきつぐ)といえば「享保の改革」や「賄賂政治」で有名だが、その子の田沼意知(たぬまおきとも)は築地に屋敷を構えていた。しかし、夜な夜な邸内から黄色い女の笑い声が聞こえたという。笑いの原因は、意知がもようした「お座敷相撲」であった。大広間にビロウドの蒲団を敷きつめ、縮緬(ちりめん)細工の土俵の上で、女中たちを裸にして「取りまわし」と言って、褌(ふんどし)にミニの前垂れをつけたようなものをしめさせて、「はっけよい」とお色気いっぱいに相撲をとらせた。ちなみに、勝者へは当時としては貴重品の縮緬(ちりめん)一反を与えたという。
☆横綱
寛政年間(1789〜)に最も活躍したのが、谷風梶之助と小野川喜三郎、雷電為右衛門の三人である。谷風は仙台生まれで伊達侯のお抱え力士で東大関。27年間に70場所の取り組みをし負けは20回。小野川は大津生まれ、久留米藩有馬侯お抱えの力士で西方大関。谷風と対戦した。雷電は信州大石村生まれで松江藩松平侯のお抱え力士。寛政三年(1792)西関脇付けだしでデビューして同七年西大関に昇進した。21年間に32場所をつとめ254勝10敗で、古今東西ナンバーワンの強さを誇った。なお、横綱は本来いなかった。ただし、将軍家の上覧相撲の際に東西の代表として、谷風と小野川が横綱(しめなわ)を着けて土俵入りのときに四股(しこ)を踏んで雰囲気を盛り上げた。だから、当時は「大関」が最高位だった。
☆花火
花火はもとは、隅田川へ納涼船で川の上に涼みに出た人が、花火売りから買ってあげさせた個人の遊びだった。また、将軍家や隅田川に沿った屋敷を持っていた大名も遊びと軍事演習の「狼煙」(のろし)を兼ねたようなものを打ち上げて楽しんだ。やがて、船宿や料理屋が銭を出し合って、客寄せのために特製の大きなものへと替わっていった。しかし、一瞬の華麗さにもかかわらず多額の費用がかかったことと火災予防の観点から花火は水辺にかぎり認められた。また、花火というと「鍵屋」(かぎや)と「玉屋」が江戸花火の双璧で、両者は競って新種をこしらえた。川岸で見物している客からは「鍵屋!」、「玉屋!」と歓声があがった。だが、玉屋は失火を起こし追放となり、家名も断絶した。それでも今でも「鍵屋!」、「玉屋!」の掛け声はかわらない。
☆見世物いろいろ
江戸時代も中期に入ると泰平の世が続き、庶民は娯楽に興じるようになっていった。両国や浅草、上野といった「広小路(=火災の際の火除け地)」を利用して見世物小屋が建ち並んだ。軽業(かるわざ)や曲芸、奇術、舞踏、武術などを見せる鍛錬した肉体で見せる小屋。畸人(きじん=足が三本あるような人)や珍獣、動物、植物を見せる、現代の動物園や植物園のような小屋。からくりや籠細工(かございく)などの精巧な細工物や機械仕掛けを見せる小屋。などに人気があった。
☆賭けごと
世の中が泰平になり、消費生活が盛況になると、一攫千金をねらう者も増えてきた。幕府は当初「賭博行為」一切を禁止してきたが、幕府の財政が逼迫してくると、寺社への寄進もままならなくなってきた。そこで享保年間(1716〜)末期に「富札」(とみふだ)の販売を公認した。たちまち人気が上昇し、江戸の三大富札、通称、「三富」(さんとみ)は谷中感応寺、湯島天神、目黒不動の三ヶ所が有名となった。このほか22ヶ所で興行された という。富札の値段は場所によって違ってはいたが、三富では1枚が金一分であった。発売数は1000枚。一の富(一等)が金100両だった。しかし、もめごとも多かったので、老中水野忠邦が「天保の改革」(1841〜1843)」を実行するにあたり、富札は禁止された。だが、ひそかに行った寺社も少なくなかった。また、庶民の一般的な賭けごととしては、サイコロ賭博が闇でひそかに行われた。
娯 楽