参考史料:「江戸城大奥ガイドブック」新人物往来社・TV東京「大奥」・NHK「歴史秘話ヒストリア」・NHK「その時歴史が動いた」・他

大 奥

☆大奥誕生
2代将軍秀忠の正室「お江の方」(おごう、または、お江与・おえよ)は、慶長9年(1604)7月に初めての男子、第5子の竹千代(3代将軍家光)産み、次いで、慶長11年(1606)に国松(忠長)を千代田城西の丸で産んだ。
この4ヶ月後の9月に本丸が完成をし、将軍一家は本丸御殿へと移った。
西の丸に住んでいた頃は、一応城の一番奥まったところに「奥向」といわれるところはあったが、家康の(正室はすでに死亡)側室などの妻妾同居で秀忠の正室お江もその奥向に住んでいた。また、身分にかかわらず男子も自由に出入りをしていた。
お江は、10歳から秀吉の庇護のもと大坂城で数多くの妻妾が同居する奥向で暮らしてきたが、この千代田城では豊臣家とはまったく異なった、そして、家康や秀忠の考えとも異なった女だけの空間をつくりたいと考えた。これには竹千代の乳母となっていた春日局(かすがのつぼね=お福)も大いに協力をすることとなった。
お江は、慶長10年(1605)、家康が秀忠に将軍職を譲り駿府へと隠居をすると、家康の側室がいなくなったのを期に、非常なまでな嫉妬心も強かったことから、側室そのものを認めず、秀忠には一切側室を与えようとはしなかった。
とは言っても、秀忠はお江に隠れて姓名不詳の侍女に男子を産ませているが2歳で夭逝している。さらに、その10年後には自身の乳母付きであった侍女「お静」に第9子幸松(後の保科正之)を千代田城から出して市中で産ませている。
これには、城にいたのでは、お江にどのような陰湿な仕打ちを受けるかが懸念されたためである。
家康の死の2年後、元和4年(1618)正月1日、秀忠はお江の意見を大幅に取り入れて、初の「大奥法度」を発布したが、まさに、これはお江の大奥法度と言っても過言ではなかった。

☆大奥法度(元和4年)
一、奥方へ御普請掃除以下万御用之儀候はゞ、天野孫兵衛、成瀬喜左衛門、松田六郎左衛門をめしつれまいるべき事。
一、御つぼねよりおくへ男出入り有るべからざる事。
一、手判なくして女上下ともに出入りすべからず、晩景六つ過候はゞ、御門より外へ出入りすべからざる事。
一、走入の女あるにおひては、断次第返し申すべき事。
一、御だい所仕置之儀は、両三人一日一夜つゝ勤番たるべく、諸事善悪之沙汰を以て申し付くべし、若御下知をそむき不届きの族あらば、用捨なく言上有るべく、遠慮せしめ申し上げざるにおひては、曲事たるべき事。

※天野孫兵衛、成瀬喜左衛門、松田六郎左衛門は「御留守居役」である。
この大奥法度は、寛永3年(1626)にお江が亡くなって、大奥の全権が春日局に移ってのちも厳守された。

☆春日局の方針転換
春日局は、お江が亡くなってからも上記の「大奥法度」を守っていたが、自らが乳母として育てた3代将軍家光になかなか子どもができなかった。
家光は、元和9年(1623)6月に父秀忠とともに上洛をし、後水尾天皇より将軍宣下を受け、同時に父秀忠は大御所となった。そして、この年の12月に摂家鷹司家から孝子を正室として迎え入れたが、夫婦仲は非常に悪かった。寛永9年(1632)1月に秀忠が亡くなると家光一人の治世となったのを期に、家光は孝子を大奥から追放して吹上の別邸へと移した。以後、孝子は「中の丸殿」と呼ばれるようになった。しかし、73歳の長寿を全うした。(本理院)
さらには、家光は「男色」傾向もあり、30歳を過ぎても女性に対する興味を全く示さなかった。
「これでは、将軍家の血筋が絶えてしまう」と考えた春日局は、お江が否定していた「妻妾同居」を復活させることとし、人づてなどを駆使して家光が好みそうなユニークな娘を見つけてきては家光のそばにはべらかした。
次第に、家光も女性を好むようになり、次々と子宝に恵まれていった。家光の側室として名の残る者としては、
※お振の方・・・・過去の「関ケ原の戦い」で西軍の総指揮官で、処刑された石田三成の曽孫。寛永14年(1637)3月5日、千代姫(後、尾張藩主徳川光友の正室)を産んだ。名は「振」。(自証院)
※お楽の方・・・・父が禁猟の鶴を撃ったため死罪となった農家(猟師)の娘。寛永18年(1641)8月3日、竹千代(後の4代将軍家綱)を産んだ。名は「蘭」。(宝樹院)
※お万の方・・・・参議六条有純の娘。伊勢慶光院の院主で尼僧であった。唯一公家の娘であったことから、大奥でのいじめにあい、何度も懐妊をしたらしいが、その度に堕胎薬を飲まされたり、
           避妊薬を飲まされていたとも言われている。還俗後の名は「万」、または「梅」とも言われた。(永光院)
※お夏の方・・・・正室孝子の侍女で、「お末」というお目見得以下の女中であったが、家光が大奥で入浴をされる際の「御湯殿掛」(湯や水を運ぶ掛)を命じられていたことから、家光が入浴の際に「お手付き」となる。
           正保元年(1644)5月24日、長松(後の甲府宰相徳川綱重)を産んだ。名は「夏」。(順正院)
※お玉の方・・・・父は関白二条光平の家司である北小路太郎兵衛宗正と「徳川実紀」に書かれてはいるが、京の八百屋の町娘であったとも、西陣織屋の娘とも、畳屋の娘だったとも言われている。
           側室「お万の方」に仕える御小姓であったが、家光に見初められ、正保3年(1646)1月8日、徳松(後の5代将軍綱吉)を産んだ。
           名は「玉」。後に従一位を授与されてからは「光子」(みつこ)とも名乗った。(桂昌院)
           一介の町娘が公方さまの側室にまでなったことから、「玉の輿」(たまのこし)という言葉が生まれたとも言われている。
※お里佐の方・・正室孝子の侍女として大奥にあがる。その後、家光のお手が付き、正保4年(1647)、家光の五男鶴松を産むも翌年夭逝している。名は「里佐」(りさ)。(定光院)
※お琴の方・・・・江戸牛込榎町の徳円寺の住職の娘であったとされている。名は「琴」。(芳心院)
※おまさの方・・・尾張藩の家老成瀬氏の娘とされている。名は「まさ」。(院号不明)

☆大奥法度(享保6年)
「大奥法度」は将軍の代が替わるごとに、加筆されたり変更されたりした。以下は8代将軍吉宗が享保6年(1721)に発布した「大奥法度」である。
一、女中文通の儀、祖父母、兄弟姉妹、伯父叔母、甥、姪、子、孫までにかぎるべく候。然れども文通これなくかなはざる仔細これあり候はば、その段年寄衆まで断りをたて申すべき事。附、宿下がりの節、親類出合の儀同様たるべし、
   右何れも年寄衆にて吟味の上、帳面にしるしおき申すべき事。
一、宿下がりいたされ候女中は、親子を始め長局へよびよせ申すまじく候。但し近き親類の内、厄介これなく部屋子にいたしたきものは、その品年寄衆へねがひ候上、御留守居に相達し、差図をうけ申すべき事。
一、宿下がりなき衆は祖母、母、娘、姉妹、伯母、姪、男子は九歳迄の子、兄弟、甥、孫、此分は呼び寄せ申すべく候。泊め候はでかなはざる仔細これ有り候はば、年寄衆へ断りを立て、御留守居へ相達し候上、一宿にかぎるべき事。
一、長局へ使の者、女宿つかまつらせ申すまじく候。泊めおかずして叶はず仔細これ有り候はば、年寄衆へ断りを立て、御留守居へ相達し、指図を受け申すべき事。
一、衣服、諸道具の音物、振舞事に至る迄、随分驕りがましき儀これ無く、惣じて分限過ぎたる品持せ申すまじき事。
一、部屋々々にて振舞事致し寄合候とも、夜をふかし申すまじく候。火の元の為に候間、急度相心得らるべき事。
一、御紋付の御道具類、一切私用に借り申すまじき事。
一、長局へ出入り候ごぜは二人きはめおき申すべき事。
一、自分用として御下男、一切遣ひ申すまじく候。急なる事これ有る節は、年寄衆より御広敷番之頭へ断りの上、つかひ申すべき事。
一、召使いの女の内、もし見届けざる様子のものは、早々置き替え申すべく候。御城中大切の儀に候間、少々の間も抱え置き申すまじき候。
右ヶ条堅く相守り、並びに誓詞前書の趣相違これ無き様に心掛けなさるべく候


☆大奥へ入るにあたっての「誓詞」

一、御奉公の儀、実義を第一に仕り、少しも御うしろぐらき儀致間敷候。よろず御法度之趣堅相守申すべき事。
一、御為に対し奉り悪心を以申合わせ致すまじき事。
一、奥方之儀、何事によらず、外様へ申すまじき事。女中方之外、表向願がかしき儀、一切取持すまじき事。附き御威光をかり、私之驕り致すまじき事。
一、諸朋輩の陰口を申、成は人の中をさき候やうなる仕るまじき事。
一、好色まじき儀は不及中、宿下がりの時分も、物見遊山へまいるまじき事。
一、面々の心及候程は行跡をたしなみ申すべき事。附部屋々火の元冬入申付べき事。

この「誓詞」は大奥女中としてあがる際に必ず署名、血判を押して差し出したものである。
また、「何事によらず外様へ申すまじき事」の条項があったため、大奥の実態は中々解き明かされなかったのである。
大奥の実態が明らかにされ始めたのは、明治に入ってから三田村鳶魚(みたむら えんぎょ)が元大奥女中からの聞き取り調査をしてからとも言われている。

