町奉行と刑罰
☆町奉行所の歴史
町奉行は、古くは室町時代まで遡ると言われています。また、「徳川実記」などでは、三河で松平氏を名乗っていた頃から、すでに、町奉行の職務が定められていました。しかし、当時は、在所の決まりはなく、町奉行を任命された者が自宅に「お白洲」を作って奉行所としていました。江戸幕府が開幕されても、家康、秀忠のじだいまでは、その形式が続いていました。
しかし、3代将軍家光になって、寛永8年(1631)に、加賀爪民部少輔忠澄を北町奉行に、堀民部少輔直之を南町奉行に任命し、北は常盤橋門内に南は呉服橋門内に、正式に奉行所を造ったのが始まりとされています。そして、与力50騎(北25騎、南25騎)、同心120人(北60人、南60人)を配しました。
☆町奉行は一人四役?
大岡越前守や遠山の金さんでおなじみの町奉行とは一体どんな役目だったのだろうか。町奉行は旗本から選ばれ、役人の花形であった。仕事は江戸の司法、警察、交通行政、民政の全般にわたった。また、四宿(板橋宿、内藤新宿、品川宿、千住掃部宿)を管理する役目も持っていたので、現在の「東京都知事」、「地方裁判所長」、「警視総監」、「東京駅長」を兼務していたようなものである。
☆大岡越前守が有名になったわけ
享保十六年(1731)、無宿の伝兵衛という者が火付けの罪で、江戸市中引き回しのうえ火焙(あぶ)りの刑を火付盗賊改から言い渡された。しかし、越前守の部下である手付同心が「伝兵衛にはアリバイがある」という噂を聞き、越前守に上申した。そこで、密かに、越前守は証拠集めを指示し、吟味のやりなおしをして無罪を言い渡した。当時は、1審制度だったので、再審まで断行し無罪を言い渡した越前守は、当然、庶民から人気の的となった。
☆町奉行の管轄
町奉行の管轄は、町地だけに限られていた。つまり、町人だけが対象であった。江戸の街には武家地、寺社地、町地の区別があり、武家地とは大名の上屋敷、下屋敷、(また中屋敷を持っていた大名もいた)、旗本の屋敷などを指し、この地に犯人が逃げ込んだときや神社仏閣地へ逃げ込んだときには、町奉行所はいっさい手が出せなかった。武家地に逃げ込んだときは、目付に犯人の引き渡しを申し入れた。また、神社仏閣へ逃げ込んだときは、寺社奉行に申し入れをして犯人を捕捉してもらった。
☆町奉行所の管轄範囲の変遷
(1)慶長8年(1603)、千代田城二里四方。内神田、日本橋、浜町、麹町、常盤橋など計300町の町割りが完了。この範囲を町奉行所の管轄区域とした。この地域を「古町」と呼んだ。(なお、江戸時代、「江戸城」とは呼ばず、正式には「舞鶴城」(ぶかくじょう)、または、「千代田城」と呼び、庶民はただ単に「お城」と呼んでいました。
(2)明暦3年(1657)1月18日〜20日におよんだ「明暦の大火」の後、曲輪(くるわ=お城を中心とした一定の地域。「廓」とも書く)内の寺院を江戸郊外に移転させるなどの大規模な都市改造がおこなわれる。郊外として挙げられたのは、深川、浅草、駒込、目黒で、ここまでを「江戸」と呼ぶこととする。さらに、数年を経て、「江戸」と呼ばれる範囲は五里四方にまで拡大し、本所、小石川、小日向、牛込、四谷、赤坂、麻布、芝が加えられた。しかし、これらの地域は「府外(ふがい)」と呼ばれ、いわゆる、「郊外」であった。「府内」は依然として「古町」の範囲だけであった。
(3)万治元年(1660)、当時は、東の大川(隅田川)より東は「下総国」と呼ばれており、江戸と下総の両方の国にまたがる、と言うことで命名された「両国橋」が完成。同時に、両国橋より東も「武蔵国」に編入され、江戸の市街地に加えられた。
(4)寛文2年(1662)、南は高輪、北は坂本(浅草)、東は今戸橋までを関東郡代から「警察権」のみ町奉行所へ移譲する。しかし、定町廻り同心の範囲は、依然として二里四方の「墨線」の範囲だけであった。新しく委譲された地域は、まだまだ開発がされておらず、田畑が多かったため、犯罪も少なかったので、町奉行所が常時取り締まる必要がなかった。しかし、この年より初めて町奉行所の管轄範囲が広がった。
