信 仰

☆お伊勢参り
科学や医学が発達していない時代では、どこの国でも神仏にすがることで、心のよりどころを見いだすほかはなかった。泰平の世が続いた江戸中期になると交通網も整備され、旅行がしやすくなっていった。「お伊勢参り」の伊勢大神宮は日本人の信仰の大元(おおもと)であり、江戸の家々には神棚が設けられ、どこの家でもお伊勢さまのお札が祀られていたほどである。一生に一度でもお伊勢参りをすることが、江戸庶民の夢であった。年末になると伊勢神宮から「御師」(おし)と呼ばれる下級の神職がやってきて、「伊勢暦」や「一万度のお祓(はら)い」という神札を配って歩いた。そして、話がお伊勢参りのことにおよぶと道中での宿泊先などの斡旋もしてくれた。また、伊勢神宮は二十年に一度、社殿が建て替えられ「遷宮」(せんぐう=神様の引越し)が行われるので、「古市のはやる二十一年目」などという川柳も生まれた。

☆古市(ふるいち)
伊勢神宮の内宮(ないぐう)と外宮(げくう)の間にある小高い台地を「間(あい)の山」と呼び、参宮へ通じているが、古市はその沿道にあった繁華街。お伊勢参りの客の「精進落とし」の場でもあった。また、古くから日本では神社参りというと、男女の関係が乱れても許されるという考えがあり、古市には当然「飯盛り女」がいて、男の相手をした。

☆富士講

江戸の街から富士山は大変良く見えた。山を信仰の対象とすることは古くから行われており、富士山信仰も自然のなりゆきだった。信者の登山の目的は、山の上で日の出を拝むことにあった。これを「御来光」(ごらいこう)または「御来迎」(ごらいごう)と言った。浅間神社の宿坊(しゅくぼう)で精進料理を食べて身を清め、白衣を着て鈴と金剛杖(こんごうづえ)を手に持ち、「六根清浄(ろっこんしょうじょう)お山は晴天」と唱えながら登っていった。

☆大山詣(おおやまもうで)
大山は相州(そうしゅう=神奈川県)伊勢原にある丹沢(たんざわ)山系の霊山である。古くから雨乞いの山として有名で、天平勝宝年間に良弁(ろうべん)の開基と言われている。江戸からも富士山を背にして美しい三角形で見えるという。参詣は六月二十七日から七月十七日までで、なぜか江戸庶民、特に鳶職(とびしょく)や職人、芸能関係など威勢の良い連中が多く、木太刀(きだち)を持って登り、帰りに新しい木太刀をもらって帰るのだ。山岳信仰だから女は禁制。帰りには江ノ島まで足をのばし「精進落とし」と称して宴を催す者が多かったとか。

☆両国の水垢離(みずごり)
江戸っ子は大山に詣でる者はその前に、両国東詰(ひがしづめ)の垢離場(こりば)で水垢離をとって身を清めることとなっていた。裸で川に飛び込み、大きな木刀を押し立てて、先達(せんだち=行者ぎようじゃ)の法螺貝(ほらがい)とともに、一同が声をそろえて大声で「懺悔(ざんげ)、懺悔、六根清浄(ろっこんしょうじょう)」唱え、手にした緡(さし=わらしべ)を一本一本流しながら身を清めた。木太刀には「奉納大山石尊大権現天狗小天狗請願成就」と書かれてあり、これを持って大山参りをする。

☆稲荷信仰
江戸には「伊勢屋稲荷に犬の糞」といわれるほど、お稲荷さんが多い。ところが社(やしろ)が多い割には「ご利益」(ごりやく)」となると、いささか曖昧(あいまい)である。「稲」が付くことからみて最初は農業の神様だったようであるが、いつの間にか、江戸では商売繁盛の神として町屋だけではなく、大名屋敷内などにも建立された。稲荷神社と「狐(きつね)」そして「油揚げ」の関係は、正直なところいまだに解明されていない。しかし、お稲荷さんのお祭りは二月最初の午(うま)の日、「初午」(はつうま)で、この日は朝から騒がしい。というのも、この祭りは子供が主役で大人は介添え役。太鼓や鈴を鳴らして町内を練り歩いた。