☆大奥は男子禁制?
確かに「男子禁制」でした。「表」と「大奥」の中間に「中奥」(なかおく)というところがあり、「中奥」は公方さまが主に休息などをされる区画。つまりは、公方さまの住まいであり、御台所さまは大奥に住まわれていたので、夫婦と言えども別々の住まいだったというわけ。従って、「精進日」(歴代将軍の忌日)などで大奥泊りができない日は公方さまはこの「中奥」で寝起きをした。
「中奥」と「大奥」の先を仕切ってあるのが上御錠口(お鈴口)。上御錠口を公方さまが潜られるときに、合図として鳴らされたのが鈴で、「奥」の廊下の鴨居づたいに鈴が幾つもぶらさがっていたので、この廊下を「お鈴廊下」と称した。
そして、公方さまは大奥へ入ってすぐ左てに「御小座敷」あり、ここに側室などを呼んで寝起きをし、子造りにも励んだ。
大奥は「御殿向」(ごてんむき)、「長局」(ながつぼね)、「御広敷」(おひろしき)とに分かれており、「御殿向」は御台所様の居室や上級お女中の居室があり、その他の女性たちは「長局向」で起居していた。「御広敷」は玄関口などを警備する役人の詰所。大奥は10歳以上の男子はいっさい出入りが禁止されていたが、老中などの位が高くなると、役目上の御用で、特別に大奥に入ることが許された。また、警備上の理由で月に一回は「老中見回り」、三ヶ月に一回は「御留守居見回り」があり、男子が「女の園」に入ることができた。男に飢えたお女中たちが、この時ばかりと、特別に着飾って色目をつかったが、見て見ぬ振りをすることが義務付けられていた。 

☆大奥に男の園??
★「御殿向」(ごてんむき)・・・・・・・御台所さまの住まいである。「新御殿」とも言われた。
                      公方さまは通常大奥の御小座敷で子作りに励まれる。また、御小座敷には「蔦の間」が併設されており、御台所さまなどが訪れて歓談などをされた。もしもの時はすぐにも「表」に逃げられるように
                     上御錠口(お鈴口)の近くに造営されていた。
                      また、御切手の間という老中などが御用で大奥へ出入りする時の「手形」(通行許可証)をあらためる者の詰め所や側室、御世継ぎ以外の子女の居室、さらには、公方さまが大奥に入られた時や常日頃の
                     御台所さまの世話をする奥女中たちの詰め所などもあった。
★「長局向」(ながつぼねむき)」・・大奥の御台所さま以外のお女中たちの居住空間、総二階建てとなっている。
                     一階の特に「入り側」と呼ばれる区画には、上臈御年寄、御年寄などの住まいがあり、
                     その他の一階部分には御中老などの上級者の住まいがあった。
                     二階は御錠口以下のその他諸々のお女中たちの寝所があった。
                     だが、10畳では8人位、8畳では6人位が寝起きをしていたので箪笥などを持ち込むと布団1枚を敷くのがやっとの状態だった。
★「広敷向」(ひろしきむき)・・・・・・大奥での事務や警備等を担当する「男性役人」の詰め所。唯一、男性の入ることのできた区画。しかし、御年寄など上級お女中に呼ばれた時や火事などの非常時以外は御殿向や長局向への出入りは
                     「厳禁」であった。
※「広敷用人」・・・大奥の御台所さまや上臈(じょうろう)御年寄、御年寄など、大奥の上級お女中から頼まれた事務を取り仕切った。
※「御用達」・・・・・用人の指示により、出入りの商人から買い物などを調達する掛り。
※「広敷番」・・・・・大奥の女中が城外への出入りに使用した「平川門」(不浄門)の警護や御錠口という「御殿向」と「広敷向」とを区切るための扉の警護。さらに、「七つ口」と呼ばれる「長局向」と「広敷向」とを区切るための扉の警護。
            この七つ口は、朝五つ(午前8時)に開き、夕七つ(午後4時)に閉まることから「七つ口」と呼ばれるようになった。
※「広敷伊賀者」・・大奥の上級お女中たちが社寺へ代参などで市中へ出られた折の警護役。また、吹上庭園などで行われた大奥お女中だけの「お花見の会」などでは、男子が入らぬように各所で警護にあたった。
※この他・・・・・・・・表の「御留守居役」1名が交代で詰めた。
            別棟として「奥六尺」(おくろくしゃく)・・・大奥上級お女中の寺社への代参などの折、駕籠を担ぐ者。
            「御宰」(ごさい)・・・大奥上級お女中の個人的に雇った男の使用人などもいた。主に、扶持米を精米業者へ持ち込んだり、受け取ったりしたが、旦那さま(大奥では仕える主人をそう呼んた)の急用などで城外との出入りを
            許されていた。

☆大奥3000人て本当?
まず、公方さまの身の回りの世話をする「腰元」が約300人。
御台所様にも同じく約300人。「中掾vは数十人の女中を使っていたと言われている。
大奥の居住者総数はほぼ1,000人程度。多いときで2,000人くらいだったのではないでしょうか。
「大奥3,000人」は、大奥の図面から見ても、とても収容することができない人数。しかし、それくらい「でっかい」と言いたかったのでしょう。
大奥の敷地面積は約6,000坪、部屋数約600室。そして、御中揶ネ上になると、一人で20畳以上もある部屋が与えられた。しかし、それ以下の者の大半は畳1畳分くらいの寝床しかなかった。

☆大奥の役職(階級)
頂点は何といっても、御台所(みだいどころ=公方さまの正室)さま。これは、もちろん一人。
次に、上(じょうろう)御年寄りが約4〜5名。
中年寄り約5〜6名。
中(ちゅうろう=側室候補)、「表使」や「御右筆」など。ここまでが「御目見得」(公方さまに顔を見せることを許された者)以上。
その下に「御末」、「御犬子供」という御目見得以下の女性たちがひしめいていた。公方さまや御台所さまのお世話をするのは「御末」などの中から選ばれた者が「御目見得腰元」としてお世話にあたった。
しかし、「御目見得」以下の腰元や女中たちが大半を占めていた。
御中揩ワでの上位者は、1,000人近くの大奥女性たちのキャリア組または超エリートだった。

役  職 人数 給  金 主 な 職 務
上臈御年寄
(じょうろうおとしより)
4 50石10人扶持 京都の公家の娘で、主に、御台所さまの下向と一緒に大奥に入った者たちであった。御台所さまの茶の湯、生け花、香合わせなどの相手をし、最高位ではあったが権力はなかった。
また、公方さまが御台所さまと一緒の時は公方さまの相手もした。
小上臈
(こじょうろう)
2 40石5人扶持 公家出身で上臈御年寄に仕える10歳前後の少女。いずれは上臈御年寄や御中臈になる者が多かった。
御年寄(おとしより) 6 50石10人扶持 「老女」とも呼ばれた。公方さま付と御台所さま付に分かれていて、公方さま付は大奥第一の権力者で、表の「老中」に匹敵した。大奥の万事を掌握して指示、監督をする。御台所さまの名代として寛永寺や増上寺などへ代参した。公方さまの夜のお相手の指名がない時は、御中臈の人選もした。
御台所さま付は、御台所さまの話し相手や遊び相手であって、お女中たちに指示や命令する権限はなかった。
御客会釈
(おきゃくあしらい)
10 25石5人扶持 公方さまが大奥へお渡りになった時の接待役。御三家、御三卿、御家門の女使の接待などもした。御年寄を引退したベテランが就任した。
中年寄
(ちゅうとしより)
3 20石4人扶持 御年寄の下役で、病気などの時は代理を務めた。御台所さまや若君や姫君付で食事の献立なども考えた。
御中臈(おちゅうろう) 7 20石4人扶持 公方さま付と御台所さま付とがあり、それぞれ身辺の世話をした。公方さま付御中臈は夜伽(よとぎ=セックスの相手)もした。
御錠口(おじょうぐち) 7 20石5人扶持 中奥と大奥との境の上御錠口に2人ずつ詰めて出入りを監視した。中奥側の奥之番を介して公方さまのご用を取り次いだ。配下に「御錠口助」(8石3人扶持)がいた。
御小姓(おこしょう) 2 12石3人扶持 7〜15歳位の旗本の娘で、御台所さまのおそば近くにはべり、煙草や手水(ちょうず)などの世話をした。16歳頃からは御中臈に昇格する。
表使(おもてつかい) 12 12石3人扶持 御三家、御三卿、御家門などからの女使の応接役。留守居役や御広敷役人と応対したり、御年寄の命を受けて大奥の買い物などを御広敷役人に伝えた。また、御年寄などの代参に従って折衝役を務めた。
御右筆(おゆうひつ) 9 8石3人扶持 大奥の日録、外部への通達書、書簡などを筆記した。御右筆頭(12石3人扶持)2人がいた。
御次(おつぎ) 20 8石3人扶持 御台所さまの御座所の次の間に詰め、仏具、茶道具、御膳などを調えた。芸達者な者が多く、大奥の行事などでは芸を披露して盛り上げた。御次頭(10石3人扶持)2人がいた。
御坊主(おぼうず) 4 8石3人扶持 公方さま付で50歳位の坊主頭の大奥お女中。男物の着物を着て黒い羽織姿。大奥から中奥へ唯一出入りが許された。公方さまが大奥へお渡りになると、表の御小姓から刀を袱紗(ふくさ)で受け取り、捧げ持った。
御切手書
(おきってがき)
1 8石3人扶持 七つ口(長局と御広敷向の出入り口)を出入りする奥女中の親類や御用達商人に切手(許可書)渡し、出入りを許可、監視した。
呉服の間
(ごふくのま)
15 8石3人扶持 公方さまと御台所さまの着物を、それぞれが専門分野に分かれて裁縫をした。針を1本でもなくすると全ての仕事を中断して全員で見つかるまで探した。紛失した者は即刻解雇となった。裁縫が得意で他の部署への役替えは一切なかった。呉服の間頭1人がいた。
御広座敷
(おひろざしき)
12 5石2人扶持 御広座敷に詰めていて、御三家、御三卿、御家門などの女使が訪れた時、表使の指図を受けて食膳を調えた。
以 上 が 御 目 見 得
御三之間
(おさんのま)
20 5石2人扶持 三の間以上の座敷の掃除、公方さまや御台所さまの風呂の湯桶、水桶の運搬、火鉢、煙草盆の監理などをした。また、上級お女中の雑用などもした。
御仲居(おなかい) 13 5石2人扶持 御台所さまの料理を御膳所で煮炊きをしたり温めたりした。豆腐を賽の目に切らせての採用試験があったが、できなくても合格だった。
御火之番
(おひのばん)
20 5石2人扶持 昼夜を問わず「お火の番さっしゃりませ」と言って大奥内を巡回して回り、火の用心に努めた。行事では御次衆、御三の間衆と共に芸を披露した。
御使番
(おつかいばん)
14 4石1人扶持 御広敷御錠口の開閉を管理した。上級お女中の代参にお供をしたり、上級お女中の用向きを御広敷役人に取り次いだりした。
御末(おすえ) 48 1石1人扶持 「御半下」とも呼ばれた。長局内の掃除、風呂、膳所の水汲み、水を各部屋へ運ぶ、などの雑用をした。御三家、御三卿、御家門の御簾中(奥方)などの賓客を乗物(大奥専用の駕籠)に乗せて、御広敷から御殿向の御三の間まで担いだ。体格、体力がありそうな者が選ばれた。御末頭(5石2人扶持)2人がいた。
御犬子供
(おいぬこども)
120 無 給 15〜23歳位までで、御三之間衆の部屋から下手の長局向の掃除とかの雑用をした。退職後は良縁が多数舞い込んだ。ほとんどが町娘や農家の娘であった。
以下は部屋方(広義では以下の者たちは「御宰」を除いては、全てが「部屋子」とも呼ばれた)・各部屋で個人的に雇われた者たち
局(つぼね) 部屋を取り仕切る役目で部屋方を束ねた。旦那さま(仕える主人をそう呼んだ)の話し相手などもした。給金は旦那さまから頂いた。(以下、同じ)
合之間(あいのま) 部屋の「合の間」というところに詰めて、旦那さまの身の回りの世話をした。御家人の家柄であったが、旗本を仮親として仕えた者もいた。
小僧(こぞう) 「又者」(またもの)とも呼ばれた。14〜15歳位までの少女で、小間使いをしながらいずれは「合之間」になった。
多聞(たもん) 炊事、洗濯、掃除、風呂の支度、などをした。特に人員の制限はなかったが、おおむね5〜6人いた。商家の娘だったり、農家の娘だったりした。
御宰(ごさい) 男の使用人で、広敷向の別棟に詰めて、主に、扶持米を精米業者へ持ち込んだり、受け取ったりした。また、急用とか急な買い物などを言いつけられて平川門(別名・不浄門)を出入りした。
御年寄では3人まで、御中臈では1人を雇うことが許されていた。

