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(参考文献等:稲垣史生著「江戸ものしり475の考証」・花咲一男監修「大江戸ものしり図鑑」・TV東京「大奥」他)

江戸城と将軍編

☆江戸という地名と江戸城
平安時代から鎌倉時代には「武蔵国」(現・埼玉県、および、東京都)の一部であった、現在の皇居の地に館を構えていたのが「江戸重継」(えど しげつぐ)であった。そこでこの地を「江戸」と呼ぶようになった。
しかし、15世紀前期に江戸氏は没落をしてしまい廃墟となってしまった。
その後、扇谷上杉氏(おおぎがやつ うえすぎし)が享徳の乱(享徳3年・1455、12月27日)での必要性から、康正3年(1457)に家臣であった太田道灌(おおた どうかん)に命じて同じ地に江戸城を築城した。以後は正式に「江戸城」と呼ばれることとなった。
当時の江戸城は、「江戸城静勝軒詩序井江亭記等写」(正宗龍統)や「梅花無尽蔵」(万里集九)から推測するに、「子城」、「中城」、「外城」の三重構造となっていたようである。そして、「子城」と言うのが「本丸」の漢語表現ではなかったかとされている。
太田道灌は、優れた武将で数々の武功を挙げたが、主君である扇谷定正の評価が低すぎるなどと訴えたりしたため、当時の「下剋上」を恐れた定正により暗殺された。
やがて戦国の世となり、舞台は京都を中心とした大坂、美濃、尾張などが栄えるようになり、江戸城は見向きもされず荒廃をしてしまっていた。
天正18年(1590)4月、豊臣秀吉の北条氏の小田原城攻めで、徳川家康は先鋒隊を任され、見事、小田原城開城に成功した。
戦の後の「論功行賞」で、家康の家臣たちの多くはそれ相応の領地が増えるものと考えていたが、秀吉から告げられた言葉は、これまでの領地であった出身地の三河を初めとする遠江、駿河、甲斐、信濃を召し上げての関東(上野、下野、武蔵、下総、相模、上総、伊豆、小田原)への領国替えであった。
家康は決意の言葉として、
「我、たとひ旧領を離れ百万石の領地さへあらば、上方に切ってのぼらん事容易なり。城を築く場所をあやまればすなわち秀吉のわなにはまり、天下の道も閉ざされ候」
と、家臣に言ったといわれている。
居を構えるにあたっては、3つの候補地があった。それは、北条氏の居城のあった小田原、鎌倉幕府が置かれていた鎌倉、そして、江戸であった。
しかし、城を構えるには3つの条件が必要であった。一、防御力。二、経済の発展性。三、港湾施設。
家康は考えた。
==小田原では、北条氏を倒したことによる領民の反発を買うかもしれない。では、鎌倉はどうか。目の前には海が開け、背後は三方が山に囲まれて要害としては申し分がない。だが、大きな街作りには適していない。では江戸はどうか?==
「江戸城静勝軒詩序」によると、
「江戸は茅葺(かやぶき)の家が100軒ばかりなれども、商旅大小風帆なり(さまざまな船が行きかい)、安房の米や信濃の銅、和泉(大坂)の珠玉、日々市を成せり」
と、当時は人口が少ないにもかかわらず、非常に商業活動が盛んな地であったようである。
そして、秀吉からも「江戸あたりがよろしかろう」との口添えもあり、ついに、家康は江戸に居を構えることとしたのである。
家康はこんな言葉を残している。
「御身(家康)はこれより東の方、江戸という所あり。他国もて吟味するにいとも形勝の地なり、その所を本城と定められんこそよけれ」
この言葉を聞いた秀吉は、「誠、篤実一遍の人なりや」と誉めたたえたと言われている。
秀吉にしてみれば、「できるだけ遠くに住んでもらいたい」という思いもあったのであろうが、家康は家康で、「秀吉の言葉に背いたら、どんな言いがかりをつけられるか知れたものではない」という思いもあったようである。
こうして、家康は江戸に居を構えることとしたが、当時は、城の東側は低地で海水が入り込む茅(かや)や葦(あし)原野。西南は茅やススキの野原が連なる武蔵野の台地がどこまでも広がっていた。さらに、近くには「隅田川」や「利根川」なども江戸湾へ流れ込んでいた。
居住地や耕地を造るには非常な困難を極めた。だが、文禄元年(1592)から始まった秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)で、家康は参陣を免れたため、余分な散財をすることなく、着々と江戸の街造りに専念することができたのも幸いであった。
戦がなくなれば家臣たちは暇になる。家康は、主に下級武士たちに命じ、まずは利根川の流れを東に向きを変えさせた。(利根川東遷事業)。そして、葦(あし)原野を山の手から運んできた土で埋め立てをし、城の付近の江戸湾をも埋め立てていった。
この利根川東遷事業は家康が死んでもなお続けられ、およそ40年の歳月を要した。
慶長3年(1598)8月18日、秀吉が亡くなり、慶長5年(1600)、家康は関ゲ原の戦いで勝利をおさめ、慶長8年(1603)征夷大将軍となって江戸に幕府が開かれた。これにより江戸は一躍、日本の中心地としての繁栄の道を歩みはじめたのである。
※なお、最近の新史料では、公家近衛前久(このえ さきひさ)の「前久書状」を分析した結果、「青野ケ原ニテノ合戦」との記載が見つかり、さらには、毛利家一族の吉川広家の書状や「慶長記略抄」の中の狂歌にも、「青野ケ原」との記載があることから、「関ケ原」ではなく、「青野ケ原」で戦いが繰り広げられたのが正しいのではないかと考えられるようになってきた。
「関ケ原」は南北を山に挟まれた「狭間」(はざま)であるが、「青野ケ原」は広い盆地となっている。双方は直線距離にして約8kmほど離れている。
では、なぜ「関ケ原の戦い」が通用されるようになったかであるが、慶長5年(1600)の戦いの直後の10月に書かれたと思われる島津家文書に、「関ケ原ニ於ヒテ・・・」と書かれてあったことから、広く「関ケ原の戦い」として一般的となってしまったようである。
しかしながら、西軍、東軍の陣地配備図を見るかぎり、やはり「関ヶ原」で大決戦が行われたのが史実のようである。

