武 士

☆武士は名前を呼ばなかった
公式には官名で呼んだ。「越前殿」とか「掃部頭殿」(かもんのかみどの)というふうに呼んだ。苗字で呼ぶのはやや目上か同輩。名前で呼ぶのは目下の者を呼ぶときにもちいた。例えば、目付役が部下の徒目付(かちめつけ)を呼ぶように茶坊主に頼むと、茶坊主は呼び出す者の部屋の前で「正五郎さん。島崎殿」と声をかける。正五郎は呼ばれた者、島崎殿は呼んでいる者を指した。

☆武士の必須科目
もちろん、文武両道であるが、五歳〜七歳ぐらいまでは、手習いで文字を覚えさせられた。七歳からはいきなり「中庸(=四書のうちの「礼節」の部分)」の素読から始まる。中味の意味までは教えてもらえない。八歳ぐらいになると師のもとに通い、十歳までに「四書五経」の素読を覚える。まあ、その間には、聞きかじりで意味を理解するようになる。武術は、剣道と水泳であった。

☆武士にも国家試験?
はい、ありました。武士の子息が十二歳になると、湯島聖堂附属の学問所で試験を受けた。出世を目指す者は特別試験の「素読吟味」にチャレンジし、さらには、「学問吟味」と呼ばれる国家試験があった。前者は年に1回。後者は3年に1度行われた。これに合格すると「番入り=役所勤め)」ができた。逆に、合格しないと、どんなに家柄が良くても家督相続さえ許可されなかった。けっこう、厳しい世界であった。

☆番入りとは
「小姓組」「書院番」「新番」「大番」などの武官の役職で、「番方」と呼ばれた。城中の警備と将軍が出かけるときの警護役を主な仕事とした。「番方入り」は武士のエリートコースと呼ばれ、出世も早かった。一方、「勘定方」「右筆」「納戸方」などは「役方」と呼ばれ文官であったので、生涯をその役目だけで過ごした者も多かった。しかし、いざ戦いとなると、どちらも武士なので戦場で戦った。

☆人を切ったあとの刀の始末
目釘(めくぎ=柄と刀を固定してある留め金)を外し、「馬糞でぬぐうか、わらの灰で脂のとれるまで磨くと良い」と、幕末の書物にあるが、「馬糞」はちょっと嘘くさい。しかしまあ、馬もわらを食べていたから、当然、糞もわら粕である。灰もわらであるから、わらが良かったらしい。時代劇で人を切って、懐紙でス〜と拭ってポイ。とんでもない話である。こんなことぐらいでは、血糊(脂)はとれない。脂の着いたままではすぐに錆てしまう。武士の刀の手入れは結構めんどうだった。

☆仇(かたき)と狙われたら
どんな事情があったとしても、仇と狙われたら「逃げるが勝」。これは武士の心得の中にあり、逃げて逃げまくることこそ武士道であるとある。卑怯者でもなんでもなかった。意地を張って決闘をするなどというのはもってのほか。しかし、一方では、仇に出会ったら相手を討ちを果たすことこそが武士の本懐であり、矛盾しているようだが、どちらも武士道精神だったのだ。

☆小普請組(こぶしんぐみ)とは
一言でいってしまえば、旗本、御家人の失業者集団。役職の数には定員があり、あぶれた者が「小普請組」に所属させられた。しかし、一応は、城の修理とか石垣の修理などの役目を負っていた。だが、たいがいは中間や小者を出したので、自分は何もすることがなかった。また、のちには金納に代わったので、なおさら、やることがなかった。しかし、旗本、御家人は幕府の常備軍だったから、無下に取り潰すわけにもいかなかった。仕事はなくとも、幕府からは「扶持米」が支給された。扶持米はひびたるもので、傘はりなどの内職をする者がほとんどだった。

☆知行取武士と蔵米取武士
「知行取」とは領地をもらっている武士で、与えられた領地から百石とれるとすると、四公六民といって四十石が武士の取り分、六十石が農民の取り分であった。しかし、災害や旱魃などで不作の時は、非常に苦労せねばならなかった。一方「蔵米取」は幕府の米蔵から米をもらっている武士で、米の出来、不出来に関係なく収入は一定だった。