※時代により省略されたり兼務した役職もあった。人数も多少の増減があった。

☆御年寄
御年寄は、若君や姫君のお相手役として「中年寄」が置かれたこともあったが、通常は、「上臈御年寄」と「御年寄」とがいた。
※上臈御年寄・・・・・・・・ 御台所さまは公卿の出身者であったため、江戸へ下向の際、御供をしてきたお女中たちで、御台所さまの話し相手や相談相手となった。
                御台所さまの意向で「上臈御年寄」になることができた。
※御年寄・・・・・・・・・・・  「公方さま付」と「御台所さま付」とに分かれていた。
「公方さま付御年寄」・・・序列的には第3位であったが、大奥法度にのっとり大奥全ての監理、監督をする役目で表の「老中」に匹敵する権力を持っていた。
                「公方さま付御年寄」になるには、公方さまの意向(許可)が大きく反映された。
                また、1ヶ月ごとの当番制で御殿向の「千鳥の間」に昼四つ(午前10時)から夕七つ(午後4時)まで詰め、大奥お女中の相談事や外出、外泊などの受付をし許可を出した。「月番御年寄」と呼んだ。
                この時、部屋子も同道し、「千草の間」は12畳。隣に「千鳥の間」10畳があり、襖は開け放たれている。「御右筆掛」(ごゆうひつがかり)が同じく交代で1人がこの部屋に詰め、机の上の帳面に御年寄が受け付けた申請や
                許可の内容などを書き留めた。
                さらに、暮六つ(午後6時)になると、公方さまが大奥へ入られるが、その時、上御錠口で「お帰り遊ばせ」と言って迎える役目もした。そして、夜伽(よとぎ)の御中臈などが簪(かんざし)や寸鉄(すんてつ=尖ったり、
                鋭利な刃物)などを持っていないかの身体検めをした。公方さまが寝所に入られる時、公方さまの世話をしていた御中臈が小さな鈴を鳴らす。そして、寝所に入られると、月番御年寄と2人の御中臈がお茶、お菓子、
                煙草盆などを持ってきた。
                それが終わると、月番御年寄は「次の間」へ下がり用意されている蒲団で就寝をする。余ほどのことがないかぎり公方さまの寝所へ二度と入ることは許されなかった。
「御台所さま付御年寄」・序列的には第3位であったが、御台所さまの指示を各所に伝えるだけで、申請の受付や許可を出す権限はなかった。主に、上臈御年寄と共に御台所さまの話し相手などの役目であった。
                「御台所さま付御年寄」になるには、御台所さまの意向が反映された。
                同じく1ヶ月ごとの当番制で昼四つから夕七つまで御殿向の御台所さまの休息の間近くの「老女詰所」に詰めた。一応こちらも「月番御年寄」と呼ばれた。
                しかし、「公方さま付御年寄」と違って、御台所さまの指示などを各所に伝えるだけで、申請の受付や許可を出す権限はなかった。

☆御年寄の代参
御年寄の神社、仏閣への代参は非常に格式が高い。
豪華絢爛な女駕籠は広敷向の外の別棟に待機している「奥六尺」が担ぎ、表より「書院番」が派遣され、大奥からは部屋子はもちろんのこと、「御使番」や広敷向からは「添番」(そえばん=大奥へ出入りする者の身体検めたり、大奥へ運び込まれる物品の検めなどをした)、「伊賀者」などが同道した。
代参の帰りには、歌舞伎などの芝居見物が許されていたが、とかく問題も多く「絵島・生島事件」なども発生した。

☆御年寄の権力
公方さま付御年寄は、別称「奥の老中」ともいわれ、諸大名や旗本、果ては、町奉行や寺社奉行などでさえ、表では堂々と言えないような、例えば、加増の願い、人事異動、藩内で起きた事件のもみ消し、等の願いの筋を聞き、利にかなったものである場合などは、直接公方さまに進言したり、御側用人や(表の)老中などに働きかけをして便宜を図った。

☆下級お女中の仕事
大奥がまだ寝静まっている夜明け前の明七つ(午前4時)、「御末」(おすえ=御半下・おはんした、とも呼ばれた。定員50人)が長局(ながつぼね)の廊下を音を殺して羽箒(はねぼうき)で柱や鴨居などを掃うことから始まる。10日〜15日おきには「渡し掃除」と呼ばれる大掃除も行われる。
掃除が終わると「水汲み」である。千代田城には当初の頃は戦の籠城戦に備えていくつもの井戸があったが、幕府も安定し大奥の女中たちが大勢になるにつれて、いわゆる、「いじめ」などによる井戸へ身を投げての投身自殺者なども出たため、長局の一角にある「井戸部屋」の一ヶ所のみを使用することとして、その他の井戸には厳重に蓋をして施錠されていた。そして、井戸部屋の井戸の蓋は六つ(午前6時)に開錠される。二人一組で水を汲み上げ、玄番桶(げんばおけ)で、これまた2〜3人で担いで、大奥の全ての各部屋へ配って回った。
この頃には「御三の間」(定員10人)も、御台所さまの朝風呂のために湯と水を運ぶ。さらに、御年寄など上級者の部屋の煙草盆なども拭いた。また、冬場は御年寄など上級者の部屋の火鉢に火種を入れて回ったりもした。
朝食は、御台所さまや上臈御年寄、御年寄など上級者は「上々白米」であるが、御末などが食べる米は「中白米」である。仕事の合間をみながら、こちらも忙しく食べる。1日3合が支給されている。労働の割には粗末な食事しか食べれない。
公方さまが四つ(午前10時)大奥へ御渡り(御成り・おなり、とも言う)になり、「総触」(そうぶれ)で御目見得以上の奥女中が部屋を出ている間に、御年寄らが私的に雇っている部屋子(部屋方ともいう)たちは旦那さま(仕える主人のことをそう呼んだ)の肌着や寝間着などの洗濯をしたりする。
おおよそ五つ(午前8時)頃からは、「呉服の間」(定員10人)で公方さまや御台所さまの衣装をせっせと仕立て始める。昼食はわずかな時間で摂り、午後も針を休めることはできない。針の数は決まっていて、1本でもなくなると全員が仕事を止めて見つかるまで探す。公方さまは別としても、御台所さまは1日に5回のお召替えをされる。しかも、一度袖を通した着物は二度とは着ない。そばにはべる御中臈がいつ何を着たかを帳面に付けて管理をする。従って、呉服の間の者たちは毎日毎日、御台所さまのための着物を仕立てているようなものであった。休む暇がないと言っても過言ではない。
御末は、昼食後の一休みもつかの間で、御末頭の命令で駕籠を担ぐ訓練をさせられた。駕籠は大奥専用で、大名家へ嫁いだ姫君や御三家の御簾中(ごれんじゅう=正室)などが大奥を訪問した時に、御広敷御錠口から御台所さまの住む御殿向(ごてんむき)の御三の間まで乗せるものである。これを前後5人ずつで担ぐのだが、この時、駕籠に尻を向けては失礼にあたるとされて、前進する者は後ろ向きとなって担ぐ。途中でズッコケてはとんでもないことになるので、身体で覚え込ませるため御末部屋の前の廊下で毎日訓練が繰り返された。
この御末は、井戸の水汲みや水桶を配って回る、駕籠を担ぐ、などの力仕事であったので、採用に際しては町方や農家の出自はそれほど重要視はしなかったが、「新参舞」(しんざんまい)という御末頭や古参の者の前で囃し立てる鉦(かね)や太鼓に合わせて全裸になり適当な踊りをさせられた。これには、身体に入れ墨などがないかを確かめる意味と体格検査のためであった。つまりは、背丈は余り問わないが体格が良い者が選ばれた。とは言え、ズングリムックリでも太って見えるため、おのずと背丈の高い者たちが揃った。
御末たちが一日の仕事から解放されるのは、暮れ六つ(午後6時)頃である。夕食を食べて後は寝るだけである。長局向は総二階となっており、一階、特に、「入り側」と呼ばれる区画は上臈御年寄や御年寄、御中臈などの上級お女中たちの居住空間である。そして、下級の者たちは全て二階の部屋であった。六畳ではおおよそ4人。八畳では6人くらいで、各自の箪笥などもあったため、蒲団を敷いて寝る場所としてはそれぞれ一畳くらいしかなかった。雑談などをする者もいたが、ほとんどの者は一日の疲れから早々に床に入った。
一方、御台所さまのおそば近くで御用をしている「御次」(おつぎ)は、御台所さまが床に入られる暮れ五つ半(午後9時)頃まで身の回りの世話などを手伝った。さらに、「御火之番」は皆が寝た後、「お火の番さっしゃりませ」と言いながら廊下を行き来した。
また、「御犬子供」と呼ばれて、主に、公方さまや御台所さまの食事の煮炊きをする者たちは、「公方様御膳所掛」と「御台所様御膳所掛」から翌日の献立を聞いてその準備をしてから、やっと解放される。ちなみに、この者たちは町娘であったり農家の娘たちであったが、大奥へ入る時の「面接試験」では豆腐一丁を手のひらに乗せて「賽の目切り」にするよう申し付けられた。しかし、商家の娘や農家の娘とは言え、大店の娘だったり豪農の娘だったりしたので、実家では全て下働きの女たちが世話をしてくれていて、料理などは一度も作ったことがない。従って、「賽の目切り」の切り方さえも知らない。賽の目切りとは何?。何だか変な形に切っちゃった。包丁を持つ手も危なっかしいな〜。それでも採用試験では「合格」であった。
上臈御年寄や御年寄は40歳代くらいまでは務まるが、日々肉体労働の御末あたりでは、せいぜい27〜28歳までである。中には「頭」(かしら)候補の若干歳のいった者もいたが、空きがなければ出世の道は閉ざされてしまう。結局は「解雇」をされて実家に戻るほかはない。また、御犬子供もせいぜい25歳前後までで暇を出されてしまった。しかし、これらの者たちは実家に戻ると「大奥に勤めていた」と言うだけで、引く手あまたの良縁が舞い込んできた。