☆千代田城
徳川家康が江戸へ入府してから一時は、「江戸城」または「江城」(こうじょう)とも呼ばれることもあったが、やがては、正式名称を「千代田城」または、「舞鶴城」(ぶかくじょう)と呼ぶようになった。通常は、武士も庶民も、ただ単に「お城」と呼んでいた。また、庶民は親しみを込めて「千代田のお城」などと呼ぶこともあった。
そして、家康は全国の大名たちに命を下し、世に言う「天下普請」を断行し、諸大名に賦役を課して堀や石垣、本丸、二の丸などを堅固なものへと立て替えていった。
現在の皇居の内堀に囲まれたところが本丸で、総面積30万坪といわれている。
築城当時は五層に天守閣をすえた堂々とした造りであったが、明暦3年(1657)のいわゆる「振袖火事」の大火で類焼し、幕府経済も逼迫していたため、復興することなく明治維新まで放置されてしまった。
「江戸城」という呼称が復活したのは明治に入ってからである。

☆江戸時代「将軍」のことを「将軍さま」とは呼ばなかった?
時代劇では、「将軍さまのお成り・・・・・・」などと仰々しく台詞を言ったりするが、実は、「公方さま」(くぼうさま)または「上さま」「御公儀さま」「大樹さま」(たいじゅさま)と呼ばれたのが正しい。
正式には、「征夷大将軍」といい、蝦夷(えぞ=東北地方)を征伐するという役職名であった。
足利義満が将軍となった時、「公家に摂政なる棟梁あり、沙門(さもん=寺院)に門跡なる棟梁あれども武家になし、何とぞ公方の号を・・・」と第98代長慶天皇に願い出たのが最初。

☆公方さまが隠居したら何と呼ぶ?
将軍が隠居をすると西丸へ移る。そして「大御所さま」と呼ばれた。しかし、条件があった。一つ目は、新将軍の父であること。二つ目は前将軍であること。そのどちらが欠けても「大御所さま」とは呼んではいけない。
そこで、子どものいない将軍は「養子縁組」をして名乗ろうとした将軍もいた。
ちなみに、大御所と呼ばれた将軍は家康を除いては以下の通りである。
※2代将軍秀忠・・・3代将軍家光の将軍宣下を受けて大御所となった。
※8代将軍吉宗・・・9代将軍家重に職を譲り大御所と名乗った。家重は生まれながらの言語不能(脳性マヒ)であったため、大御所としての吉宗が全ての実権を握っていた。
※9代将軍家重・・・10代将軍家治に職を譲り大御所と名乗ったが翌年には死亡してしまった。
※11代将軍家斉・・将軍の職に就いたことのない実父治斉(はるなり)を大御所と呼ばせようとしたが、老中松平定信の「先例がない」の一言で断念をした。しかし、12代将軍家慶に職を譲り自らは大御所と名乗った。
※15代慶喜・・・・・・息子家達に慶応4年(1868)に家督を譲り、大御所としての要件は満たしていたが、前年の慶応3年(1867)10月14日にすでに「大政奉還」をしており、将軍職を返上していたので、大御所と呼ばれることはなかった。
※また一説には、5代将軍綱吉も自らの子どもがいなかったため、甥の綱豊(6代家宣)を後継者と決め、養子として迎えて自らは大御所に退くつもりだった、とも言われているが、宝永6年(1709)1月10日に急逝してしまったので実現はしなかった。

☆家康の将軍職移譲
家康は将軍に任じられてからわずか2年で、慶長10年(1605)に3男秀忠に職を譲り駿府城へ隠居をし「大御所」と名乗った。
これには諸説があるが、その一つとしては、
将軍職を息子(秀忠)に譲ることで、もはや、天下は徳川家が代々治めていく、という姿勢を知らしめる必要があった。
当時は、まだまだ豊臣恩顧の大名たちも多く、特に西国の大名たちからは「家康は天下の家老であって、豊臣秀頼の家臣に過ぎない」との風評があった。
また、秀頼(12歳)に孫の千姫(8歳)を嫁がせたことで、家康自身は豊臣家との関係を維持しつつ天下を治めるつもりではあったものの、秀頼が元服でもしたら「政権を豊臣家に戻すもの」と考えていた大名も多かった。
こうした風聞を打ち消すためにも、早期移譲が必要だったと考えられる。