(5)寛文5年(1665)、品川(東海道)、千住(日光街道)、板橋(中山道)、高井戸(甲州街道)の四宿内を「江戸内」と呼び、庶民の旅人が駕籠での乗り入れを禁止した。(街道筋では認められていた)。なお、駕籠の乗り入れ禁止令はたびたび出されたが守られず、享保11年(1726)には禁止令は解除された。
(6)明和2年(1765)、御番所(庶民は「町奉行所」とは呼ばず、通常は「御番所」と呼んでいた)での判決の一つである「江戸所払い」の刑では、品川、板橋、千住、本所、深川、四谷大木戸から追放することと決まる。従って、この範囲までが町奉行所の管轄となった。しかし、内藤新宿は、御城から近いにもかかわらず、管轄外だった。
(7)寛政3年(1791)、東は常盤橋門、西は半蔵門、南は桜田門、北は神田橋門の江戸曲輪(くるわ=廓とも書く)内四里四方を「御府内」と定める。旗本や御家人が「御府内」を出る時には「届出」が必要であったために決めたが、東北東とか西北西などの東西南北以外は、依然、あいまいだった。
(8)文政元年(1818)、目付牧野助左右衛門より「御府内外境筋之儀」というお伺い書が老中に出されたのを契機に、勘定奉行や評定所等で打ち合わせが繰り返され、同年12月に東は中川、西は神田上水、南は目黒、北は荒川や石神井川下流を結んで、老中が初めて絵図面に「朱線」を引き、老中としての見解を明確にした。この朱線を「御朱印図」または「朱引図」と呼んだ。従って、この範囲までの「警察権」が町奉行所の管轄となる。だが、同時に町奉行所の定町廻り同心の管轄範囲としては、二里四方に「墨線」が引かれており、定町廻り同心は、この範囲だけを廻っていれば良かった。つまり、犯罪が起きた時だけ、朱線内であれば出張った。しかし、御城近辺は町割り図がはっきりしているものの、それ以外は「田」とか「畑」とおおざっぱであったため、実際に「ここまで」とか「これ以外」という区別はつきにくかった。さらに、「定町廻り同心の範囲と朱引図の絵図で、目黒不動尊の辺りでは、朱引の外に墨線が引かれるという矛盾もあった。
なお、旗本や御家人を取り締まるのは「目付」、大名を取り締まるのは「大目付」の役目でした。
☆奉行所が三つ?
すでに多くの方がご存知の通り、江戸には南北二つの奉行所があった。通常は奉行所のことを「御番所」と言った。南は現在の数寄屋橋内、北は呉服橋内であった。しかし、元禄十五年(1702)に中町奉行所が東京駅八重洲口付近にできた。しかし、この中町奉行所は17年後の享保四年(1719)に北町奉行所に合併させられた。南北二つの奉行所は一ヶ月交代で門を開けて訴えを受け付けた。非番になると大門を閉じていたが、仕事をしなかったわけではない。前月のやり残しの事件処理にあたった。また、両奉行所同士で「内寄会(うちよりあい)」という連絡事項の回覧や相談書を交わしていたが、細部までは協定がされておらず、訴人は有利な扱いをしてくれる御番所へ、その月番を待って願い出ることもあったという。
☆役高(やくだか)
ずばり、役職手当である。町奉行は3000石の役高であった。かりに、500石の旗本が就任すると、不足分の2500石を足してくれた。しかし、3000石の者が就任すると、何も足してはくれなかった。これを「足高」(たしだか)と言った。
☆与力、同心の数
両奉行所にはそれぞれ25騎の与力と120人の同心が配属されていた。そして、与力は南北合わせて50人が一万石の知行地をもらい、200石づつ分けた。そのほかには、諸大名からの付け届けがあった。これは、その藩に属する者が問題を起こしたとき「よろしく頼む」という賄賂の性格があったが、中期以降は公然と奉行所内で受け取るようになっていった。また、馬上で指揮をしたので「騎」と数えるようになった。200石といえばれっきとした「旗本」であったが、罪人を捕らえる手の汚れたという意味で「不浄役人」と呼ばれ、登城もかなわなかった。同心は三十表二人扶持の御家人であった。ちなみに、同心を数える時は「人」。
☆南北奉行所・・・どっちが偉い?