☆宿下り(外泊)
上級お女中やその部屋子などには、例え両親が「病」であったり「死亡」した場合などでも「宿下がり」は許されなかったが、下級の「御三の間」、「御仲居」、「御火之番」、「御使番」、「御末」、「御犬子供」たちには、3年目の3月には6日間、6年目には12日間、9年目には16日間(それ以後は16日間より多くはならなかった)の「宿下り」が許された。
当日は、月番御年寄などに挨拶に行くと、
「かねて誓詞のとおり、奥向きの事、勤め向きの事、他人は申すにおよばず、親兄弟といえども決して他言なきように」
と念を押された。
頭や朋輩から贈られた衣装や細工物などの土産を抱えて七つ口の御広敷に出ると、実家からの迎えが来ている。6日間には親類などへの挨拶回りや朋輩に頼まれた神社のお守りや御札などを買い、芝居見物なども楽しんだ。
帰城にあたっては、世話になっているお女中たちへの土産を用意しなければならない。人気役者の錦絵、名物のお菓子、街で評判の化粧品、などと量も多かったが、出費も大きかった。
そのため、実家が裕福でないとこれらの土産を用意することができず、せっかくの宿下りを辞退する者もいた。

☆大奥の給料
幕府の年間予算が盛時で約80万両(640億円)。ところが、大奥の予算は約20万両(160億円)もかかった。国家予算の四分の一が大奥の経費にあてられていた。
※御台所さまの年収はというと「使い放題」。
  その他のお女中はというと、給金には「切米」といわれる、いわば、「基本給」。そして、「扶持」(ふち)呼ばれる使用人を雇うための「加算金」。この他にも「合力金」(ごうりききん=衣装代)、五菜銀(ごさいぎん=副食費)。
  薪、炭、油の現物支給。
※上臈御年寄や御年寄は、約1,200〜1,500万円。左記の金額は「切米」と「扶持」、「合力金」、「五菜銀」などでしたが、その他にも土地(町地)を与えられており、長屋などを造って住まわせての、いわゆる、「家賃収入」もあった。従って、1,500〜
  2,000万円の収入があったと思われる。
※御中揩ナは約932万円。
※御目見得以上の腰元は約144万円くらいだったといわれている。
  当時の大工の平均年収が210万円くらいだったことからみると、実に贅沢な暮らしだったかがわかります。なぜなら、大工は年収の中で衣食住をまかない、家族も養いました。しかし、大奥女中たちは住まいと食事はタダだったのです。
  そして、その大半は化粧道具や着物、簪(かんざし)、櫛(くし)などというファッションに使われた。
※御目見得以下、特に一番下っ端の「御犬子供」と呼ばれた者たちになると「無給」だった。これは「行儀見習い」として町方や農家の娘たちが多かったためである。この者たちは実家から小遣いをもらっていた。
  町方や農家の娘にしては、ただ大奥に仕えるということだけで誇りと名誉だったからである。ただし、衣食住は提供されたので、生活するだけなら、何も不自由はなかった。そして、大奥を退職した後は良縁がワンサカと持ち込まれた。

☆御台所さまの一日
明け六つ半(午前7時)・・・起床。
                 仰臥したままうがいをし、髪を梳(す)いてもらう。その後はすぐに入浴。化粧。
五つ(午前8時)・・・・・・・・・朝食。
                 御休息の間で召し上がる。
                 奥医師による診察。内科は毎日。直接肌に触れることは許されず、腕に糸を巻き、医師2人が左右からやや引っ張るようにしてお脈拝見。腹部の違和感などを訴えられた時は、鼓(つづみ)を小さくして中をくり抜いた機具
                 (聴診器)で着物の上から腹音などを拝聴。舌も拝見。そばにはべる御中臈が記した食事の内容の日記、尿や糞便の回数や色などを記した帳面などを確認。外科、針などの医師は、およそ、3日に一度。
四つ(午前10時)・・・・・・・・公方さまの御成り。
                 公方さまと一緒に、総触れと仏間で拝礼。
九つ(正午)・・・・・・・・・・・ 昼食。
                 御休息の間で一人で召し上がる。たまに公方さまもご一緒される時もあった。
                 以後は自由時間。上臈御年寄や御中臈などと茶の湯や香合わせ、雑談、読書などをされる。
                 御台所さまの周りには、常に、2人の御中臈、御台所さま付き御年寄や別の御中臈など5人、元服をした小姓1人、元服前小姓1人が交代ではべる。この者たちは主に「三の間」で待機し、お呼びがあれば御台所さまの
                 世話をしたり、遊び相手をした。
八つ(午後2時)・・・・・・・・・おやつ。
                 くつろいだ着物に着替える。
                 公方さまは、一応「政務の時間」ではあるが、早くに終わった折などは大奥へ入られ、御台所さまと御休息の間で歓談されたりした。
七つ半(午後5時)・・・・・・・入浴。
六つ(午後6時)・・・・・・・・・夕食。
                 御休息の間で一人で召し上がる。公方さまも大奥へ入られた時は一緒に食事をした。
                 食後は公方さまと歓談されたりして過ごした。
暮れ五つ半(午後9時)・・・ 就寝。
                  一人寝の時は「切形の間」で寝る。
                 御中臈1人は、同じ部屋の下手に寝る。
                 その他に別の御中臈4人が次の間で宿直をする。

☆御台所様の化粧方法
顔面から襟元までを「白粉」で真っ白に塗りたくり、眉を書き口紅を塗った。一見しては、誰が誰だかわからないような化粧法だった。
これは公家の習慣で、素顔を見せるのは失礼に当たる、という意味であった。しかし、その他もろもろの女性たちは素顔でいました。
なお、白粉には「鉛」が多く含まれており、顔に吹き出物などが出てきました。それを隠すためにも、さらに、厚化粧をして隠しました。そして、鉛を肌から吸収することにより、「貧血」や「脳障害による情緒不安定でキレやすい」などの病が発現した方もおられたようです。 

☆御台所さまは30歳で「お褥御免」(おしとね ごめん)
「お褥」とは公方さまと床を一緒にすることですが、30歳になると、公方さまと一緒に寝ることは許されませんでした。
これには、当時の御台所さまの多くが公家出身で健康状態もあまり良くなくひ弱でしたので、もし、妊娠でもされると、今で言う「高齢出産」ということで、身体への影響を考えて避妊の意味も含まれていた。
しかし、お世継ぎを生んでもらうためには、さらに、辛いことには、御台所さまが30歳になると自ら「お添い寝役」として、自分の子飼いの女中を公方さまに差し出しました。若い娘で10歳という記録もあるようです。
自分の子飼いのお女中を差し出すのは、自分の権勢を保つためでしたが、年に一度の「お花見の会」などで、公方さまが「あの者の名は?」と側近に洩らすと、イコール「お添い寝役」決定でした。
こぞって、器量良しに豪華な着物を着せて公方さまの近くをそぞろ歩かせたりしました。とにかく、お目にとまるよう必死だったのです。大奥の派閥争いは熾烈だったのです。
また、そうした行事のない時でも、側室を薦めるときには「お庭お目見得」がおこなわれ、候補者に庭を歩かせ、公方さまは障子の陰から覗き見て、気に入った者がいると「夜のものを取らせよ」とお声がかかった。
でも、遠くから綺麗に着飾ってお目にとまっても実際に床に入ったらブス・・・。どうしましょう。「ほかに床を」の一言でお役御免になってしまったのです。ああ可愛そう。

☆おめかけ候補も存在した
おめかけ候補は実際に存在しました。
候補となるのは御中攝Eに限られていました。御中揩フ多くは旗本の娘でしたから、行儀、作法を身に付けており公方さまのお声がかかっても、すぐに十分なお相手ができた、というわけです。
ちなみに、セックスの御用をつとめた翌日からは「お手付中掾vと呼ばれ、独立した部屋と女中が与えられました。おめかけ候補の中でもお声がかからない御中揩ヘ「お清の中掾v(おきよのちゅうろう)と呼ばれた。
また、上臈御年寄や御年寄などの私的使用人である部屋子、下級お女中などにお手が付いた時は、翌日からは「御中臈格」となった。そして、懐妊までは元の旦那さま(仕える主人のことを、そう呼んだ)の部屋に起居したが、「御内証の方」(ごないしょうのかた)と呼ばれ、部屋では旦那さまに次ぐ座となり、毎朝の総触れにも顔を出した。懐妊をして初めて部屋を与えられた。

☆大奥の主な行事
大奥は男子禁制。将軍のお世継ぎをもうける、というだけの空間に1,000〜2,000人もの女性たちがひしめいていた。
御台所さまや上臈御年寄り、御年寄りなどのように多少の自由時間がある者もいたが、その他のお女中は、それぞれに役目が決まっており、日々これ忙しい毎日であった。
当然のことながら、陰湿な「いじめ」などの事件もあったが、そうしたお女中たちの楽しみは毎月のように繰り広げられる「行事」という名の息抜きであった。