☆家康はなぜ駿府へ隠居したか
家康は江戸に幕府を開いた。従って、秀忠に将軍職を譲ったからには、同じ江戸にいたのでは、秀忠の権威が上がらない。と考えたからではないだろうか。
とにもかくにも、諸大名に対して、秀忠こそが天下一であることを印象付けるためのパーフォーマンスであったと考えられる。
駿府を選んだ理由については、芝増上寺の僧が家康から聞いた話として書かれた「廓山和尚供奉記」(かくざんおしょうぐぶき)に残されている。
「予、当国を擇(えら)びて住するに、凡そ五つの故あり」から始まる。
「一に曰く。我、幼少の時、此地に住したれば、自ら故郷の感あり、忘れべからず。幼時見聞せし者の、今成長せしを見るはなかなか愉快なる事」
 家康は8歳から19歳まで今川家の人質となっていたが、今川氏は三河の松平氏(徳川の旧姓)の家臣たちを取り込むために、竹千代(後の家康)を我が子と同様に自由に遊ばせ、太原雪斎(たいげんせっさい)という今川家の軍師でもあった高僧に
 学問を習わせている。また、今川義元の一字を与え「元康」という名前も与えている。さらに、14歳で駿府静岡浅間神社において元服をさせ、16歳で今川家一門の娘「関口瀬名」(瀬名姫=築山殿)を嫁がせた。家康にとっては、幼少時を過ごした
 思い出の地というわけだったのである。
「二に曰く。富士山高く北に秀でて、山脈其の左右に列すれば、冬暖にして老を養ふに最も便なり」
 これは読んでの通りであるが、現代で言えば富士山による「フェーン現象」によって、駿府は温暖であり、健康を第一と考えていた家康にとっては過ごしやすい土地だったようである。
「三に曰く。米穀の味、他国に冠絶せり」
 ある日の膳を見てみると、麦飯に駿河湾で揚がった連子鯛の焼き魚、旬の野菜の天ぷら各種、ナスの味噌煮、そして、味噌汁の具としては、大根、里芋、豆腐、油揚げ、などとなっている。
 特に、駿府地方で栽培されていた「折戸ナス」の味噌煮は大好物だったようである。また、鯛の天ぷらで死亡した、と言われるほど、駿河湾の海の幸もこよなく愛したのであった。
「四に曰く。南西に大井、安倍の瀑流あり、北東に箱根山、富士川の剣あり、要害最も堅固なり」
 これは、西国の豊臣家恩顧の大名たちが挙兵をして江戸へ攻め入ろうとしても、箱根山の手前で打ち取ることができる。秀忠は「戦下手」。そこへいくと、家康は数々の戦火を潜り抜けているので、江戸の防波堤となる覚悟もあったようだ。
 また、安倍川については、当時は更地を流れており、一度氾濫をすると駿府の街全体が濁流に埋まるほどであったが、駿府の「天下普請」の際には、薩摩藩(島津忠恒・ただつね)に命じて流れをやや西に向け、「薩摩土手」として名を遺す、
 高さ5.5m、長さ4.3kmの土手を築かせている。
 なお、「天下普請」と聞くと、多くの方々は千代田城の天下普請を真っ先に思い浮かべると思いますが、実は、駿府城およびその周辺地域においても「天下普請」は同時進行していたのです。
「五に曰く。幕府に参勤の大小名等、来て吾を見るに便ありて、毫(ごう)も道も枉(ま)ぐるの労あるなし」
 参勤交代(大名編を参照)は3代将軍家光により制度化されたが、それまでにも、家康に気に入られようと、また、反意のないことを示すために、将軍家(江戸)へ参勤する大名も多かった。しかし、家康はその途中の駿府に住むことで、「大名たちも、
 駿府を素通りするわけにはいくまい」と、暗に、江戸の往き還りには家康にも拝謁するよう仕向け、西国の大名たちの忠誠心を確かめていたのだ。事実、東海道を下って安部川を渡ると、まもなく正面に駿府城が立ちはだかり、毫(堀)を迂回しなければ
 ならないように設計されている。

☆駿府と江戸の関係
★家康は駿府城で「大御所」と名乗り、隠居とは名ばかりで、実権を握っており、令を発するにあたっては、必ず秀忠に一読させ秀忠の名で発布させた。つまりは、駿府は「司令部」であり、江戸は「実行部」だったのだ。
★駿府と江戸での食い違いをなくするため、家康は老臣の本田正信を仲介役に任じ。労をとらせている。
★これまでの譜代の家臣の大部分を秀忠付きにし、家康の死後、駿府(家康側近)と江戸(秀忠側近)での争いを起こさせないように配慮している。
★従って、駿府には家臣としての武士はさほど置かず、秀忠に代わり「幕府の基礎固め」の政策立案をするため、各方面からの情報や知識を取り入れている。主な人物としては、
※僧・金地院崇伝(以心崇伝)・・・・・・戦術顧問とし、後の「武家諸法度」を作成させた。
※儒学者・林羅山・・・・・・学問、文教の政策顧問とし、「中庸述」という本を書かせた。
※商人・茶屋四郎次郎・・貿易、経済顧問とし、「朱印船」により東南アジアとの交易を許し、財政面の柱とした。
※米国人・ウイリアム・アダムス(=三浦按針・みうらあんじん)・・・外交顧問とし、諸外国の正確な情報収集にあたらせ、オランダとの国交を結ぶ。後の出島でのオランダ貿易の基礎をつくった。