南町奉行所の方がやや格が上だったのである。遠山の金さんでおなじみの遠山左衛門尉景元は、天保11年(1840)、はじめ北町奉行に任命されたが、数々の手柄をたてたため、上役(老中)の引き立てもあり、嘉永年間(1846〜)に南町奉行に「出世」した。しかし、役高はどちらも3000石だった。
☆八丁堀の七不思議
与力はいずれも京橋の八丁堀に屋敷を与えられていた。しかし、俗には「横町代官屋敷」とか「どぶ棚代官屋敷」と呼んだ。そして、不思議の一つに「奥様ありて殿様なし」というものがある。これは、与力は旗本なので通常ならば「殿様」と呼ばれるのだが、不浄役人であったため、「旦那様」と呼ばれていた。しかし、妻には関係がなかったので「奥様」と呼ばれた。ちなみに、同心の妻は「御内儀」(おないぎ)と呼ばれ、「奥様」とは呼んではいけない。二つ目は「女湯の刀架け」である。男湯には、当然、刀掛けがあったが、八丁堀の銭湯には女湯にも刀掛けがあった。これは、与力や同心が朝の混み合った男湯をさけて、ガラ空きの女湯に入ったためである。御用繁多を理由にした特権であった。
☆定町廻り同心の範囲
次のサイトの「墨線(ぼくせん、黒線とも呼ばれた)」範囲でした。しかし、時代とともに奉行所としての管轄範囲は広がりをみせています。
定町廻り同心の範囲
☆割合平穏
与力と同心は世襲制で、加増も栄転もまったくなかった。住まいも八丁堀の官舎住まい。「不浄役人」(ふじょうやくにん)と言われ、一般の旗本や御家人などとの交際も「まれ」だった。縁組も同じ役職者に頼るほかはなかったので、幕末までに、ほとんどの与力、同心は親戚関係になったといわれている。また、凶悪犯罪は、多くて年に数回だったことと「火付盗賊改」がいたので、町奉行所は割合平穏な日々だった。
☆目明かし
正式には「岡っ引」と呼んだ。与力や同心が犯人を引っ張るのを「本引き」といい、目明しは横から引っ張るので「岡引き」と呼ばれた。なぜ「岡」が付いたかというと、当時は「岡惚れ」とか「岡目八目」というように横からちょっかいを出すことに「岡」が使われたためである。これには岡に登ればあらゆる方角が見え、何でも手を出したがる。というところからきているようだ。公的な地位はなく、同心の下でプライベートに聞き込みなどをした。犯人逮捕で大立ち廻りをするようなことは、ほとんどなかった。TVドラマの「銭形平次」では子分と一緒に聞き込みをして、子分と一緒に犯人を逮捕したりしていたが、実際は、岡引きだけで犯人逮捕はできなかった。必ず、同心に逮捕させた。しかし、今も昔も「緊急逮捕」という仕組みがあり、現代でも犯人逮捕は警察官に限ったことではない。もう少し詳しく話すと、実は、警察官も犯人逮捕の特権を持っているわけではないのである。正式には裁判所から許可された「逮捕状」を示して、はじめて逮捕できるのだ。しかし、緊急時には一般市民も逮捕することができるのだ。何も警察官だけが逮捕できるわけではない。警察官が逮捕するのも一般市民と同じように「緊急逮捕」に過ぎないのである。さて、話をもとにもどして、岡引きは同心から月に一分か二分(20,000〜30,000円くらい)しかもらっていなかっので、当然、食べてはいけない。そこで、飲み屋や寄席などを妻にやらせて生活すると同時に、人が多く集まればそれだけ情報も集まったというわけである。