年頭の祝儀 1月1日 五節句の一つ。御台所さま、若君、姫君、上臈御年寄、御年寄、御中臈など御見得以上のお女中が揃って公方さまに拝謁し、新年のご挨拶を申し上げた。「一統御礼」と言った。
御台所さまは、3日までの毎日、朝七つ(午前4時)に起きて、着替えや薄化粧をした後、「入側」(いりがわ)と呼ばれる御殿向の廊下の中央に置かれた石が三個入った盥(たらい)の前に座り、対面の左右に御中臈2人が座る。御中臈の1人が「君が代は、千代に八千代にさざれ石の」と和歌の上の句を詠まれると、御台所さまは直ちに「巌(いわお)となりて、苔(こけ)のむすまで」とつなぐ。別の御中臈がそばに用意してあった箱型のやや小さい水入れから柄杓(ひしゃく)で水を注ぎ、御台所さまはその水で手を清めた。新年のご挨拶を神さまに捧げると同時に無病息災などを祈念したものである。
ちなみに、「君が代」は現代では国歌として制定されているが、古今和歌集にあるめでたい和歌であった。
初(そめ)の日 1月2日 掃除初め、書初め、読み初め、裁縫初めなど大奥の仕事はこの日より始まった。だが、御末衆の水汲みと各部屋への配達は元旦も休みなく行われた。
祝儀の日 1月3日 御三家、御三卿の御簾中(奥方)が御台所さまを訪れ、新年のご挨拶をし、贈答品を差し出した。この時、御広敷御錠口から御殿向の御三の間まで御末衆が前後5人ずつで大奥専用の駕籠を担いだ。(下級お女中の項参照)
人日の節句、及び、
七草の日
1月7日 五節句の一つ。人日の節句とは、中国の前漢時代に東方朔(とうほうさく)が記した占いの書によるもので、正月1日には鶏(にわとり)、2日は狗(うぬ=犬)、3日は羊、4日は猪(いのしし、あるいは豚)、5日は牛、6日は馬、7日は人を神様に捧げて占い、その日が晴天であれば「吉」。雨であれば「凶」の兆しがあるとされて、邪気(じゃき)を祓(はら)うために7種類の穀物を食べて一年の無事を祈った行事である。公方さまが中奥でこの行事を執り行った。
御殿向の御台所さまは朝餉に白粥を食べた後、瀬戸焼の壺に入れられた春の七草をしぼった露で爪をしめらせ、仕える御中臈に切ってもらった。七草のめでたい露にしめらせることにより、爪も切りやすくなり、その年に怪我のないように願った。春の七草は、セリ、ナズナ、ゴギョウ、ハコベラ、ホトケノザ、スズナ、スズシロ。
鏡餅曳き 1月7日 御三家、御三卿、諸大名から年末に献上された紅白の鏡餅を分配する日。上級お女中では、この日だけ大奥へ入ることが許された御宰(ごさい)が各部屋へと板に綱を取り付けた用具で運んだ。御宰のいない下級お女中たちの部屋には御坊主(高齢の坊主頭をした女性)衆が配って回った。
鏡開き 1月11日 八つ(午後2時)には、御台所さまは鶴亀や松竹梅の描かれた黒塗りの金蒔絵の椀でオユルコ(お汁粉)を食べた。お女中たちも各部屋でオユルコを食べた。
新参舞 1月11日 節分(12月30日)か1月11日に毎年、新規採用する「御末」衆の歓迎会。歓迎会とは名ばかりで、新規採用予定者は頭(かしら)や古参の者の前で鉦(かね)や太鼓のお囃子に合わせて、全裸で踊らされた。(下級お女中の項参照)
初午(はつうま) 2月初午 稲荷神社の祭礼で、御年寄衆が城内の稲荷神社に代参をする。
午後からはお御台所さまを初めとする大奥お女中全員(御目見得以上も以下も)が能舞台の前に集まり、御次衆や御三の間衆の唄、踊り、音曲(琴や三味線など)の宴が催された。
事納め 2月8日 正月行事の全てが終わる。「呉服の間」衆が御殿向に集まり、御台所さまを中心として針供養の儀式が行われる。その後、御殿向の二の間や三の間の襖が外され、素通しになった広い部屋で御目見得以上のお女中も無礼講で料理が振る舞われ、御次衆や御三の間衆による歌舞、音曲、狂言、などを楽しんだ。
釈迦の涅槃会(ねはんえ) 2月15日 御目見得以上のお女中が、御殿向の御台所さまの休息の間、二の間、三の間などに集められ、御台所さまが折に触れて御三家、御三卿、御家門、諸大名などから献上された反物、花器、茶器、などの品々を巡っての大抽選会が催された。豪華な品々のため、当たりがでるごとに歓声が響き渡った。
御年寄衆は寛永寺と増上寺へ交代で代参をする。(御年寄の代参の項参照)
雛祭り 3月1日〜4日 五節句の一つ。「桃の節句」、「上巳の節句」(じょうみのせっく)とも言われた。
1日、公方さまから御台所さまや姫君に雛人形を贈る。大奥での公方さまが休息される「御座の間」と、御殿向の御台所さまの「御休息の間」にそれぞれ十二段の雛人形を飾る。御次衆6人が雛飾りの役を仰せつかった。夫婦雛は毎年衣装を改め、他の雛は傷(いた)んだものを除いてすべが飾られたため、段飾りだけでは間に合わず、段の下に緋毛氈(ひもうせん)が敷かれ、その上にも飾られた。
御三家、御三卿、御家門の各家から続々と縁起物が届けられ、雛段の前で披露された。家格順に並べられ、一日として同じ品はなかった。
3日には、表では、御三家、御三卿、御家門、江戸在中の譜代大名、旗本は大手門から、外様大名は内桜田門から城内に入り、表大名と溜之間詰大名と旗本は正式な玄関である御玄関から、奏者番、町奉行、寺社奉行、雁之間詰大名、菊之間詰大名は中之口御玄関、老中、所司代、大坂城代、若年寄は御納戸口御玄関(別名「老中口」)、御三家、中奥役職者は御風呂口御玄関から城中へ入り、公方さまに祝辞を述べた。
3日、奥向では、御台所さまは上臈御年寄、御台所さま付御年寄、御中臈らを引き連れて雛飾りを観賞される。全員がお長髪で衣装も白縮緬(しろちりめん)の間着、黄金綸子(りんす)の表着、赤地の打掛を羽織ることとなっていた。御台所さまはしばし観賞した後、昼餉を召上り入浴をする。髪形は今度は「片外し」(かたはずし)に結い、割合気軽なお召し物に着替えて休息の間の隣の「二の間」でくつろがれる。この間に御目見得以上のお女中全員に白酒と御料理が下された。
3日、夕餉の刻限になると、公方さまも大奥へお渡りとなり、御次衆が鉦(かね)や笛などの鳴り物を奏で、それを合図に、公方さま、御台所さま、側室、若君、姫君などが御座の間に集まり、将軍家だけの会食会が催された。
1〜4日、御台所さまの御休息の間へは御目見得以上のお女中が入れ替わり立ち代わり見物に訪れた。しかし、日頃の鬱憤(うっぷん)で懐剣などを持ち込んで暴れたりされては一大事であるので、身体検(あらため)を御次衆が交代で行った。
4日の午後になると、雛飾りを仰せつかった御次衆6人があわただしく雛人形の片づけに追われた。
花見 3月中 吹上庭園に幔幕を巡らせ、広敷向の「伊賀者」が表の男子が覗き見たり、入り込まないように各所で警備にあたった。たった1日だけのための池なども造られ錦鯉などを泳がせた。
また、各部屋の勝手方の者(多聞)たちによるおでん、田楽、団子、餅、蕎麦などの模擬店も出され、出店した者たちの小遣銭となった。およそ23ヶ所設置されたという。
主に、御台所さまの前では御次衆や御三の間衆の芸達者な者たちによる唄、踊り、琴、三味線、などが入れ替わり立ち代わり披露された。
前日には、御三家、御三卿、御家門などの御簾中(奥方)や姫さまなどへも使いが走り、宴への出席を伝えたが、大概の場合それらの方々の出席はない。手土産として高価な品々を持参しなければならず、さらには、正月依頼の事あるごとの供物の献上で各家でもかなりの出費で台所事情は決して楽ではなかったためである。
お女中たちもこの日ばかりは、御目見得、御目見得以下に関係なく、上下の立場から解放されて、無礼講で存分に食べて酔い、唄や踊りに興じた。
お女中の夕餉も各部屋ごとに設えられた緋毛氈の上で食し、陽も落ちると提灯(ちょうちん)、雪洞(ぼんぼり)、松明(たいまつ)なども焚かれ夜遅くまで楽しんだ。
五十三次 3〜6月 諸大名家の姫さまを大奥庭園内に招いて催す模擬店形式のパーティー兼即売会。御台所さまが各家の姫さまたちを監理、監督しているという権威を見せつける所業の一つでもあった。
家格により姫さま方の訪れる順番も決まっていた。
御台所さまにご挨拶をした後、庭園へ連れて行かれ、御客会釈(おきゃくあしらい)が半ば強引に姫さまたちに模擬店の品々を買わせた。
姫さまたちは何不自由なく暮らしているので買いたい品物は何一つない。しかし、御客会釈の強引さに負けて、欲しくない品物を次々と買わされた。さらには、姫さまたちは相場を知らないので、法外な価格で売りつけられた。大奥にとっては多大な臨時収入であった。
卯月八日 4月8日 灌仏会(かんぶつえ)。花祭り。
御殿向では、御台所さまや上臈御年寄、御台所さま付御年寄、御中臈たちが集まって、約6分(2cm)角で約2寸(60cm)位の白木の柱を4本立て、屋根は色とりどりの花で飾られ、内側に浴仏盆(よくぶつぼん)と呼ばれる銀製のフライパンほどの深さの盆に甘茶を入れて置く。その真ん中に誕生仏(たんじょうぶつ)と呼ばれるお釈迦さまを模した小さな仏像を据える。浴仏盆の甘茶を誕生仏にかけて無病息災を願う。その後は皆で甘茶を飲むことで甘茶は縁起物でもあり、植物の汁でもあるので健康にも良いとされた。
一方、長局向のお女中たちには、鑑札を持っている大奥御用達商人たち、小間物屋、お茶屋、呉服屋、お菓子屋、などが集まり、七つ口を潜った大広間で模擬店形式の展示即売会が開催されて賑わった。
端午 5月5日 五節句の一つ。表では、御三家を初めとして旗本にいたるまで式服姿で登城をし、公方さまに祝辞を述べた。御三家、御三卿、御家門から大量のチマキが献上された。
大奥では、御目見得以上のお女中が公方さまに端午の祝儀を申し上げ、柏餅が下賜された。
その後、公方さまは、御台所さまや上臈御年寄、公方さま付御年寄、御中臈などと連れだって吹上庭園の一角に咲く菖蒲の花を観賞された。
端午の節句の由来は、一説には、古来中国では5月を午(うま)の月と呼び、端(たん)は物の始めを意味した。当初は、5月の最初の午の日を「端午」の節句としていたが、午の文字が「五」の字に似ていることから、五の並ぶ五月五日が吉日とされるようになったと言われている。