☆武家諸法度
江戸幕府が慶長16年(1611)に武家から「誓紙」(せいし)を取り付けた3ヶ条に、家康の戦術顧問であった金地院崇伝が10ヶ条を付け加え、元和元年(1615)7月に2代将軍秀忠が、通称「元和令」を発布したのを初めとする。
法度は全国各地の大名や徳川家家臣などの武家を対象とし、将軍の交代とともに改訂され、寛永12年(1635)、3代将軍家光が「参勤交代」の制度や「大船建造の禁」などの条文を加え19ヶ条とし、通称「寛永令」として発布した。
5代将軍綱吉は、寛文3年(1663)に自らが発布した「諸士法度」と統合し、天和3年(1683)、新たに通称「天和令」を発布した。
8代将軍吉宗は6代将軍家宣の定めた「正徳令」を破棄して、「天和令」を自らも守り永く伝えることを命じ、それ以後、武家諸法度の改訂は一切行われなくなった。
★「寛永令」
一、文武弓馬ノ道、専ラ相嗜ムベキ事。
   学問や武芸を奨励している。
一、大名・小名在江戸交替相定ムル所ナリ。毎歳夏四月中、参勤致スベシ。従者ノ員数近来甚ダ多シ、且ハ国郡ノ費、且ハ人民ノ労ナリ。向後ソノ相応ヲ以テコレヲ減少スベシ。但シ上洛ノ節ハ、教令ニ任セ、公役ハ分限ニ随フベキ事。
   なお、この条文には書かれていないが、幕府内での申し合わせ事項(付則)として、次のような通達も出されている。
  ※参勤交代は、あくまでも「軍事行軍」とみなす。
  ※先触(「下に〜」「下に」の発声)は、当国の領内と他藩の領内に入る時、出る時。江戸へ入る時に限る。
  ※参勤の道中における宿場町などの宿(本陣、脇本陣)へ入るのは夜五つ(午後8時)までとする。
  ※出立は七つ(午前4時)とする。必要の趣ある時は幕府の許可を得ること。
一、新規ノ城郭構営ハ堅クコレヲ禁止ス。居城ノ隍塁・石壁以下敗壊ノ時ハ、奉行所二達シ、其ノ旨ヲ受クベキナリ。櫓・塀・門等ノ分ハ、先規ノゴトク修補スベキ事。
   新たに築城することは厳禁とする。居城の堀、土塁、石塁などが壊れたときは、奉行所に申し出て指示を受けること。櫓、塀、門などは元通りに修理すること。
一、江戸ナラビニ何国ニ於テタトヘ何篇ノ事コレ有ルトイヘドモ、在国ノ輩ハソノ処ヲ守リ、下知相待ツベキ事。
   江戸や他藩でたとえ何かの事件が起きたとしても、国元にいる者はそこを守り、幕府からの命令を待つこと。
一、何所ニ於テ刑罰ノ行ハルルトイヘドモ、役者ノ外出向スベカラズ。但シ検使ノ左右ニ任セルベキ事。
   どこかで刑罰が執行されていても、担当者以外の出向いてはならない。検視者に任せること。
一、新儀ヲ企テ徒党ヲ結ビ誓約ヲ成スノ儀、制禁ノ事。
   謀反を企て、仲間を集め、誓約を交わすようなことは禁止とする。
一、諸国主ナラビニ領主等私ノ諍論致スベカラズ。平日須ク謹慎ヲ加フルベキナリ。モシ遅滞ニ及ブベキノ儀有ラバ、奉行所ニ達シソノ旨ヲ受クベキ事。
   諸国の藩主や領主は私闘をしてはいけない。日頃から注意しておくこと。もし争いが起きた場合は奉行所に届け出て、その指示を仰ぐこと。
一、国主・城主・一万石以上ナラビニ近習・物頭ハ、私ニ婚姻ヲ結ブベカラザル事。
   藩主、城主、所領一万石以上、近習(将軍の側近の武士)、物頭(常備の隊長)は、幕府の許可無く勝手に結婚してはならない。