原則的にはお互いに縄張りがあったが、はみ出して働くこともあった。子分を二〜三人くらい抱える者もいた。子分は町の噂を集めてきて、親分に話す。そうすると親分は同心に話して、犯人逮捕となるのであった。しかし、この子分連中は食事は親分からありつけたが、小遣いなど何もなかった。そこで、御用風を吹かせて、事件の関係者を「何もなかったことにする」替わりに金をせしめたりしていた。これを「引合いを抜く」といった。また、情報が種切れしないよう、それぞれの親分に仕える子分連中が情報交換所をつくって、お互いに融通しあったりもしたという。
☆奉行所付近の火事
奉行所または奉行所近辺で火事があると、髪結床が駆けつけた。「梅床」だとか「亀床」などという印のある提灯を持ち、「駆けつけ、駆けつけ」と大声で叫びながら奉行所に向かった。もちろん、この声を聞くと現代の消防車みたいなもので、皆、道を空けたという。奉行所の書類は普段から箱に詰めて、麻縄が掛けてあったので、どんどん運び出したという。なぜ、髪結床だったのか?実は、髪結いの仕事は大変な力仕事だったのだ。武士の髪を結うには、髪を束ねて、鬢(びん)付け油を塗って、手首に力を入れて・・・と、かなりの力が必要だった。だから、男の髪結いが多かった。したがって、奉行所の火事には力のある髪結床が選ばれたのだ。では、大工も力仕事ではないか・・・。確かに、しかし、大工は仕事場がバラバラで結束しにくい。そこへいくと、髪結床は店を構えていて一箇所にいてくれたので集合しやすかった。
☆与力と同心
与力は文久年間(1861〜)まで上下(かみしも)で出勤した。同心は武士でありながら、活動的な「着流し」で、これを「御成先着流し御免」といった。しかし、夏でも黒の紋付羽織を着なければならなかった。この羽織の裏地はすべるように加工してあり、事件の処理で犯行現場にスルリと脱いで落とし、現代でいう、犯行現場の目印とした。
与力と同心は世襲制で、加増も栄転もまったくなかった。住まいも八丁堀の官舎住まい。「不浄役人」と呼ばれ、一般の旗本や御家人との交際も「まれ」であったので、縁組も同じ役職者に頼るほかがなかったので、幕末までに、ほとんどの与力、同心は親戚関係になった。
☆十手(じゅって)
棒に鈎(かぎ)形の出っ張りがついているものであるが、種類としては、丸型、六角型など200種類余りに及ぶといわれている。長さは一尺二寸(約36p)と一尺二寸五分(約37.5p)くらいが大半を占めた。そして、与力は腰の大小の刀と並べて差して房を垂らす。同心は腰の後ろに差すか、袋に入れて懐に入れて持ち歩いた。与力、同心には朱房の十手が多かった。では、岡っ引はというと、鼻捻(はなねじ)といって、鈎はなくただの棒状のものだけで房も原則的にない。ただし、持つところに皮紐が輪状についており、手を差し入れて簡単に抜けないようになっていた。これを「手貫(てぬき)」と言った。
☆火付盗賊改め
これは町奉行所とは別に、放火、盗賊、博打(ばくち)などの強力犯(ごうりきはん)専門の警察裁判権を持った役職であった。つまり、町奉行所は民事訴訟も扱ったが、「火盗改」は刑事事件専門であった。そして、加役といって本職を持ちながら火盗改の役についた。では、本職はというと、先手頭(さきてがしら)で、いざ戦になると第一線の大隊長であった。現役軍人の憲兵のようなものであったから、捕らえ方も荒っぽかった。
☆拷問とは?