また、この時期に戸外に出ると、菖蒲や蓬(よもぎ)などが咲き乱れていることから、菖蒲の汁を絞って「菖蒲酒」などを呑み、蓬人形を家の門口に飾って不老長寿や厄除けを願った。
しかし、奈良時代にこの伝統が日本に伝わった頃には、三月三日の「雛祭り」と同じように女の子の節句として伝わってしまった。これには、日本ではこの時期になると、男は戸外で働くが、女は家に籠って田植えの前の穢(けが)れを祓うという「五月忌」(さつきいみ=田植えなどで多忙なため、結婚式などを挙げてはいけない月)の風習と結び付いたと考えられる。
このため、宮中などでは女官たちが菖蒲の花を髪飾りとしたり、蓬をたくさん採取して「蓬玉」を造り、女官同士が贈り合ったりした。
やがて、鎌倉時代あたりからは、「菖蒲」は「尚武」(しょうぶ=武芸を重んじること)とも「勝負」に通じるとも言われることから、男の子の節句として定着した。
山王祭 6月15日 日枝神社の祭り。「天下祭」(てんかまつり)とも呼ばれ、将軍家の産土神(うぶすながみ=守護神)の祭り。3代将軍家光が幼くして病に伏したおり、乳母である春日局が自らの命にかえて家光の病気平癒を山王日枝神社に祈願したことから、家光は後に山王祭を天下照覧の祭りと定め、幕府からも援助が行われた。当日は 半蔵門が開かれ神輿(みこし)や山車(だし)は門を潜って城内の吹上庭園でその雄姿を見せた。神輿は3基、山車は町内ごとに出され、およそ30台。山車の天辺にはその町内で一番の美女を乗せて他の山車と競った。
公方さまと御台所さまは、特設ステージが造られてそこから観賞をされた。
しかし、9月15日の「神田明神祭」と町内の氏子の大半が重なっていたため、1年に2度の出費は大きな負担であった。そのため、天和元年(1681)からは山王祭と神田祭を交互に行うこととした。
嘉祥(かじょう) 6月16日 表では、大広間で「片木盆」(へぎぼん)と呼ばれる、縁取りが桐で底が和紙でできた浅い四角の盆に杉の葉を敷き七種類のお菓子を載せてあり、登城してきた御三家、御三卿、御家門、江戸在中の諸大名、旗本などに下賜された。公方さまは御三家、御三卿、御家門の方々には直接手渡されたが、その他の大名や旗本などは自分で取って持ち帰り自宅で食べた。
この嘉祥の起こりには諸説あるが、その一つとしては、仁治年間(1240〜)頃、後醍醐天皇の即位直前に家臣が「宋」(そう)の嘉定銭(かじょうせん)16文で16種類の食物を揃えて御膳に供したところ、大変なお喜びで、即位後も毎年この日に餅などを奉ずるようになり、吉日と定められたと言われている。
江戸時代になっても、この吉日を祝う習慣が残り、将軍家もそれにならったものである。
家康の頃は、浅路飴、武蔵野、源氏雛(げんじびな)、味噌松風、豊岡の里、桔梗餅(ききょうもち)、伊賀餅、の七種類であったが、時代とともに、饅頭、おこし、羊羹(ようかん)、など種類はさまざまとなった。
大奥でも御台所さまより、御見得以上のお女中に餅などが配られた。
土用 6月下旬 大奥の御座の間で公方さまと御台所さまが、御見得以上のお女中から祝辞を受けた。
御三家、御三卿、御家門、諸大名から「暑中見舞」の品々が献上された。
七夕(たなばた) 7月7日 五節句の一つ。表では総登城が行われ公方さまへ祝辞を述べた。
中奥の公方さまの休息の間である「御座の間」の縁側に笹飾りを立て、白木の三方に団子や饅頭などが盛られて供えられた。
大奥お女中たちは、各部屋ごとに笹飾りがされて、短冊に和歌などが書かれて吊るされた。
盂蘭盆会(うらぼんえ)、及び、中元 7月13日〜
15日
公方さまと御台所さまは、毎日朝夕の2回御仏間で拝礼された。
畳替え 7月20日過ぎ 江戸の街の畳職人が全て集まって、大奥の畳の全ての表替えをした。1日で終えることが決まりであった。
これは、大奥上級者たちは打掛などを引きずって歩く。畳がほつれていては、打掛などが破れてしまう恐れがあるためであった。
八朔(はっさく) 8月1日 表では、家康公が天正18年(1590)に時の関白豊臣秀吉より関東の地を与えられ、江戸へ初めて入府した日であり、大変重要な日であった。
御三家、御三卿、御家門、諸大名、旗本などがそろって「白帷子」(しろかたびら)姿で登城し、公方さまに祝辞を述べた。
御三家の尾張家からは「鮎」、紀伊家からは「鯛」、水戸家からは「初鰹」、が酒の肴として大量に献上された。
この日は、公方さまも御台所さまも1日白帷子姿で過ごし、夜になると、公方さまが大奥へお渡りになり、大奥のお女中すべて(御目御得以下も含めて)が御三家からの肴を食しながら酒を酌み交わし、篝火(かがりび)の焚かれた大奥の能舞台で宝生流(ほうしょうりゅう)の能、鷺流(さぎりゅう)の狂言、御次衆、御三の間衆の唄、踊り、などを楽しんだ。
また、農家では「田の実の節句」とも呼ばれ、欠けた月が蘇(よみがえ)るという中国の故事にならって、早稲米の初穂を刈り取って神に捧げ、近づく大風の季節を無事に乗り切れるようにとの「豊作祈願」の日でもあった。
さらに、この日より「八朔」(はっさく)といみかんが食べられるとされた。
中秋 8月15日 御台所さまは、朝の御小座敷での公方さまへのご機嫌伺い仏間での拝礼が終わると、御小納戸部屋で身軽な着物にお召替えをし、御殿向の御納戸部屋前の庭で、草花を根っ子から引き抜かれる。これを「お根引き」(おねびき)と呼んだ。この草花は「お月見」で供えられた。
「お根引き」の意味は、大地を踏みしめ地に足がついた生活が送れるよう、ひいては、将軍家が末永く安泰でありますようにとの願いが込められていた。
お女中たちも各部屋ごとに「お根引き」を行い、花を飾り、月見団子と一緒に名月に供えられた。
また、市井では、里芋が一番美味しい時期でもあり、里芋も一緒に供える風習もあった。
重陽(ちょうよう) 9月9日 五節句の一つ。「菊の節句」とも呼ばれた。
表では総登城が行われ、公方さまへ祝辞を述べ、各種の祝いの品々が献上された。一通りの祝辞が終わると、公方さまは大奥の御小座敷で御台所さまと長寿を願う黄菊の花びらを浮かべた「菊酒」を嗜まれた。
御目見得以上のお女中には酒と料理の詰め合わせが下され、御目見得以下のお女中には丸餅が下された。
「重陽」とは、中国の陰陽思想(おんみょうしそう)によると、九は陽の数字で、一桁の数字では一番重いとされ、九と九の重い数字が重なり、さらに、陽と陽とが重なることから吉日とされたものである。
神田祭 9月15日 神田明神の祭礼。6月15日の山王祭と一年交代で行われ、山王祭と同じように城内の吹上庭園でその雄姿を披露した。
観菊 9月20日前後 吹上庭園の一角の花壇に咲く菊花と、近くには諸大名から献上された自慢の菊の盆栽が家格順に五段の棚に飾られた。
御台所さまや上臈御年寄、御台所さま付御年寄、御中臈たちはめでたい歌などを詠み品定めをした。また、「重陽」の日と同じく、公方さまや御台所さまは菊酒を嗜まれた。
お女中たちは上下に関係なく観菊を許された。
玄猪(げんちょ) 10月初亥 公方さまより姫さまたちに「亥子餅」(いのこもち・「玄猪餅」(げんちょうもち)とも呼ばれた)が配られた。姫さまたちは亥の刻(午後10時)頃に食した。
表では、御三家、御三卿、御家門、諸大名、町奉行などの役職者が夕七つ半(午後5時)に熨斗目裃(のしめかみしも)姿で登城を命じられ、公方さまから一人ひとりに赤、白、黄、胡麻、萌黄(もえぎ)の五色の「鳥子餅」(とりのこもち)が下賜され、暮六つ半(午後7時)過ぎに下城した。
「亥子餅」とは餅の表面に焼きゴテで「猪」に似せた模様を付けたもので、猪の多産にあやかって子孫繁栄、無病息災を願ったものである。
大奥のお女中には上下に関係なく、御台所さまより「鳥子餅」が下された。この「鳥子餅」は、鶴の卵の形をしており不老長寿や子孫繁栄を願ったものであった。
また、「火入れの日」でもあり、お城では大手門、桜田門、半蔵門、下乗所(げじょうしょ=各門に「下馬所」という立て札が立てられており、大名たちはここで駕籠や馬から降りた)などに釣瓶式の大篝火(おおかがりび)が焚かれ、夜遅くまで燃え盛った。
冬至 11月 御台所さまより、御目見得以上のお女中に「うどん」、「唐ナスの揚げ物」、「刺身」が下された。御目見得以下のお女中や各部屋の部屋子たちには公方さま付御年寄と御台所さま付御年寄の共同で購入した同じ物が下された。
煤払い(すすはらい) 12月1日〜
12日
1日から12日まで、御次衆と御三の間衆の20人ずつが交代で、各部屋を除く御殿向の御台所さまの居室や大奥内の多くの廊下、空き部屋、柱、鴨居、畳などにはたきをかけ雑巾がけをした。
各部屋でも、部屋子や多聞(たもん・大奥の役職参照)たちで大掃除に余念がなかった。
12日の夕方に大掃除を終えると、御台所さまより御次衆と御三の間衆には太物(反物)と手拭が下された。
畳替え 12月13日
7月の畳替えと同じく、大奥内全ての畳表の張替をした。
また、大奥の各部屋へ御留守居役より肴が振る舞われ、夜には各部屋で酒盛りが行われた。
納戸払い 12月28日 大奥のお女中全員に、御台所さまが着古した着物が下げ渡された。「古着」と言っても、御台所さまは日に五度のお召替えをされるが、一旦袖を通した着物は二度と着ることはなく、すべて新品同様であった。
また、この日には御留守居役の指示により大奥の要所要所に「注連飾り」(しめかざり)が飾られた。
節分 12月30日 現代では2月3日がほとんどであるが、本来は「追難」(ついなん)の行事で年末に行われ、翌年の無病息災を願った。
表の上御錠口(お鈴口)近くに詰所のある御留守居役が熨斗目長裃(のしめながかみしも)を着て年男となり「福は内」とだけ叫んで、各部屋ごとに豆まきをして回った。まき終えるのを見計らって男に飢えたお女中連中が蒲団で「簀巻き」(すまき)などにして、中々部屋から出さないようにいたずらをしたため、御留守居役も役目を嫌がり表の若い御小姓などに代理をさせたりもした。
大晦日 12月30日 旧暦では12月は30日までしかなかった。
公方さまが夕刻に御小座敷に入られ、御台所さまも御小座敷に行かれ、二人が並んだ席に、大奥の上臈御年寄、御年寄衆、御中臈衆などが伺い候して、除夜のお祝辞を述べた。