☆三十表二人扶持などの計算方法
これは年間三十表の米をもらえることであるが、扶持(ふち)とは男を一人かかえていると、一人一日五合の別手当が支給された。年間にすると4.5表になる。したがって、二人扶持では9表もらえることになる。女扶持というのもあって、こちらは一人一日三合で計算された。

☆足軽の身分
仕える身分で、「足軽」というと一番下にみられがちだが、どうして、どうして。足軽の下にはさらに「中間」「小者」という者がいて、足軽は苗字を名乗っていて刀も大小二本を差していた。一方、中間、小者は苗字がなく、腰に差したのは木刀一本だった。

☆嫌われた「甲府勤番」
甲府城を預かる者を「甲府勤番支配」といい、四千〜五千石の旗本が勤めた。なかなかの重責で江戸城へ顔を出しても粗略にはされなかった。さらに、「役高」という役職手当が三千石。「役地」という地元から採れる米を千石もらえたから、たいへんな給料取りであった。しかし、甲府勤番支配に仕える「甲府勤番」は、「山流し」といわれて誰もが嫌った。なぜならば、山国で遊び場所もなく、大きな仕事といえば、土地の調査や測量くらいであったから平穏で手柄の立てるすべもなく、幕府に認められる者もいないのでそれ以上の出世ができないのが現実であった。よって、幕府は後年には、懲罰的意味を込めて「甲府勤番」を申し付けることとなった。

☆家の門
旗本の家の門は開き戸、つまり、観音開きであった。また、御家人の家の門は引き戸であったので、家の門を見ただけで家格がわかった。

☆刀の寸法
刀の寸法について幕府はたびたび法令を出している。大刀は二尺(=約60p)以上で、たいがいは、二尺八寸(=約84p)ぐらいであった。これより短いものを「脇差」といった。測り方は、切先(きっさき=刃の先端)から鍔元(つばもと=柄と刀の間に入れた環状の刃避け)までを湾曲を入れないで直線で測った。武士の子どもは十三〜十四歳まで脇差だけ腰に差した。なぜ長さについて法令を出したかというと、相撲の力士や渡世人はとかく長いものを持ちたがったからである。

☆武士の夫婦の外出
武士の夫婦がそろって外出することはあまりなかった。やむを得ず一緒に外出するときは、妻は離れて道の端を歩いた。女連れは柔弱に見られたので、下級武士でさえ、このことは守った。ちなみに、夫婦がアベックで歩いた記録は、慶応二年(1866)坂本竜馬が妻のお竜と伏見の町を歩いたのが最初といわれている。もうこのころは、江戸幕府も終焉に近い時代であった。

☆武士は私用宿泊は厳禁
江戸の武士は幕府の家来で、身分の上下にかかわらず官舎住まい。すわ一大事というときは、何をおいても駆けつけにければならなかったので、勝手に泊まり歩くことはできなかった。一晩でも家をあけるときは、必ず「頭支配」(かしらしはい)の許可を受けた。もし、許可を得ずに外泊したことがバレると切腹もあった。ただし、公用の場合は別である。

☆では、外出は?
もちろん、花見などもしたい。外出は自由にできた。ただし、門限があった。子(ね)の中刻(午前1時ころ)までに帰宅をすることとなっていた。この子の中刻以前までを「今夜」と呼び、午前1時を過ぎると「翌朝」と言った。したがって、午前1時までに帰宅していれば、外泊扱いにはならなかった。

☆武士の処罰
「閉門」・・・門を閉じ、窓を塞ぎ、屋外との出入りを断つこと。しかし、夜間には、こっそり外出しても良いことになっていた。
★「逼塞(ひっそく)」・・・閉門より軽く、表門を閉ざすだけで良かった。昼間の外出も目立たぬようにすれば黙認された。
★「遠慮」・・・表門を閉じただけで、潜戸(くぐりど)は開けっ放しでもかまわなかった。謹慎の意を表すだけで、形式だけのことであった。
なお、こうした処分が決まっても「禄」を止められることはなかった。