「拷問」(ごうもん)とは、現代では痛めつけて白状させられるようなことを言うが、実は、責めの一種のことである。当時は「責問」(せきもん)と言った。責問には「笞打」(むちうち=鞭で叩く)、「石抱」(いしだき=溝のついた石の上に正座させられ、太ももの上に石を乗せた)、「海老責」(えびぜめ=身体をそらせるようにして縛りつけた)。そして、これでも白状しない時にはじめて「拷問」がされた。拷問とは釣責(つりぜめ)のことで、両手を後ろで縛り、その縛った縄で宙に吊るされた。しかし、拷問は死を招くことが多かったので老中の許可を必要とした。
☆刑罰の種類
大きく分けると「死刑」「追放」「敲(たたき)」の三種類であった。現代のような「懲役刑」はなかった。主な死刑を解説すると「磔刑(はりつけ)」・・・罪人を「キ」の字型の十字架にゆわえて、わき腹を槍で突いた。
★「斬首」(ざんしゅ)・・・「土壇場」といわれる刑場で「血溜り」と呼ばれる四角い穴に首を切り落とされること。
★「生きつり胴」・・・両手を後ろで縛り身体を吊るして胴体を斬る。
★「ノコギリ引き」・・・土中に首だけ出して埋めてその首を竹のノコギリで引いて殺してもよいと見せしめた。だが、実際には三日後ぐらいに穴から出されて磔(はりつけ)となった。
★「釜ゆで」・・・新しい大釜に大樽10個以上の油を入れて、その中で煮殺した。石川五衛門でおなじみ。
★「簀巻き」(すまき)・・・主にキリシタンの処刑方法で手足を縛って水中に放り込んだ。
★「水磔」(みずはりつけ)・・・これも主にキリシタンに科せられた。柱に逆さまに縛りつけて水中へ沈めた。
★「切腹」・・・武士以上に用いられた。紙でまいた刀で腹を真一文字に切った。同時に介錯人がいて首を刎ねた。この時、首の皮一枚を残すのが介錯人の腕の見せどころであった。
★「火刑」・・・火炙りのこと。罪人を柱に縛りつけて焼き殺す。しかし、たいがいの場合、絞殺してから火炙りにした。八百屋お七で有名。
☆さらに
死刑は6種類に分かれていた。
★「下手人」(げしにん)・・・首を刎ねる。
★「死罪」・・・同じく首を刎ねる。「火罪」・・・火炙り。
★「獄門」・・・刎ねた首を晒しものにした。
★「磔刑」・・・磔。
★「ノコギリ引き」・・・ノコギリで引く。ただし、実際は磔になった。
また、「下手人」は盗みをしないで殺人だけを行った者に対してくだされた。そして、埋葬してくれた。一方、「死罪」では、強盗傷害や十両以上を盗んだ窃盗犯に科せられた。同じく殺されることであったが、「死罪」では、首のない死体を刀の試し切りなどにしたという。
☆女の取調べ
女に対しては、原則的に、責問や拷問はしないことになっていた。そして、取調べの最中、少しでも膝小僧から上を出すと調べは中断された。そこで、両膝を縛って取り調べをした。しかし、そのことを承知している女は、わざと後ろにそっくり返って、取調べをたびたび中断させたとか。
☆密通は死罪
夫のある妻が夫以外の男と、あるいは男が他人の妻と姦通した場合は、原則的に、どちらも「死罪」になった。「原則的」ということは命だけは助かった者もいたということである。しかし、死刑の次に重い「遠島の刑」が待っていた。
☆「密通」を内緒に・・・
夫が訴えても、奉行所では多くの場合内済(ないさい=内々に事を収める)方法を取った。それは、なかなか証拠がつかめないのが現状だったからである。例えば、妻や他の男を陥れるために訴えたりすることもあったからである。内済の場合、七両二分出せば示談できたという。上方では、もう少し安く五両だったといわれている。川柳に「据えられて七両二分の膳を食ひ」とか「音高し おさわぎあるな はい五両」などがある。