一、音信・贈答・嫁娶リ儀式、或ハ饗応或ハ家宅営作等、当時甚ダ華麗ノ至リ、自今以後簡略タルベシ。ソノ外万事倹約ヲ用フルベキ事。
   贈物、贈答、結婚の儀式、宴会や屋敷の建設などが最近華美になってきているので、今後は簡略化すること。その他のことにおいても倹約を心掛けること。
一、衣装ノ品混乱スベカラズ。白綾ハ公卿以上、白小袖ハ諸大夫以上コレヲ聴ス。紫袷・紫裡・練・無紋ノ小袖ハ猥リニコレヲ着ルベカラズ。諸家中ニ至リ郎従・諸卒ノ綾羅錦繍ノ飾服ハ古法ニ非ズ、制禁セシムル事。
   衣類の等級を乱れさせてはならない。白綾は公卿(=三位)以上、白小袖は太夫(=五位)以上に許す。紫袷、紫裡、綾、無紋の小袖は、みだりに着てはならない。家中の下級武士が綾羅や錦の刺繍をした服を着るのは古くからの定めには
   無いので禁止する。
一、乗輿ハ、一門ノ歴々・国主・城主・一万石以上ナラビニ国大名ノ息、城主オヨビ侍従以上ノ嫡子、或ハ五十歳以上、或ハ医・陰ノ両道、病人コレヲ免ジ、ソノ外濫吹ヲ禁ズ。但シ免許ノ輩ハ各別ナリ。諸家中ニ至リテハ、ソノ国ニ於テソノ人ヲ撰ビコレヲ載スベシ。公家・門跡・諸出世ノ衆ハ制外ノ事。
   輿に乗る君主は、徳川一門、藩主、城主、所領一万石以上、国持ち大名の息子、城主、侍従以上の嫡子、50歳以上の者、医者、陰陽道の者、病人等許可された者に限り、その他の者は乗せてはならない。ただし許しを得た者は別とする。
   諸家中においては、その国内で基準を定めること。公家、僧侶、その他身分の高い者は、その定めの例外とする。
一、本主ノ障リコレ有ル者相抱エルベカラズ。モシ反逆・殺害人ノ告ゲ有ラバコレヲ返スベシ。向背ノ族ハ或ハコレヲ返シ、或ハコレヲ追ヒ出スベキ事。
   元の主人から問題のあるとされた者を家来として召し抱えてはならない。もし反逆者、殺人者との知らせがあれば元の主人へ返すこと。行動が定かではない者は元の主人に返すか、または追放すること。
一、陪臣ノ質人ヲ献ズル所ノ者、追放・死刑ニ及ブベキ時ハ、上意ヲ伺フベシ。モシ当座ニ於テ遁レ難キ儀有ルニオイテコレヲ斬戮スルハ、ソノ子細言上スベキ事。
   幕府に人質を出している家臣を追放・死刑に処す際には、幕府の命を伺うこと。もし急遽執行しなければならない場合に執行する際には、その詳細も幕府に報告すること。
一、知行所務清廉ニコレヲ沙汰シ、非法致サズ、国郡衰弊セシムベカラザル事。
   領地での政務は清廉に行い、違法なことをせず、国郡を衰えさせてはならない。
一、道路・駅馬・舟梁等断絶無ク、往還ノ停滞ヲ致サシムベカラザル事。
   道路、駅の馬、船や橋などを途絶えさせることはせず、往来を停滞させてはならない。
一、私ノ関所・新法ノ津留メ制禁ノ事。
   私的な関所を作ったり、新法を制定して港の流通を止めてはならない。
一、五百石以上ノ船、停止ノ事。
   500石積み以上の船を造ってはいけない。
一、諸国散在寺社領、古ヨリ今ニ至リ附ケ来ル所ハ、向後取リ放ツベカラザル事。
   諸国に散在する寺社の領地で昔から所有しているところは、今後取り離してはならない。
一、万事江戸ノ法度ノゴトク、国々所々ニ於テコレヲ遵行スベキ事。
   全て幕府の法令に従い、どこにおいてもこれを遵守すること。