☆御家人にも三階級あった

御家人とは徳川家の私的な使用人という意味で「家子」(いえのこ)「家僕」(かぼく)「家士」(かし)などとも呼ばれた。禄は二百石以下でそれ以上を「旗本」と呼んだ。旗本と違って叙位もなかったし、官職にも任ぜられることはなかった。ただし、御家人の中でも「譜代」(ふだい)は家康時代からの家臣で末代まで身分保障がされた。「二半場」(にはんば)は譜代に準ずる者で家康以降に雇われた者で、職務を自動的に子に譲ることができた。したがって、跡継ぎさえいれば食いっぱぐれはなかった。最後に「抱席(かかえせき)」。これは中途採用者で退職と同時に扶持がなくなり、子息はというと、採用試験に受かった者だけの新規採用であった。以上の家格の違いがあった。
   

☆さらには
家督相続の手続きや用向きで城内の躑躅(つつじ)の間または焼火の間などに詰めている上司に呼ばれる御家人は「席以上」と呼ばれ優遇された。出勤の際、供の者が槍を立てて道を歩くこともできたし、自宅に玄関を構えることも許された。「席以下」というのは、家督相続の手続きや用向きなどを組頭の自宅で言い渡される者で、槍を立てたり、玄関口を堂々と見せたりしてはいけなかった。しかし、役所での席順となると、この家格よりも禄高で並ぶ順序が決められていたようだ。

☆御家人の服装
服装、つまりは役所での勤務スタイルであるが、「上下役」(かみしもやく)は上下(かみしも)を着て勤務する。徒目付(かちめつけ)や支配勘定、勘定吟味役など。譜代御家人で百表前後の年俸。「役上下」(やくかみしも)役務で出張する「出役」(しゅつえき)時のみ上下。勤務時は羽織袴姿。役方(やくかた=上司)の下回り役。おなじみの町方与力もこれにあたる。御家人で三十〜八十表が年俸。「羽織袴役」主に同心で羽織袴姿で勤務。御家人で三十表以下。「白衣役」(びゃくえやく)小袖や半纏(はんてん)で勤めた。将軍の供廻りをする中間や小者、掃除之者、駕籠之者。やはり御家人で十〜十五表であった。つまりは、服装でも家格がわかったのである。

☆「三番勤め」とは?
ずはり御家人の勤務予定表。徒目付や勘定方など役目によっては多忙を極めたが、ほかの役の者は人手が余っていた。三日に一日出勤の気楽な稼業だった。これは、戦時中の人員をそのまま泰平の世まで引きずってしまったので、人が多くて仕事が少ない。幕府の財源には限りがあるので、薄給しか出せなかった。そして、出勤してもやることがないし、上司もさせることがないので、自宅待機であった。現代は週休二日制であるが、「三番勤め」は週に二日出ればよかった。

☆屋敷の明け渡し
御家人の転勤や出奔(しゅっぽん=姿をくらますこと)、処罰などの時は、官舎住まいだから、すぐに明け渡しをしなくてはならなかった。「明屋敷奉行」(あきやしきぶぎょう)という役人がいて、「○月△日までに立ち退くように」と命じた。転勤なら、新しい屋敷が与えられたが、出奔、受刑の時は、家族は親類に身を寄せるか、町屋に家を借りて移るしかなかった。

☆みじめだった諸藩の武士
幕府でお抱えの御家人はまだいい方だった。諸藩の下級武士、主に、同心、足軽、中間、小者などを指すが、広義の武士であった。しかし、藩の財政事情により、当然、年俸は千差万別で小藩の下級武士は百姓よりもみじめだったと言われている。

☆武士の食事
例えば、十表取の武士がいたとする。年間で十表の米しかもらえない。しかも、俵(たわら)に入っているのは玄米である。精米をすると約半分になった。つまりは、実質五表前後ということになる。一年間米五表で家族を養っていかなければならない。夫婦二人でも苦しいのだが、子どもが何人もいたら、とてもじゃないが、食べていけない。不足分は内職をして麦や粟(あわ)を買い、団子にしたり雑炊にして食いつないだ。内職には細工物や仕立物があり、夫婦で朝から夜中まで稼がねば追いついていかなかった。やがて、内職の方が本業となって、職人気質が身について侍風は地に落ちたといわれている。

☆武士の身の回り
武士の心得としては「常に戦場にあり」が心がけだったので、女を近づけるのは夜以外は禁物であった。そして、髷(まげ)を結うのも男。登城の身支度などもすべて従者にやらせた。しかし、いつの世にも御法破りはいたと思われるが、テレビなどで初々しい新妻が主人の身支度をしたり、肩を並べて街中を歩いたりするのは、まったくもって、言語道断!!

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