☆心中
心中は「相対死」(あいたいじに)とも呼ばれた。死骸は捨て置かれ犬や鳥の餌食にされた。だが、一方が生き残るとややこしい。男が生き残ると「下手人」にされて、やはり、死が待っていた。女が生き残った場合は、「非人」(ひにん)にされた。また、双方が生き残った場合は、日本橋で三日間晒し者にされたうえで、男女ともに「非人」にされた。「非人」とは読んで字のごとく「人間に非(あら)ず」で、一般の市民権を奪われることである。荒川土手にもうけられた非人溜りの非人頭「車善七」などに引き渡された。そして、木組みに筵(むしろ)を掛けただけの粗末な小屋に住み。痩せた土手を開墾して自活をしたり、刑場での死体運びや死体洗いなどをして生活した。しかし、「足洗金」(あしあらいがね)というものを払えば一般市民に戻れたのが幸い。親兄弟、親類に金持ちがいなければ、一生を非人溜りで過ごした。そして、非人同士が結婚して生まれた子どももやはり、非人でしかなかった。
☆追放
追放には「重追放」「中追放」「軽追放」と3種類あった。追放の刑が言い渡されると、罪人は後ろ手に縛られたまま、品川、板橋、千住、本所、深川、四谷、大木戸のいずれかの宿場はずれから突き離す。しかし、垣根があるわけでもなかったので、役人が見えなくなったあと平然と逆戻りをした。そして、他の街道筋へ行く場合には、江戸の街を通っても良いことになっており、もし、役人に見つかったとしても、旅装束、草鞋(わらじ)履きであれば、「通りすがりだ」と言い訳ができた。のちには、引き続き江戸に住み着き、用事のあるときは草鞋履きで出かけたという。
☆小塚原と鈴ケ森
死刑執行の二大場所である。この二つをどう使い分けたかであるが、だいたい、江戸の北で犯行が多く行われたら小塚原(こづかっぱら)南方面で多く行われたら鈴ケ森(すずがもり)であった。また、罪人が江戸生まれであると、生まれた地域に近いところで処刑された。これは、江戸の刑罰が「見せしめ主義」であったから、知った者の多いところを選んだ。
☆お白洲
捕り物は「同心」の役目。取調べは「吟味(ぎんみ)与力」の役目。自白第一主義だから、吟味与力は「疑わしい者」に対しては徹底的に責めをおこない、「口書」(こうしょ=自白調書)を作成し爪印を押させた。町奉行はその口書に基づいて「お白洲」で人定尋問と判決を言い渡した。この判決が下されることを「落着」といった。TVでおなじみの「これにて一件落着」がそれである。ただし、死罪の場合には、老中へ書類を提出して「許可」を必要とした。
☆牢屋敷
小伝馬町にあった牢屋敷は、幕府最大の牢屋で、町奉行所からの囚人だけではなく、寺社奉行所、勘定奉行所、火付盗賊改など、すべての囚人が収容された。牢屋敷の広さは2700坪で、その一角に牢奉行を世襲する石出帯刀(いしでたてわき)の屋敷があった。同心50人、下男(しもおとこ)38人で囚人の監視にあたった。周囲を高さ八尺くらいの「練塀」(ねりべい)で囲い、その塀の表と裏に深さ七尺の堀をもうけていた。屋敷内には、ほかに、「死刑場」「拷問蔵」取調べ用の「穿鑿所」(せんさくじょ)などがあった。牢には「大牢」「女牢」「無宿牢」「百姓牢」などに分かれていた。武士や僧侶、神官は「揚(あがり)座敷」あるいは「揚屋」(あげや)に入れられ別扱いであった。さらに、大名や500石以上の旗本は、ほかの大名などに「お預け」となったので牢屋敷にはこなかった。また、江戸時代には「懲役刑」はなかったので、牢屋敷は、いわば未決囚の「拘置所」と同じであった。裁判は比較的早く、長くても半年以内には判決が下された。
町奉行と刑罰