将軍宣下の儀式
ここでは、唯一史料として残る、享保元年(1716)8月13日に行われた、8代将軍吉宗の儀式を解説してみたいと思う。
★吉宗が朝五つ(午前8時)頃、衣冠束帯を身にまとい、「黒書院」(徳川一門が私的な儀式を行う部屋)に入り、「身固めの式」という穢(けが)れや邪気を払う儀式を行う。
★吉宗が「白書院」(徳川一門の公的儀式を行う部屋)へ移動し、まずは、御三家の一人ずつから祝辞を受ける。続いて、御一門と呼ばれる会津藩や桑名藩などが揃って進み出て祝辞を述べる。
★吉宗は「大広間」(幕府として重要な行事を執り行う部屋)の「上段の間」に座り朝廷からの使者を待つ。
  ちなみに、大広間は千代田城では一番広大な部屋で500畳もある。そして、「上段の間」、「中段の間」、「下段の間」からなっている。
★まずは、「勅使」2名が吉宗のすぐ前まで進み出て、これより将軍宣下の儀式を執り行うことを示すかのように無言の挨拶だけをして、後ずさりで中段の間まで下がって脇の方に座る。
★次に、「院使」2名が中段の間まで進み出て、同じく、無言の挨拶だけをして院使もすぐに後ずさりで中段の間の勅使と向い合せの脇側に座る。
★庭より「告使」と呼ばれる、衣冠束帯の者が縁近くまで進み「ご昇進」「ご昇進」と2度声を張り上げる。告使はそのまま後ずさりをして姿を消す。
★大広間の横の奥より、籐(とう)で編んだ「覧箱」(らんばこ=宣旨を入れるてある箱)を頭上に捧げ持って「官方副使」(かんがたふくし)が現れ、覧箱は「左大史」(さだいし)に手渡される。
  この「官方副使」も「左大史」も朝廷で文書を作成する掛りである。
★左大史は数歩進んで、「高家」(こうけ=幕府側の儀式を司る者)に手渡す。
★高家は覧箱を捧げ持って吉宗の前に置く。高家は後ずさりをして上段の間の脇に座る。
 「覧箱」には6巻の巻物が納められている。
 ※「将軍宣下」の巻物・・・・・・・・・将軍に任ずる書面。
 ※「右近衛大将」を任ずる巻物・・右近衛府の長官に任ずる書面。
 ※「右馬寮御監」を任ずる巻物・・馬を管理する役所の長官に任ずる書面。
 ※「淳和奨学両院別当」を任ずる巻物・・・淳和院と奨学院の長官に任ずる書面。
 ※「源氏長者」の巻物・・・・・・・・・源氏の長であることを認める書面。
 ※「牛車」と呼ばれる巻物・・・・・・牛車に乗ることを許可する書面。
  この頃には、すでに廃止となった官職もあったようだが、代々受け継がれたようである。また、牛車に乗れるのは朝廷の高官だけに許されていた。
★吉宗は、6巻の巻物を一つひとつ開き、一読したように目を通しただけで、すぐにそばに控えている「若年寄」に巻物だけが手渡され、若年寄は6巻の巻物を持って次の間へと下がる。
★空になった覧箱は「高家」と「奏者番」が進み出て、まずは、高家が受け取り、すぐに横の奏者番に手渡す。
★奏者番は、後ずさりで脇へ下がり、用意していた「金子」を箱に入れる。これは「宣旨作成料」で、将軍宣下の巻物1巻は20両。その他の巻物には1巻当たり10両で計70両を入れて蓋をする。
  なお、この金子は「官方副使」と「左大史」の2人で折半をしての個人的臨時収入となることから、朝廷内でも、この任を引き受けたいと願い出る者が続出したと言われている。
★奏者番から左大史へ箱が渡され、左大史は箱を捧げ持って奥へと消える。
  これにて、全ての儀式が終了し、吉宗は晴れて将軍となったのである。