☆将軍夫妻の会話
公方さまも「表」では威厳正しく厳格であったが、大奥での夫婦同志の会話となると、いたって、庶民と変わりがなかった。
公方さまは自分のことを「こちらは・・・」とか「自分は・・・」と言い、御台所さまは「私は好きだ」とか「私は嫌い」と何も変わったところはなかった。
また、お付きの者にも「遊ばせ言葉」と言って、公方さまのことを「御上」(おかみ)とか御台所さまのことを「御前」(おまえ)などと呼ばせたりもした。

☆ペットが大流行
下級お女中たちは日々これ忙しい毎日であったが、御台所さまや上臈御年寄、御年寄、御中臈、などは行事のない日は暇を持て余していた。そんな時に慰みになったのがペットの飼育であった。ネコ、小型犬、金魚、小鳥など。
特にネコが多かった。ネコに子どもが生まれると、それを下級お女中などに与えて、自分の権威を高めていくと同時に、人間関係の潤滑油でもあった。
13代将軍家定の継々室であった天璋院(篤姫)もネコを飼っていたが、この頃になると歴代の将軍さまの忌日(命日)が多くなり、その日は大奥でも精進料理だったため、ネコの餌のためだけに「ドジョウ」、「鰹節」などを買い求めたが、1年間に25両(約300万円)余りかかったという記録も残されている。

☆大奥の廊下で御台所様やお中揩ニ出くわした下級お女中は・・・
下級お女中がバッタリ廊下で御台所さまなどと出くわしてしまった時は、女中はバタッと腹ばいになり、顔を床に押し付けて、ただただ御台所さま一行が通り過ぎて行くのを待った。
これには、「下品な者」が御台所さまなどの目に入らぬようにとの仕来たりだった。
しかし、御台所さまなどが廊下で立ち話などをされていると、さあ大変。急用などでどうしてもという時は、腹ばいになったまま後ずさりをして、廊下の曲がり角などに身を隠してから立ち上がり、別の廊下を通って御用に走った。

☆御台所さまのご用場(厠・かわや=トイレ)
御台所さまの「ご用場」は2畳で畳が敷かれてある。ご用場へ入られる時には必ず御中臈1人が供をする。中央に長方形の木枠があり御台所さまは御中臈の介助を受けながらまたがって用を足す。
介助に入った御中臈は御台所さまの小便の色とおおよその量を見届け、また、大便も色、固さ、おおよその量を見届けて、一日の回数なども細かく帳面へ記載する。翌朝の奥医師の診察の際にこの帳面を見せることとなっていた。
拭き取る紙は「吉野紙」(よしのがみ)で、庶民が使う「浅草紙」(再生紙)とは違ってふっくらとしておりゴワゴワとしたものではない。
木枠の下、約1寸(30cm)のところに金網がある。これは、用足しの際に誤って櫛(くし)や簪(かんざし)などを落とされた時、御中臈が手を差し入れて拾い上げるためである。しかし、糞便などで汚れてしまっている場合はそのまま捨て置かれた。何せ、御台所さまの年収は「使い放題」であるから、また別の新しい物を買えば良いからである。
便壺の深さは、およそ6尺(1.8m)〜7尺(2.1m)であり、汲み取り用の横穴はない。通称「万年穴」とも呼ばれた。
ご用場には常に臭い消しのため「お香」がたかれていた。
将軍が代替わりをすると、当然、御台所さまも御殿向の居室での入れ替わりがある。
前御台所さまが使用していた便壺には土を平になるまで入れて、分厚い板で蓋をされる。そして、前御台所さまが使用していた御用場の部屋も閉鎖された。
新しい御台所さまには、また、新しい穴を掘り、御殿向の別の場所に御用場の部屋が新しく造られた。
ただし、13代将軍家定の継々室であった篤姫(天璋院)は、幕末も近い頃であったため、大奥内の序列や部屋割りなども崩れており、14代将軍家茂の正室和宮には他の部屋を与え、御殿向には天璋院が住んで権勢を振るっていた。

☆奥女中たちのご用場
御台所さま以外のお女中のご用場は1畳で板敷。
上臈御年寄や御年寄、御中臈などの上級お女中では各部屋ごとに、その他は所属する部屋ごとに1〜2ヶ所あった。
上級お女中は、御台所さまと同じく「吉野紙」を使ったが、その他のお女中は「浅草紙」であった。
便壺の深さはやはり6尺位あったが、こちらは汲み取り式で横穴があった。葛西村の百姓でもあった権左衛門に独占権が与えられており、お堀伝いに「葛西舟」(別名「汁こぼし」)という小舟をあやつって定期的に汲み取りに回った。
大奥お女中は贅沢な食べ物を食べていたので、最上級の下肥として自らの田畑で使用するとともに高値で取り引された。
その御礼として、権左衛門はお城で消費される「たくあん漬」を無償で一手に納めていた。

☆大奥の盆暮れ
大奥の上級お女中たちには、盆と暮れになると、諸大名や御用達商人たちから盛大な付け届けが届いた。特に、公方さま付御年寄などは多大で豪華な品々であった。今日からすると「賄賂」とも思われがちだが、「礼物」(れいもの)と呼ばれて、贈る方も受け取る方も堂々としていた。(御年寄の権力の項参照)
当然、自分たちだけでは消費し切れないので、「献残屋」(けんざんや)という古物商を呼んで引き取らせ現金化した。その金額は幕府から与えられる俸禄をはるかに上回った。これを下位のお女中たちに配って、さらに自らの権勢を拡大していった。

☆奥女中たちのお買い物
大奥のお女中たちは、一切の外出が禁止されており、自ら買いに行くことは出来ない。そこで、御広敷の七つ口の「勾欄」(こうらん=手すり)に注文の品と名前を書いて貼りつけて置く、御広敷用人や添番などが確認をした上で、御広敷向に詰めている「碇屋藤右衛門」(いかりや とうえもん)という御用商人が紅、白粉、小間物、など何でも買いそろえてくれた。支払いは毎月晦日に合計金額だけを知らされて支払った。多少のピンハネもあったようだ。
また、上級お女中の中には御宰(ごさい・大奥の役職の項参照)に密かに頼んで買い物をしてもらったりした。この御宰は口が固いことが有名で「言わない」に引っ掛けて「岩内」とも呼ばれた。
例えば、御宰を両国の四ツ目屋まで行かせると、それはとりもなおさず、「秘具」(大人のおもちゃ)であるが、御宰は大奥の御用をする者であるので、それなりの服装であり、江戸っ子には奥女中の買い物とすぐに知れてしまうのが玉に瑕(きず)と言えば玉に瑕であった。