☆福の神
神さまは神さまでも、「福の神」は身近な、親しみやすい日常生活の中での幸運をもたらしてくれる神さま。代表的なところでは「七福神」。江戸中期に七福神参りが盛んになった。恵比寿(蛭子)さま、大黒天(大黒)さま、毘沙門天さま、弁財天(弁天)さま、布袋(ほてい)さま、福禄寿さま、寿老人さま、の七体の神さまである。初夢で七福神を見ると縁起が良い、ということで、正月二日の夜は枕の下に七福神が宝船に乗った絵を置いて寝ることが人気であった。

☆占い
★八卦見(はっけみ)・・・「当たるも八卦、当たらぬも八卦」といわれるように、占い師の筆頭は八卦見(=易者)であった。古代中国以来の易学にのっとり、50本の筮竹(ぜいちく)を使って占う。日本には奈良時代に伝来し、宮廷は陰陽師(おんみょうじ)の天下だったので、民間で発達をしていった。
★人相見(にんそうみ)・・・正式には「観相家」(かんそうか)というが、江戸時代では珍しい天眼鏡(てんがんきょう=虫メガネ)を使って占った。
★梓巫女(あずさみこ)・・・梓弓という梓の木で作った弓の弦(つる)を叩きながら口寄(くちよせ)をする。つまり、神や死者の霊を呼び寄せて、その言葉を代わって語り、吉凶を占う女性。「神降ろし」、「市子」(いちこ)」などとも呼ばれる。
★陰陽師(おんみょうじ)・・・古くは天体の動きから吉凶を占う宮廷の占い師であったが、江戸時代には庶民にも広がった。「仏滅」や「大安」、「厄年」(やくどし)の考えは、この陰陽師からきている。

☆天狗、鬼、河童(かっぱ)
いずれも創作上の「妖怪(ようかい)」。しかし、いずれも憎めないが悪行をすることで知られる。
天狗は山中に住むと言われ、翼があり、鼻の高い赤ら顔の山伏姿。牛若丸時代の源義経(みなもとのよしつね)に剣法を教えたということで有名になる。大天狗、小天狗、木葉(このは)天狗などの種類があり、嘴(くちばし)のあるのが烏(からす)天狗。人が行方不明になるのは天狗の仕業。
鬼は虎の皮の褌(ふんどし)を締め、手に鉄棒を持っていて地獄で亡者(もうじゃ=生前に悪いことをした者)に過酷な罰を与える。
河童は全国各地の川では古くから言い伝えが残っているが、有名?になったのはやはり江戸時代。

☆護符
「お札」(おふだ)」とも言われ、神仏のご加護を仰ぐもの。
★角大師(つのだいし)・・・蛙の干物のような図柄をしているが、実は天台宗の高僧慈恵(じえい)大師(=良源りょうげん)のご尊像。鎌倉時代からの由緒正しい魔除けの護符。江戸では上野の両大師(りょうだいし=慈眼堂)などの寺から頒布された。
★成田山・・・もっとも良く知られているのが、成田山新勝寺(しんしょうじ)の守り札。杉板に焼き印を押したもの。天保二年(1831)、仁王門再建の折、神田末広町の大工辰五郎が足場から転落したが、全くの無傷ですんだ。その代わり懐に入れてあった成田山のお札がこなごなになっていたとか。辰五郎の日ごろの信心深さをうかがわせる出来事として有名になった。
★浅草寺・・・節分会(せつぶんえ)で豆まきをした後に節分祈祷(きとう)の守り札をまいた。お札にかかれてある「節分」の二文字を切り抜いて呑み込むと「安産」になると言われて人気があった。
★新田神社(にったじんじゃ)・・・江戸市外の矢口村新田神社の魔除けの弓矢も人気であった。ただし、この参詣にかこつけて品川宿での「遊女買い」が多かったとか。


信 仰