☆公方さまの一日
明け六つ(午前6時)頃・・・・起床。
                 中奥の「御小座敷」で起床。あるいは、奥泊まりをした場合は、大奥の「御小座敷」で目覚める。
                 起きた気配を感じると、中奥の場合は次の間に控えていた小姓が、奥泊まりの場合は御中臈がそばに近寄り、再度確認をして「もう」と声を張り上げる。
                 中奥泊まりでは小姓や小納戸役、奥泊まりの際は御中臈の介助を受けながら、うがい、房楊枝での歯磨き、歯磨き粉は赤穂の塩、洗顔をする。お召替え。
五つ(午前8時)頃・・・・・・・朝食。
                 中奥で朝食を摂りながら、御髪番の小姓に髭を剃らせ、月代(さかやき)を剃らせ、髪を結わせる。
                 朝食は一人寂しく召し上がる。(別項目の「公方さまの食事」参照)
                 食事が終了するのを見計らって医師が近寄り診察を始める。内科は毎日。外科、眼科、針科は特に異常を訴えなければ、およそ3日に一度。
                 しかし、この診察も大変である。医師といえども直接公方さまに触れることは許されず、公方さまの腕に糸を巻きつけ、2名の内科医が左右からやや引っ張るようにして脈を拝見。そして、舌なども拝見する。
                 腹痛などを訴えられた時のみ、着物の上から鼓(つづみ)を小さくして穴の開いた器具(聴診器)で腹音などを確かめる。
                 脈も腹音も正常に計れたかは???。
五つ半(午前9時)頃・・・・・お召替え。
                 裃(かみしも)に二本差しの正装にお召替え。
四つ(午前10時)頃・・・・・・総触れ。拝礼。
                 公方さまが、上御錠口に立つと小姓が綱を二、三度引っ張る。扉を隔てた中奥側の鴨居伝いに吊るしてある「鈴」が鳴る。「御鈴口衆」2人が松の小枝と小滝の図柄の扉の錠前を外す。御鈴廊下を少し行くと左手に
                 「御小座敷」がある。
                 この大奥へ入る時には、「御中臈」以上(御台所さまは除く)の上級御女中たちが左右に並んで迎える。御鈴廊下の幅は1間半である。
                 御小座敷で、御台所さまを始めとする大奥上級御女中(御中臈以上)たちとご機嫌窺いの対面をする。(「総触れ」という)
                 その後は、公方さまと御台所さまの2人が連れ立って御仏間へ行き、歴代の将軍や将軍家ゆかりの位牌に手を合わせる。
                 これらが終わって、やっと、自由時間となる。中奥へ戻って、武術の鍛錬をしたり、読書をしたり、儒学の講義を受けたりして過ごす。
昼九つ(正午)・・・・・・・・・・昼食。
                 中奥の御小座敷で小姓の世話で召し上がった。
                 また、開幕当初は1日2食で「昼食」はなかったようであるが、いつの頃からかは定かではないが後には3食となった。
八つ(午後2時)〜七つ(午後4時)・・・政務。
                  3人の御用取次衆に順次「上申書」を読み上げさせる。主に、人事や刑罰などの案件が多かった。
                  公方さまが何も言わなければ「決済済」として処理される。もし、何か意見を言えば、紙を挟んでおいて、その後に公方さまの「お言葉」を書き込む。
                  だが、公方さまも人の子。時間がかかったり、余りにも案件が多い場合は「嫌になった」、「もういい加減にしてくれ」と言いたくなる。。
                  そのような素振りが見えると、3人の御用取次衆が同時に別々の案件を次々と読み上げる。声が入り乱れているので何を言っているかはサッパリ分からない。
                  公方さまは「良きに計らえ」の一言で終了する。しかし、公方さまが「聴いた」ということで、「決済済」として処理される。
                  ただし、決済済の上申書ではあるが、その後は老中へ回付され、老中(場合によっては、大老や御側用人も加わり)の合議で「付則」や「細則」が付け加えられて所轄の部署へ返された。
七つ(午後4時)・・・・・・・・・面会等。
                 用向きで登城してきた御三家や大名などに面会をする。
                 面会者がなければ、自由時間。
                 あるいは、大奥へ入り御台所さまと談笑をしたりした。
                 この時は、お付きの(世話をする)御中臈などに、公方さまのことを「お上」(おかみ)とか、御台所のことを「御台」(みだい)などと気安く呼ばせたりした。これを「遊ばせ言葉」と言った。
七つ半(午後5時)頃・・・・・入浴。
                 風呂嫌いの公方さまの場合は、2〜3日に一度であった。
                 中奥の湯殿では、御小納戸役の者が「糠袋」で身体を擦る。但し、身体の部位が異なるごとに新しい糠袋に取り換えられた。
                 湯で流した後は、風呂桶に浸かる。「湯桶」と「水桶」が用意されており、好みに応じて湯や水を足した。
                 「湯揚がり場」では、小姓数人がいて、白木綿の浴衣を着せては脱がせて、身体の水分がなくなるまで何枚も着せ替える。およそ10枚前後が必要であった。もちろん、この浴衣は捨てられる。
暮れ六つ(午後6時)・・・・・夕食。
                 昼食と同じ。
夜五つ(午後8時)頃・・・・・就寝。
                 奥泊まりの際は、「上御錠口」で小姓が鈴を鳴らして合図をしてから潜るわけだが、大奥側では公方さま付きの月番「御年寄」1人が迎えて「お帰り遊ばせ」と言って迎える。
                 御小座敷も「上段の間」「下段の間」「次の間」などがあり、まずは下段の間で一休みをする。
                 この間に今宵の相手の側室や御中臈などは、上段の間の寝所で白無垢姿でただただ待つだけ。
                 やがて、公方さまが立ち上がり「上段の間」へ向かわれるが、この時、公方さまのお世話をしていた御中臈が小さな「鈴」を鳴らす。これが寝所へ入られる合図である。
                 公方さまが寝所へ入られると、月番御年寄と御中臈2人の3人で、高坏(たかつき)に乗せたお茶、お菓子、たばこ盆などを持ってくる。
                 御年寄は次の間で就寝をし、よほどの事が無い限りは二度と寝所へ入ることはできなかった。
                 御中臈2人は寝所の襖の外で一睡もせずに見張り番として警護をし、公方さまが夜間に厠(かわや=トイレ)に立たれた折は、御中臈が新しい「枕」と交換をする役目もあった。
                 公方さまはしばし今夜の御伽(とぎ)相手とお茶を飲みながら歓談をしてから蒲団に入り、夜のお努めをする。
                 寝所の畳は厚さ約7寸(21cm)もあり、その上に分厚い敷き蒲団2枚が重ねて敷かれてある。これは、床下などからクセ者などが刀を突き刺しても、やすやすとは届かないように配慮されたものである。
                 なお、寝所の同じ部屋に屏風を隔てて女性の御坊主、または、御中臈が背中を向けて蒲団に入り、寝ずの番で聞き耳をそばだてる「お添い寝役」(「お添い伏し」とも呼ばれた)が始められたのは5代将軍綱吉の最晩年の、
                 いわゆる「柳沢事件」が発覚してからである。
                 ちなみに、お添い寝役は翌朝、月番御年寄に一部始終を報告した。
※表とは・・・・・・・・・・・・・・公方さまの政務を行う場所。男子役人の空間。
※中奥とは・・・・・・・・・・・・公方さまの居住区。プライベート空間。
※大奥とは・・・・・・・・・・・・大奥お女中たちだけの生活空間。ここへ入る時に、「上御錠口」(通称「お鈴口」)の鈴を鳴らして、大奥側から「御錠口番」が錠前を外して公方さまを迎え入れる。
                 「大奥編」で詳しく述べるが、基本的には公方さま以外は男子禁制ではあったが、御側用人や老中などの役職者は御用の筋があれば立ち入ることが許された。