☆大奥の事件簿
★絵島生島事件の謎と真実
7代将軍家継の生母「月光院」と前将軍家宣の正室「天英院」とが、大奥を舞台に勢力争いをしていた。月光院は、家継の学問の師である新井白石や御側用人間部詮房(まなべ あきふさ)らと親しいことから、当時は月光院が優勢であった。
絵島は、この月光院に取り立てられて御年寄となったのである。出自については、御家人白井平右衛門の妹(または、娘)とする説が多いようであるが、大奥へあがるまでの経緯(いきさつ)については全く謎と言って良い。
当時の絵島の年齢は、没年から推測して33歳前後だったと思われる。
事件の発端は、正徳4年(1714)1月14日、前将軍家宣の御霊(みたま)を供養するという名目で、御中臈の宮地、木曽路などを引き連れて芝増上寺へ代参に行った。
代参には表の「書院番」などが付き添ったりするが、本人としても、また、部屋子たちにとっても、普段は窮屈な大奥暮らしから見れば、いわゆる「外の空気をいっぱいに吸うことのできる」気晴らしの一つでもあった。こうした機会を利用しての彼女たちの楽しみは、寺への挨拶は早々に切り上げての「買い物」、「親族や縁者に会う」、「芝居見物」などであった。受け入れる寺でも法事は型通りにサッサと済ませ、できるだけ彼女たちの自由時間をつくることに気を配った。こうしたことは慣例となっており、特に咎めだてされるものではなかった。
また、男に飢えた女たちと、寺の禁欲生活を強いられる坊主との出会いは、時には形式的な一期一会でない場合もままあった。後述する「御使番と坊主の心中事件」などと表面化するのはごくごく一部であり、特に、徳川将軍家の菩提寺である芝増上寺や上野寛永寺などでは露骨にボロを出さないように隠匿に躍起だったとも言われている。
無事代参を終えた絵島一行は、およそ130人余りと言われる大行列をなして木挽町(こびきちょう)の芝居小屋「山村座」へ訪れた。もちろん、お目当ては当時江戸市中で評判であった役者「生島新五郎」の芸を見るためであったが、ここで山村座の座元山村長太夫の御白洲での証言で、事前に十分な打ち合わせがあったようである。二階席を全て貸し切りにしたり、絵島への接待はもちろんのこと、随行したお女中たちにも130個余りの弁当が注文されていたからである。
絵島らは山村座に入ると二階の50間余りもある桟敷席に通され、芝居見物をしなから酒宴を催した。絵島を初めとして御中臈の宮地、木曽路、表使の梅山、御使番の吉川、神津、などという煌びやかな衣装に身をまとった彼女たちは、一階席の庶民たちから見れば芝居見物そっちのけの一大絵巻だったにちがいない。
座元の長太夫をはじめ座付きの狂言作者中村清五郎、そして、手の空いた役者たちが次々と挨拶に訪れ絵島らをもてなした。生島は舞台の関係上訪れてはいなかったとも言われているが、酒食は佳境に入り、ハメを外した笑い声や大声での雑談の数々に表から派遣された書院番などが見張りをしていたが、余りの醜態さに注意をしたら、かえって絵島に叱りとばされたとも言われている。
しかし、問題はここから始まった。一通りの芝居見物を終えると、座元の長太夫の案内で廊下続きの茶屋へ絵島らは通された。再び、ドンチャン騒ぎが行われたようであるが、実はこの騒ぎが芝居見物中の騒ぎと誤って伝えられた可能性がある、とも言もわれている。
さらに、この時伊達役者である生島と密通したと多くの書物などには書かれているが、130人もの大所帯の中で果たしてそのような「情交」がありえたのであろうか。それは、この時ではなく側近2〜3人でのお忍びならともかく、このような大人数の中でたとえ個室に通されたとしても隠れようがない。大きな疑問点なのである。では、2〜3人だけの「お忍び」は出来たのであろうか?。実は、これも大奥法度や慣例から言って「極めてむずかしい」ことなのだ。
しかし、事実としては、絵島は代参の日よりも前に生島に何度か会っているのだ。下級のお女中に変装でもして大奥を抜け出したのであろうか。男女の関係はこの時に発生したらしい。
この大奥脱出の陰に見え隠れするものは、特に、御年寄絵島のような立場になれば、山村座の繁栄を願う座元の長太夫はもちろんのこと、大奥の利権を得ようとする呉服商、炭屋、材木商、小間物商などの利権の獲得がからんでいるからである。
こうした多くの利権を得ようとする商人たちによる綿密な打ち合わせにより、絵島は大奥を抜け出すことができたのかも知れない。
お調べ書き調書などをかいま見ると、浅草の商人拇屋(つかや)善六や出羽屋源七の手口では、彼らはすでにこの事件よりも1年前位に絵島と親しい奥医師の奥山交竹院や小普請奉行の金井六左衛門に頼み込み絵島を山村座へ連れて行っているのである。
「代参」以外の名目が何であったかは触れていない。が、ともかく、「情交」を結ぶとすればこ時しかないのである。
ただし、幕府側としてもこの後の大奥の乱れや世間体を考慮してか、表向きは山村座へ130人余りで押しかけての遊興三昧を口実にして、老中秋元但馬守喬知(たかとも)の指示で、江戸中町奉行坪内定鑑(さだかね)、大目付仙石丹波守久尚((ひさなお)、目付稲葉次郎右衛門正武(まさたけ)が取り調べに乗り出した。この時、盛んに情報収集にあたったのは中町奉行所の同心たちだったとも言われている。
取り調べは2ヶ月弱で終了し、3月5日、判決が下された。
絵島は、当初「遠島の罪」であったが、おそらく、月光院の執り成しがあったであろうことから、罪一等を減じられ(信州)高遠藩内藤清枚(きよかず)への永のお預けとなった。
この事件に関係して、生島新五郎は三宅島への流罪。山村座はお取り潰し。座元の長太夫は大島へ流罪。狂言作者中村清五郎は神津島へ流罪。さらに、絵島の出世により旗本に取り立てられ、絵島の権威を利用しての酒池肉林(しゅちにくりん=贅沢三昧)をしていた兄白井平右衛門は武士の作法に乗っ取らずに斬首の刑。弟豊島平四郎は重追放となったのである。また、城側としては奥医師奥山交竹院は御蔵島へ流罪。奥山の弟喜内は死罪。小普請奉行金井六左衛門も八丈島への流罪となった。その他としては、多くの武士は「閉門」、「追放」など、商人たちも主に「流罪」に問われて、その数は1,500人余りとも言われる一大事件であったのである。
また、当時は、幼将軍家継(6歳)の後見役として、御側用人の間部詮房(まなべ あきふさ)が前代から引き続いての権力を握っていたが、彼は家継の生母月光院と不倫の関係にあったとも噂されてをり、彼の追い落としを画策したものだとも言われている。
つまりは、間部→月光院→絵島の関係を払拭することにより、前将軍家宣の正室であった「天英院」の権勢回復を狙ったものとの見方もされている。
信州高遠藩へお預けとなった絵島は、寛保元年(1741)4月10日、61歳で死亡している。生島新五郎の三宅島での消息は途絶えている。同地で63歳で没したとも赦免(あるいは、恩赦)で江戸へ帰ったとも言われているが、いずれも確実な証拠はない。

★御使番と坊主の心中
10代将軍家治の治世の明和4年(1767)5月12日、芝増上寺で御年寄を迎えての前将軍家重の六回忌法要が営まれた。家重の死んだのは宝暦11年(1761)6月12日であるから、実際の忌日より1ヶ月も繰り上げての法要であった。
この時、御年寄にお供をした「御使番」のお女中が増上寺の僧と心中をするという、前代未聞の事件を起こした。
「徳川実紀」の当日の条には、「三縁山(三縁山法度院)。惇信院殿(家重の諡号・しごう=戒名)霊廟に松平右近将監武元代参す」とだけ書かれてあり、余計な事は一切書かれていない。
前代未聞の事件であったため、御年寄、御使番、僧、のそれぞれの名は伏せられたものと思われる。
「御使番」の役目は、上記の役職の欄を見てもわかるように、御広敷御錠口の開閉を管理した。上級お女中の代参にお供をしたり、上級お女中の用向きを御広敷役人に取り次いだりした。と頭の回転が速く、しっかり者でなければ務まらなかった。
従って、出先で心中をするようなことは、とうてい考えられないことだったのである。この時のお女中にはよほど切羽詰まった事情があったのであろう。
相手の僧の名も伏せられてあるが、心中をするくらいであるから、二人は大分以前から付き合っており、親密な関係であったにちがいない。お女中がどのようにして度々増上寺を訪ねるようになったかも明らかではないし、どのようにして大奥から抜け出したかも明らかではない。が、ともかく、二人は事あるごとに合いびきを重ねて情を結んでいたのであろう。
増上寺に限らず、将軍家と関わり合いのある寺では、大奥女中を大切にもてなした。そのために、眉目秀麗(びもくしゅうれい=端正)な若い僧を多く集めて接待をさせ、法事が済んだ後もゆっくりとくつろげるよう配慮したのである。
約50年前の「絵島生島事件」が大きな騒ぎとなったにもかかわらず、このように、大奥にはやはり旧態依然として男に飢えたお女中たちの「性への欲求」が常に渦巻いていたのである。
この事件の裁決がどのようなものであったかも、全く記録には残されていない。

★延命院事件
「延命院」は、上野近くの谷中(やなか)にある日蓮宗の寺である。その創建は3代将軍家光の頃、慶安元年(1648)に大奥のお女中たちの発願により建立された寺で、大奥お女中とは縁の深い関係にあった。
11代将軍家斉の治世の享和3年(1803)7月29日、延命院の住職であった日潤(にちじゅん・40歳)が捕らえられて死罪に処せられるという事件がが起きたのである。
僧が処罰されるのは、その多くは「女犯」(にょはん)であり、そうそう珍しいことではない。罰としては日本橋のたもとに数日間晒される程度で通常ならば一件落着であった。
しかし、日潤の場合は「死罪」という極刑に処せられたのだ。
当時の本件を摘発し裁いた寺社奉行脇坂淡路守安董(やすただ)の判決文によると、
「日潤は源太郎妹ぎん、大奥部屋下女ころと密通に及び、そのほかの女三人へ艶書を送り、彼女らが参詣したとき密会をとげた。また、通夜と称して、女を寺内へ寝泊りさせた。殊にころが妊娠したのを知り、堕胎の薬まで与えた。さらに寺内の工事のとき奉行所へ届けず、勝手に建て直しをした。重々不届きにより死罪とする」
というのが主旨であっる。
しかし、この判決文だけでは、通常の僧の「女犯」と替わりはない。また、寺の修繕にしても死罪になるほどの重要性は何も見当たらない。
事件のカギはどうやら「ころ」との関係がポイントのようである。
日潤は、当時としてはまれにみる美僧だったらしい。彼は歌舞伎役者の尾上菊五郎の息子とも言われているが、後の研究でその真実は否定されつつある。
日潤は出家前の俗名を「丑之助」(うしのすけ)といい、八丁堀の踊りの師匠市村熊次郎について稽古をしていた。その頃、小間物屋の娘「お梅」も踊りを習いに来ていて親しくなったといわれている。
お梅はフッとしたきっかけで西丸大奥の御中臈梅村の部屋子として抱えられることとなった。そこで、主人の「梅村」と同じ名前の「梅」では都合が悪いので「ころ」と改名した。判決文の中の「ころ」が彼女のことである。
一方、丑之助は、彼の美貌に目をつけた延命院の住職日寿に誘われて出家をした。そして、日寿が亡くなると32歳という若さで跡を継いだ。
以後は、先代にも増して女性の参詣客を集めることに力をそそいだと言われている。そして、大奥にあがった「ころ」をも大いに利用して寺の名を上げていった。
大奥の女性たちを引き付ければ、寄進などの利得も大きい。そして、大奥との結び付きを誇示すれば諸大名への影響力も増し、一般庶民への寺の宣伝効果も絶大なものになるからである。
日潤は、自らだけではなく、知り合った歌舞伎役者なども出入りをさせ、その魅力を売り物として、多くの大奥お女中、大名家の奥女中、町人の妻女なども集めて、彼女たちに「性的説法」を施していたというのであるから、世間の評判になるのも至極当然のことであった。やがて、その噂が幕府にも届き、寺社奉行脇坂としても放置できなくなったのである。脇坂は女スパイを潜入させて内情をこと細かに調べ上げて、ついに、処断を下したのであった。
大奥にあがった「お梅」改め「ころ」の手引きで、まずは主人の梅村が参詣するようになり、そこからは、「いもづる式」に大奥お女中の参詣が後を絶たなくなっていったのである。
脇坂は、調べが進む中で、大奥お女中との関係が余りにも多いことで、これらの全てのお女中たちを摘発したら、それこそ、幕府の威信にも関わると判断をし、さしさわりのない程度で町人の娘「ぎん」と「ころ」だけを取り上げて罪状を認めさせたのであった。
一説には、日潤が「性」の功徳を授けた女性は実に60人余りとまで言われている。
なお、日潤の手先となり、延命院に寝起きをして、信者集めや自らも女犯を繰り返していた納所坊主(なっしょぼうず=寺の庶務や会計を行う下級の坊主)柳全(りゅうぜん)も死罪にはならなかったが、追放処分となっている。

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