☆公方さまの食事

公方さまの食事には必ず「鱚」(きす)の焼き魚が付いた。これは、言わずと知れた喜ばしいという字が付くので縁起かつぎであった。また、朝食には味噌汁に落とし卵が定番であった。
奥向きで作られる公方さまの食事は、いつも同じものを10人前ほど作り、1膳は「公方様御膳所掛」という台所の責任者が食べ、「お毒見役」が2膳に少量ずつ箸をつけて毒が盛られていないか、または、腐ってはいないかを確かめた。
そして、中奥で公方さまの前には2膳が用意され、公方さまは1品に二箸をつけると、「お代わり」と称して、そばにはべる小姓(大奥で食される時は、御中臈)が、もう一つの膳の品と取り替えて出された。
また、公方さまの食べる頃には、すっかり冷え切っていて、味もそっけもなかった。落語でおなじみの「目黒のサンマ」は温かいものを食べたことのない公方さまを皮肉った話である。
ちなみに、10-1-2-2=5人前残るわけですが、お勝手方の上級者たちがいつも「ありがたく」食べていた。
なお、御台所さまにも「御台様御膳所掛」、「お毒見役」がいて、公方さまと全く同じように膳が運ばれた。
また、歴代の将軍さまや将軍家ゆかりの者の忌日(きにち=命日)には「精進料理」となった。代が進むにつれてその日は当然のことながら多くなっていった。

☆公方さまの寝所には二人の女がいた

そうなんです。ただし、一人はもちろん公方さまの寵愛を受けるお方で、公方さまと床を一つにしました。しかし、もう一人の中揩ヘ畳一枚ほど離れたところに床を敷き公方さまに背を向けたまま一睡もせずに、公方さまと床を一つにされるお方の睦言に耳をそばだてました。この方を「お添寝役」(お添伏)と呼びました。そして、翌朝になると、御年寄に一部始終を報告しました。
直接の原因としては、五代将軍綱吉のとき、寵臣の柳沢甲斐守吉保が、自分の意のままになる中揩つかって、公方さまと床を一つにされていた最中に100万石の加増をねだらせたという。この一件は未然に防がれたが「柳沢騒動」(柳沢事件)として、以来、人権無視の監視中揩ェ付くようになったというわけです。
でも、監視役の中揩ヘ、すぐそばで、公方さまがセックスをされている音を聞くと、さぞかし身体が火照ったことでしょう。悲しい寂しい役目ですね。

☆公方さまに謁見するときの決まり
 
謁見には「お目見得(おめみえ)」「御前御用」(おんまえごよう)などといろいろな内容の御用があり、呼ばれた者が平伏していると「それへ」と将軍から声がかかることがある。
「近くそれへ進み出よ」という意味であるが、決して、本当に前に出てはいけない。匍匐蠢動(ほふくしゅんどう)といって、身体を左右に動かし「進みたいが進むことあたわず」という姿勢が慣例であった。
そして、あくまでも、元の座で必要なことをお答えした。また、「お目付役」が必ず同席していて、テレビで見るように、袴(はかま)の裾を折って前に出るようなことが実際にあったりすれば、即、蟄居(ちっきょ=自宅謹慎)処分を受けた。
幕末も近い頃、西郷隆盛が15代将軍徳川慶喜に謁見した時、将軍から「それへ」と声がかかり、耳が遠いのかと思い、本当に前に進み出てしまった。
後刻、「お目付役」に叱責を受けたが、隆盛は動じることなく「そういう古い仕来たりに固執しているから幕府は倒れるのだ」とやりかえしたとか。

☆お庭番
8代将軍吉宗が紀州から江戸城へ入ったとき、供をしてきた者の内17名が将軍じきじきの命令で働く役目を仰せつかった。
普段は平凡な武士の姿で誰が「お庭番」かは見分けがつかないようにした。他の役人とはいっさい交際を禁じられており、世襲制で結婚も同じお庭番同士の家柄で結ばれた。
将軍より指令を受けると、帰宅せずにそのまま大丸呉服店の奥の一室で指令の内容に応じた変装をして出発した。
そして、半年も一年も帰らないことがあったという。もちろん、忍術の心得を持っていた。また、旅先で死んだり怪我をするようなことがあっても、ご公儀からは何の保護も与えられなかった。いわば、使い捨てということらしい。
さらには、時には旗本連中の陰口などを直接公方さまに上申したりもしたので、旗本連中も「あの男はお庭番に違いない、滅多なことは口にすまいぞ、それ来た、油断するでない」と敬遠したという。

☆将軍の立ちションベン
江戸城内にいるときは、もちろん厠へ行ったが、式典などで装束を身に着けたときや外出時(例えば、内裏への参内とか寺院仏閣詣)などでは、おいそれと簡単には小便もままならなかった。
そこで、家康は土田孫三郎という者に「公人朝夕人」(くにんちょうじゃくにん)という肩書きを与え、尿筒(にょうづつ)と呼ばれる竹筒をくり貫いたものを装束の袴の下から差し込み放尿した。尿筒は樋(とい)なので、庭などに流れていった。
ちなみに、この役職は十人扶持で脇差一本という軽い身分であったが、公方さまじきじきに仕える役目であったので、誇りを持って土田家が世襲をした。明治維新で江戸幕府が倒されるまで250年余りを土田家はこの役職一筋に生きてきた。


江戸城と将軍編